[未校訂]二五一四 孝明 嘉永七年(安政元年)六月十四日・伊賀
伊勢・大和・河内・和泉・山城(一八五四)・摂津・近江・丹
波・丹後・越前・紀伊・尾張等の広範囲にわたり大地震があ
った。当地方ではこの前日十三日の昼九ツ時(十二時)にも
小震があり、十四日は朝八ツ時(午前二時)から揺り初め、
翌日夕刻に至って愈々激しく十六日まで昼夜断続的に揺れ続
いた。十四日は凡そ十回、夜八ツ時大震、十五日は朝五ツ時
(午前八時)大震、同日十四回。余震は八月中旬まで十七回
に及び、当地に於てはこれが為め人心は極度に怯え、不安と
危惧に襲はれて安眠することが出来ず、小屋掛を造って屋外
で寝起する者や、大津川辺の竹籔中に避難する者さえあっ
た。かくて八月の終りに至つて全く鎮静したので人心漸く安
堵して蘇生の思ひをしてゐたところ、十一月四日五ツ半時
(午前九時)俄然、大きな地鳴りと共に揺れ出して人々を驚
かせた。続いて翌五日暮六ツ時(午後六時)夜四ツ時(午後
十時)また大地震があった。
(中略)
この時当地に於ても少なからぬ被害があったことゝおもはれ
る。千原村から大阪川口役所へ提出した「地震損害書上帳」
に拠ると、千原天神社石燈籠の倒れたもの八基、家屋の倒壊
二棟(武八郎、治兵衛(田口)の両家)同じく大傾斜九棟、
其の他壁の破損、塀の崩壊等多数に上ってゐる。死人は無か
った。これは比較的軽少な被害であるが、他村では相当大き
な損害を蒙ったらしい。助松村専称寺の正門が倒壊したのも
この時であった。(後略)