[未校訂](片町・沢木家文書、よみ下し文)
嘉永七年(一八五四)霜月(十一月)四日、朝から青天西風
吹、五ツ半頃大地震、片町には格別のこともなかつたが向い
の吉野屋は二寸ばかりはいこんだ。かりやの山家屋、豊田屋
の土蔵が崩れ、御関所の石垣が崩れ、殿様御屋敷の土塀が崩
れ、清水の家が三・四軒たおれた。大地は一尺五寸位えみ、
山の方はよかつた。本町は一向に破損がなかつた。四日昼か
ら高潮が堀川をのりこえ、上堀合半分位潮水が入つた。新居
の今切が半道程崩れたので、塩のみちひきが早くなつて沖通
りの田は一面の水になつてしまつた。
大地震につき四日昼から裏畑へ五間に四間の小屋掛をして始
めの三日ばかりは、六十人余りここに泊つた。七日昼過ぎか
ら又一つ、二間に四間ばかりの小屋掛けをして、八日頃から
ここで三十三・四人暮して朝夕にたき等して十六日迄寝泊り
した。
十六日夕方天気がかわつたから始めて家々へ帰つていたが同
夜四ツ時頃、大津浪がくると本町から大声で言つて来たの
で、町裏へ出てみると、崎山むきに大川が流れるようにざわ
〳〵〳〵と音がして、一丈位の津浪が来ると皆んな大騒ぎを
した。しばらくのうちに町裏の田圃へ水が押込んで来て、前
のときよりも一尺五寸位高く水がついた。
勢州戸場では、二丈程の津浪がおしよせて来て家が流れたと
いうことである。豆州下田も一千軒の内三十軒程残つて皆ん
な、高潮の被害をうけたということである。掛川、袋井の町
家は惣つぶれ丸やけで死人が山のようだとのこと。舞坂新居
も大破損で御関所も打ちたおれ、人通りもたえ、五日から十
五日までの内、上り下りのものは皆気賀を通り十六日から新
居を通るようになつた。又二十二日夜八ツ半頃、大地震で同
夜高潮が来て町裏御朱印田一面に乗込み、上堀合、大川はじ
め道上まで乗込んだ。四日からしじゆう高潮があつて引塩の
ときでも堀川が一ぱい、みち塩には田圃までのりこえ、一日
に一度ずつゆれる。
殊の外高潮で十一月二十三日又小屋掛をして朝夕そこで寝起
きした。十二月二日覚。
安政二年六月頃まで毎日地震があつた。今年は麦作平年並夏
作は見事に出来秋作もよかつたが、七月二十六日朝から東風
が吹き、夕方から大風になり廿七日朝まで吹き、其夜七ツ時
頃津浪が来て、清水まで打込、かりや、かた町十四五軒も庭
まで打込、落合川も九尺五寸の出水になつた。その日夜中頃
から地震があり、廿八日朝から雨が降つた。夕方天気になり
又廿九日朝東風で大雨になり夜半頃まで降りつづいて落合川
七尺五・六寸程出水、八月一日天気になつた田方近年まれな
大出来、町裏の琉球も二十年以来の出来ばえであつた。
西山田の御神領へ下村、葭本辺の舟が流れこんで稲を損じ
た。
八月十九日、朝から東風で夕方から大風になる。夜四ツ時頃
西南の風で高汐、七月二十六日の汐より七、八寸程も高く、
かりやはいうに及ばず片町ぢゆう川のようになつた。もつと
も四ツ頃から青天で風は甚だ強く、再度の高潮で稲が誠にみ
ぐるしくなつてしまつた。二、三分程のみのりかと思う。
下村辺から西、高汐の様子、村櫛辺殊の外高汐、宇布見等は
村中一軒も残らず汐水が入つて家作等残らずつぶされたか
ら、道具類や俵物までも流され、目もあてられぬ程だという
ことである。
同月二十三日、朝から殊の外冷気が増して朝夕は足袋がなく
ては暮しかねるような状態であつたから、秋の作りものがだ
ん〳〵みぐるしくなつてしまつた。
九月二十八日、暮六ツ時地震同夜三、四度ゆれる。
十月二日夜、四ツ時少々ゆれ前後度々ゆれ二日は江戸が大地
震で家がたおれ、土蔵残らず出火、三十八ケ所から焼け出し
て、三時位やけたということ。下谷御屋敷等は別にひどいこ
とはなかつたようであるが土蔵は柱だけになつたようであ
る。家来の長屋一軒がたおれ、国元から材木をとつて大工六
人ばかりが出かけた。
安政三年六月御祭礼(細江神社)本祭り年に当るが地震高潮
の災害があつたから屋台やほろはやめて、その外の諸道具も
はずして御祭礼を無事にすませた。
七月三日から五日まで社中で大般若を行い、氏子は大念仏を
行つた。