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項目 内容
ID J1800412
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔当国大地震〕掛川市史編纂委員会 静岡市提供
本文
[未校訂]「(表紙)嘉永七寅年ハ安政元年とや(十一月廿七日改元ナリ)
十一月四日
当国大地震 山崎家要用記
第十二 」
嘉永七寅は十二月年号御改元有之
安政元年と成
大地震の記
当山崎家廿二代久麿代也
天地開けて末世無窮の中には世に治乱有、上公卿より下衆人
に至迄浮沈有又祝満危難有事ハ吉事禍事いつき替る事は番(ママ)顕
によりゆゑよし有事は神代の書に見ゆるなり時に嘉永七寅の
十二月年号改元有て安政元年となる事八十ケ年已来御国に凶
事多信州大地震人民多死誠に大へんの事、江戸両御丸御焼失
西の御丸ハ両度の事又異国船度々渡来去嘉永六年七年大船四
五船浦賀より乗入又伊豆長崎大坂へも阿女利賀於呂志弥、伊
支利賀船来種々煩事するよし諸家様方大そうとふ御物入不少
よし
扨亦四月京には仙洞御所より出火
禁裡御所へ飛火同時に御焼失、摂家清花尊寺の御触九軒其外
月卿雲客多御類焼、町数百五町焼失、又六(嘉永七年)月十四日伊勢伊賀
大和河内大地震、殊更四日市抔は人民多焼て其数難算よし、
伊賀の上野御城迄崩るゝよし、信州善光寺辺の地震に不事兎
角公儀は勿論諸大名籏本衆迄御物入不少、米直段十三四俵或
は十七八俵ニ而弐拾俵内往還役助郷人馬多かゝり今年抔は高
壱石目ニ付往還役九百五拾文も欠る、下も難儀至極なり
抑十一月四日西風強吹朝五(八時)ツ六七分時ニ娵佐和は玄関ニ針仕
事して居る孫富丸九才弟豊助は六才手習せしか水取ニ庭迄出
居る子久麿は座敷ニ書物して居る伜式部は村方八左衛門方へ
用事有て行、下男伊之八は垣根笹取ニ西の宮裏弥兵衛藪へ行
なり、然るに大な鳴音して地震仕かゝりうへ佐和大声に地震
入来そ子供外へ出よとよハわりながら木(ママ)庭へ子供一同出続て
予も玄関へ出敷台を下し時ニ壱ツころひ又起返んとせるに又
ころひしはひなから三尺斗出見れ玄関西のへい東へころひ今
弐三尺不出はへひの下へなるへきに怪我なしに出大庭の真中
はい行見かへし見れハ本宅ニ味噌部屋雪隠なと前長屋門抔今
ニ崩れつふるゝかと震れるなり、然れとも長屋門雪隠は土台
作なるうへ震様少く且大船の荒波を乗如くニなるのミにて、
うこき少し娵は弟の豊介を手を引なから大庭を度々ころひな
から門の西の藪へ逃け行、兄富丸は清太夫子久米吉手習来居
けるか両人なから九才なれハ恐ろしくも思ハて、あら面白き
地震といひて大庭中を飛廻りけれハ壱度もころハすにかけ廻
りけるか段々恐ろしく成し哉共ニ藪の中へ逃行なり予は少シ
静まりし時火を消さんと思ひ内へ入見れくとに火有、手桶ニ
有水をくとへ掛ケ茶の間に大火鉢に堅木墨起し有うへ外へ持
出さんと漸々庭迄持出ける又大ニ震来故外へ逃出又治まりけ
るニ付内へ飛込彼の火鉢をよふ〳〵と大庭の真中へ引出風強
きうへたらひをかふせ同藪へ行居候処式部は八左衛門方を
出、相谷口繩手迄帰りけるに道震は歩行難出来両方の田の水
打かゝり目を明るもならすうへに道ニ伏居けるに田へころひ
落むとするうへ道下駄之跡有処へしつかと爪をかけ居候由少
治まるうへ飛か如く走り来りし時我等も案事門外へ出見居候
也、郷蔵の東へ来り見へ候私ハ先ツ彼も無難成と思ひ彼も親
父子供は若怪我抔しつらんと案事処門本宅立居を見て安堵し
て掛来たと申事也
猶震とふする事おひたゝし敷地抔も藪も不安心なるうへ子供
をつれ上の山へあからんと登りけるに式部門内へ来木かころ
ハん山はよろしからす門外の東の藪岸へ行へしとよひけるう
へ又家内不残爰へ行西へ戸板囲をして火鉢を持行中飯を下男
迄喰ひ扨下手を見る掛川辺と覚へて二三ケ所火手上り午未之
方へも黒煙り立上り未申の方へも煙り立上り、然処欠河御蔵
納に行し八郎右衛門馬・弥兵衛馬・九兵衛馬も帰りける、火
事は何所なる哉と尋けれハ命から〳〵にて帰り候得は聢と見
定不申、馬はおとろき道われ九平治馬は割目落抔いたし見合
〳〵所にて震間はたゝすみ漸々帰り申候と答るなり、掛川辺
と見て次第〳〵に所々へ火手あかり肝も魂も消とハ此時な
り、地割るに付大庭の真中は何方ゟ家ころひても障りなきう
へ小なる木を並へ板をかきつけ六七丈敷屋根鳥羽ふき板にて
ふき同板にて囲ひ〳〵と壱ツ持行是にてにやきをいたし住な
り翌五日は時々地震せし成、夫ゟも鳴音の夥敷事弐百目三百
目の大筒火矢をうつ音よりも鳴ひゝきする事恐ろしきなり(ママ)頭
日所々鳴聞に第一掛川ハ天守三階の所上壱段崩落、石垣ハ不
残崩れ御殿通一円ニつふれ御門は追手を始二ノ門中西門不明
の門北門二藤門御玄関下門其外ニもやくら等崩れ莚の門とて
小き門残たる斗、諸士の家は□取坂ゟ西は壱軒も不残つふれ
東はつふれたるも有半つふれニ成たるハ東はつれ迄残りなし
町方ハ、十九首ゟ新町まて一円につふれ所々より出火惣焼失
する内に十九首東橋ゟ下俣十王ハ不焼つふれたる斗なり、西
町番所ゟ東ハ一円焼、町中に土蔵三ツころはすに立居なり、
惣而見加野の坂下迄山口村迄往還に立居家は壱軒もなしと言
ふ事なり、伊達方ゟは七八分方ハ立居なり、袋井宿原川は丸
焼なり海道筋橋は不残落るなり、森は不焼つふれ家も少きよ
し山梨はつふれたる中に西尾藤左衛門ゟ二三軒上より北はつ
れ迄焼、下ハつふれたる斗なり、此外在々つふれ家難算事な
る中に飯田村五郎馬、五郎兵衛・彦兵衛抔大家皆つふれその
中に彦兵衛焼女房死
扨亦桁張其外之木に敷れ但し外へ出候者も数多逃る先々跡ゟ
焼来るうへ掛川中人数町奉行所へ七拾八人と言事なり、此外
他国ゟ来り居商人旅人泊り居人は死亡不分也、袋井は猶多死
亡人多シ麁屋抔にてハ家内十二人之処壱人たすかりたる斗な
り、横砂も掛川に不及(カ)ス由、然共御天守は崩れす町方も西本
町を焼外ハ不焼、死亡人は弐拾八人といふ
(中略)
余国は地震ハ当国ゟ軽く候得共津波大きふなる事なり、垂水
ケ谷七ケ郷之内当村はつふれ家長ノ谷善五郎勘左衛門斗、半
つふれハ清太夫八右衛門善兵衛弥五兵衛清六此外日指取家
も、当家は二三壁の落たりひみたりいたし少し本宅も三寸か
たき候斗、寅十藤左衛門佐兵衛抔同様なり皆如斯也
上垂水は壱軒もつふれ家なし半つふれ又はかたき申斗なり家
代道通つふれ屋ハ八軒といふ下垂水大家なる与右衛門本宅酒
蔵諸家つふれ弥左衛門同断弥五兵衛つふれすいたミ候也、其
外破損は多有よし、田中村は大家成清兵衛同人新家儀兵衛い
つれも金持故十ケ年斗本宅惣屋酒蔵門等建替へ候処両家共に
惣つふれニ成、惣而村内本宅、且六軒無事といふ也、跡ハつ
ふれしといふ、嶺村ハつふれ家ハなし
城東郡平尾平川辺ゟ次第ニ下手此辺強し予カ三男恭斎医ニ成
平川村川田寿格方ニ罷居候処・彼村百六拾軒之内三橋(軒カ)立居残
は惣つぶれよし、其外赤土村より海辺ハ榛原郡迄大ニ強きよ
し惣而山名周知往還下殊更大嶋中嶋吹上辺ハ立たる家なし、
西手も下山梨ゟ南ハ次第〳〵深き水原ゟ下手ハ殊ニ強シ、在
々ニ而も死亡人千哉二千ハ有へしとも言ふ事なり
嫁の里石野村戸倉惣四郎方抔本宅八間ニ五間九尺の瓦日指、
雪隠馬屋前東方ニ有、門又西ニこなし屋二間ニ四間亦部屋裏
の東ニ女人別家に雪隠北ニ弐間半に四間の土蔵弐間ニ四間之
木薪屋共裏ニ二間三間之土蔵不残瓦ふきなれハ一時ニつふ
れ、惣四郎新家二軒同断村中残すくなくつふるゝなり、惣而
柴浅羽辺同様なり誠ニ前代未聞の当国は大地震なり、王代一
覧記抔惣而日本記等京都大地震□は何国大地震と死亡人等怪
我人多事も前代ニ有とも古代事ハ不知とも掛川城中御天守建
事ハ山内対馬守殿六万石ニて拝領中、天正十八年ゟ慶長五年
迄之内ニ被建たる也、是ハ前ハ大地震ハ何程震候哉不知右天
守出来是ハ不崩事なきに今度は前書如くに上段崩石垣等の次
第、先神君御治世以来是迄ハなき大地震と思ふなり、然は上
古大地震といふ事有れは先ハ今度か前代未聞なるへし、猶打
つゝき震る事強けれ十三日夜よべは大庭の仮家に伏、扨四日
前抔の事より思ひて
きのまてよ所のなけきと思ひしを今日は我身ニ
かゝりけるかな
と詠みつゝ伏なり、十五日は孫富丸九ツの祝ひ成故、宅を掃
除して十四日ゟ内に入れとも玄関中の間之内ニ家内一統伏な
り、是ハ強く震入来時外へかけ出るによきため障子斗たて、
あかりを附置て伏なり、夜昼共に二三度ツゝ震るゝなり、折
々のき下迄又は大庭へかけ出る程成も有り、扨悪者多なれハ
通夜立切の番夜中廻る鉄砲を折々鳴也、十日頃迄ハさわかし
き事近郷夥敷事なり、五日六日殊ニさわかしき当村五日の夜
三人斗当村へ入込平治と八郎右衛門伜番に出藤左衛門方へ酒
呑ニ行出てけれハ小梅沢へ入口に人壱人居候故誰なるそと尋
ぬるに不答故竹鑓鉄炮といへば上へ逃去故夫ぬす人よといへ
ハ相図之寅(どら)十はすと弥兵衛伜三千蔵放大鉦をたゝけハ藤左衛
門そろはんを打ならすと竹鑓を村中持出、彼ぬす人は西岸を
堤の方へ逃る相谷のもの下組長谷の者登来れハ下へ逃る事不
能井ノ谷へ逃レ幸七方にて爰へ来ると呼ハりける上諸人数一
同追行共山へ隠れ候哉夫切不見其跡ニ而寅十屋敷を二人観音
寺逃登奥へ逃しよし如斯事
扨亦今度之地震に危なる事有ハ本院堂等先可睡斎法多山仮屋
釣鉦堂西楽寺抔を始つふれ崩たる事ハ数多なれとも神社にお
ゐてハ当国中は破損少もなし徳井住村ハ壱軒も不残つふれた
るも氏神斗は破損なし妙なるといふ、其中之山梨村天王森神
社拝殿宿所ハつふれ水原籠門つふれ川西羽鳥村之御宮佐野拝
殿つふれたるも本殿は少も不痛と人々神国のしるし危(ママ)妙なる
事と評判するなり、夜日々地震治りけるも少ツゝ入なり間に
ハ大なる事も有て外へ逃出事度々なり、安政二年正月廿三日
の夜外へ出る程震るなり二月朔日外へ出る程震るなり島田宿
ニハつふれ家も拾六七軒有しと言ふ也、二月七日夜も少し震
れとも九日夕方限り治りて夫ゟハ不震ニ治りし也(後略)
于時安政二年春三月久麿七十歳老眼ニ記置也
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-1
ページ 1095
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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