[未校訂]S40・9・15 町史編纂委員会
安政の地震 嘉永七年十一月四日(安政と改元は十一月二十
二日)数日前から大音が囂々と鳴つたから、人々が呆然不思
議がつて暮らす内に、大地が振動しだして大地震となり、見
る間に地は裂け溜水は流出し、道路は亀裂崩潰し、橋梁はこ
われ、家屋は倒潰又は半潰となり、ついに人畜をもたおすに
至つて、村内沢水加和田潮海寺等に数人の被害者を出すに及
んだ。その悲鳴慟哭を耳にして戦慄しながら、人々はただ顔
色蒼然として藪の中で暮らし地震のやむのをまつていたが、
地震はなかなか止まず、一ケ月余も間歇的に断続したから各
人等しく食を得れば満足至極の有様で、震動のすきを見ては
有福家の倉庫から、米をかつぎ出しては餉ぎ、近所隣家諸
共、地上に敷いてある道板あるいは莚の上をつたい歩き寄り
集まつては喰つていた。
この時藪の中で出産した子の名に寅吉と付けた如きは時の甲
寅の寅、を取つたのか竹に虎をシヤレたのか。沢水加の記
(山田万吉氏所蔵の帳簿)に小山壊れ、民家半潰、全倒の数
が多かつたから、以後は地震予防上掘立小屋に住居すべき事
と領主から布令があつた。又領主より潰家へは米一斗銭一貫
文、半潰家へは米五升、銭五百文の給与があつたということ
である。是が世にいう安政の大地震である。
当時の地口に「安政とかえたとたんに大地震、こんなことな
ら嘉永でもよかつた」というのがあつた。