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項目 内容
ID J1800382
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔嘉永安政大災害記〕○静岡県川根町
本文
[未校訂]岡埜谷竹雄家文書
大地震之事 但駿遠三
安政元寅年十一月四日朝五ツ時の事也、扨も俄にゆれ出し平
一面山野も崩るゝ斗り[瞬|マタヽク]くうちの事也し。そのおそろしき事
天地もくつがへらんとするのおもい各いかなる目に逢事やと
おとろき、所々土蔵ハ不残ふるいおとし、物置雪隠等ハ惣潰
れて井戸よりハ吹出し、藤枝町ニ而は即死四五人あり、昼の
事故怪我人はすくなく是天の助けなるへし、下伝馬町・横
町・油屋儀介と申者方より火出、左車不残やけ松原二軒家よ
り水守まて飛火致し候、田中御城大破損、御家中一統惣潰
れ、御城主ハ当節本多豊前守様也、御在城ニ而殿中を漸御逃
延御台所役人三人即死也
殿様には直様御発駕ニ而江戸表江御越になる、尤同月廿四日
也、榛原辺大家・小家共一同惣潰れ、山の手辺ハ格別の事な
し、併小々宛のいたみハ一同の事也、十一月四日より大地震
後七八十日の間ハ毎日昼夜ニ掛七八度位度々ゆれ候なり、依
之銘々本家ニ住(すむこと)事をせず今にも又もや崩れんかとおぞ毛を
立、一同各其うら〳〵又ハ畑中へ小屋をかけそれにて煮たき
を致し其年も暮に及ふといへとも、正月の規式も右故不行
届、中ニハ藪の中にて年を越るもあり、極寒中といへとも一
生懸命の節故寒さも不厭□(ムシ)□□命を繫くを第一と心得、老人
又ハ病人之事も不構又正月廿七日の夜地震有之、榛原辺ハ大
地震となり、二度凌の小屋また潰れ(カ)候也、しかし四日の地震
とくらぶれハ先中の事に当る、此以前宝暦年中有しと也。後
年ニ至りて百年又は百五十年目頃ハ必大地震あるべし覚悟致
すへし、東海道ハ三島宿・沼津惣潰之上焼失、原宿ハ障な
し、吉原宿ハ少シ痛ミ、岩淵大痛ミ、蒲原宿不残焼失、江
尻・清水焼失死亡人多し、府中 御城大御破損、御堀端石垣
等不残崩落、其後御普請ハ安政四年巳秋より御取掛来年迄ニ
御出来、府中宿不残焼失、丸子ゟ島田宿迄ハ家々潰候事ハ少
し也、死失の人も格別の事なし、日坂・掛川・袋井此三宿ハ
又格別の大変也、惣潰之上焼失死亡人も多シ、御城之潰レ沼
津・田中・掛川・浜松・横須賀・小島なり
江戸大地震ハ其翌年十月二日の夜四つ時の事也、三十七ケ所
より出火、夜中之事故死亡人多し、拾万五千人と申事也、そ
れも人別帳ニ而調ベル也、帳外者ハ数しれず
安政元年寅年六月東海道四日市辺ハ大地震也、勢州近江路斗
り也、津島様参詣之人大ニ損じあり、又善光寺之大地震ハ此
年ゟ十ケ年以前三月廿三日也、藤枝在町之者参詣ニて死亡人
四十五人善光寺旅籠屋にて命を落す、扨も恐るへきは地震
也、志かし天の事ハ天文にて測る事あれとも、地震の事ハ何
億万里の地の底にてなれる事なれハ、是ぞと申勘考ならざる
物と見へたり、尤さも有べし
「(貼紙)猶又五日昼くれ六ツ時大地震、是ハ大坂近辺ノ大地震と
承り申候」
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-1
ページ 1029
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 静岡
市区町村 川根【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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