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項目 内容
ID J1800356
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔静岡市史余録〕S7・11・28柘植清
本文
[未校訂]当時の駿府は町数九十六個町。家数四千四百十七軒。人口二
万五百四十一人にして、被害は焼失町数十三個町。焼失家数
五百七十八軒一に六百十三軒とある。死者五十一人とある。けれども此
の五十一人は焼失町内に於ける焼失者のみであるから、全市
中の死者は二百人以上に及んだ。若し夫れ現時の如くに人家
が櫛比してゐたら、死者は到底此の位では済まなかつたであ
らう。この大震災について悲惨な話は無数にあるが、一二を
挙ぐれば、清水尻今栄町に長島某といふ同心があつて、手習師
匠をしてゐたが、恰も此の時稽古中なので、門弟三十余人悉
く死んだ。又一婦人が紺屋町の紺屋へ染物を頼みに来たその
瞬間に地震に遇ひ、白絲を持つた儘焼死したが、何処の者と
も知れず、数日間蓆巻にして置いてあつた。また或婦人が二
三歳位の小児を背負ひながら焼死したが、親子共頭部のみを
焼かれて横つてゐた。されば死者の葬式の如きも、只近親の
者一両人が付添つて墓所へ埋めるのみで、読経する導師もな
ければ仏具も整はず、殆んど牛馬を葬るに異らずといふ有様
であつた。斯の如き酸鼻の事は枚挙するに遑なき程であつ
た。
損害の大なるものを挙ぐれば、駿府城本丸・二の丸・三の丸
の諸門及び櫓は悉く崩れ、御多門・土蔵も崩壊した。就中石
垣の崩潰は甚だしく、殊に三の丸は殆んど総崩となつて、二
の丸が見えるやうになつた。又城代・定番・加番・町奉行・
代官其の他幕吏の役宅は半潰或は全潰となり、宝台院は一の
門を焼失し、本堂・御霊屋・御宝蔵並に諸門は悉く半潰とな
り、清水寺・華陽院等も焼失した。市街の山の手、即ち北方
は震害少く、又劫火の災をも免れた。されば浅間神社は殆ん
ど被害なく、本社を始め拝殿・舞殿・楼門・廻廊等は傾いた
所もなく、石鳥居も倒れず、冠石が少し口を明いた位であつ
て、只境内の石燈籠のみが悉く倒れた。夫から市中で亀裂を
生じた所が多い、駿府城追手辺の道路は五六寸づゝ幾筋も裂
けて青泥を吹き出し、弥勒の松原辺も七八寸から一尺位に地
割れした。また井水は一般に濁り十日頃になつて漸く澄み、
辛うじて茶に合うやうになつた。丸子辺にては平日濁つてゐ
た井戸が、十日頃になると急に澄んで来たといふこともあつ
た。安倍川の如きも水嵩は地震から急に増加して、泥水の如
く濁り、六日に至つてもまだ澄まず、川原さへも五尺許づゝ
幾筋もの地割を生じた。尚ほ浅間神社附近より大岩方面へか
けては倒家もなく被害も少かつたが、柳新田・田中は人家大
半倒潰して死傷者もあつた。又南方大里村海岸は四日地震と
同時に海嘯襲来し、下島にては潮水が大浪川を遡つて白鬚神
社までも来たので、同社境内の樹木は後枯死するに至つた。
而して久能山東照宮は本社・拝殿・宝塔等は無事であつた
が、五重塔・宝蔵・神楽所等は傾き、愛宕山御堂・坊中八個
院・石垣・石燈籠等は倒潰して被害が大きかつた。
倒潰家屋は全潰四百八軒、半潰三百六十五軒、其の他破損三
千六十六軒であつた。焼失町数は前に述べた如く十三個町で
あるが、市中目貫の場所なので、其の損害の莫大なる事は無
論のことである。就中一般の者が最も困つたのは運輸機関の
停つたことであつた。当時問屋場は伝馬町にありて、地震と
同時に潰れた上に焼失したから、公儀の荷物でさへも一時取
扱へなかつた。加之東海道は殆んど全部斯る状況なので、数
日間荷物の輸送は全く不能となつて仕舞つたのである。九日
になつても人足一人当地より興津まで、五百文を出さなけれ
ば雇ひ上げられず、平素は一駄に二人附であつたが、此の時
は四人附でなければ行かない。荷物は停滞してゐるのに、人
足共は各自の家が潰れたり、焼かれたりしたから、容易に雇
ふ事が出来ないので非常に困苦した。漸く十六日に至り、呉
服町六丁目に仮問屋が出来て稍々平常に復した。又伝馬町に
は両本陣を始め、大小幾十軒の旅宿があり、紺屋町にも十数
軒の旅宿があつたが、此が全滅したので旅客の迷惑も一ト通
りではなかつた。越中富山の薬売が三人連で品川屋に滞在し
てゐて、近在へ商売に出た後に此の災難に遭つた。あたふた
帰つて見れば、宿へ残して置いた荷物は悉く焼失し、剰へ預
けて置いた銭七貫文も亦灰燼に帰して仕舞つた。余りの残念
さに焼跡を探し、漸く銭一貫文許り拾ひ得たが、霜月の寒空
に、着のみ着儘では帰国も出来ない。せめては此の銭で綿入
の一枚も買ひたいと、市中の古着屋を探して漸く入手したと
いふ話もある。十五日には江戸から御目付大久保右近将監・
御勘定組頭吉川幸七郎始め十数名が幕命によりて震災調査の
為め当地へ着したが、城代其の他の幕臣は仮小屋住居である
し、又宿舎もないので止むを得ず、茶町安西辺の民家に滞在
した。
震災当夜より町奉行所の与力・同心は火事装束に身を固めて
警固に当り、町方よりは一軒に付男一人づゝを徴集して夜警
に当らしめた。而して此等の者に対し町奉行より、「終夜拍
子木を鳴らして市中を警戒し、殊に無提灯にて通行する者あ
れば厳重に取締るべきこと」を令した。かゝる際には兎角流
言蜚語が起り易いことゝて、時々夜盗が入り込んだとか、火
事が起つたとか、何とか彼とか不穏な事が絶え間なく伝へら
れるので、人々は安き心地もなかつた。而も夜警の者も始め
の内は緊張してゐたが、日を経るに従ひ疲労で声もかれて、
深夜に只拍子木金棒の音のみが彼方此方に響き渡るのみで、
人々は一入滅入つたやうな気持で無我無中に過ぎて来た。漸
く七日頃から焼跡も片附き、ぼつ〳〵仮小屋も設けらるゝや
うになつたので、街道もどうやらかうやら通行が出来るやう
になつた。併し余震は続々起り、九日は四日に次ぐ大震があ
つて人々を驚かせた。尚ほ余震は十五日にも五六回あつたか
ら、相応に永い間続いた。
救護に関しては当日午後二時には既に町奉行貴志孫太夫は与
力田宮重次郎に命じて被害の少なかつた山の手方面の丁頭、
茶町一丁目彦次郎・土太夫町四郎兵衛を召して救護を申付
け、急遽之に当らしめた。又城代坪内伊豆守は城内の米蔵は
崩壊して、貯蔵せる籾は大半堀の中に落ちたが、其残部を代
官大草太郎左衛門に命じ、即刻城内にて搗き立てゝ救助米に
充てさせた。そして一方彦次郎・四郎兵衛の両人は、安倍町
野崎彦左衛門外六名と協議して、取敢へず下石町一丁目酒造
家久右衛門の酒造米六十俵を流用して、六日より紺屋町少将
井社境内に於て粥を罹災者に給与した。けれども罹災者の中
には粥を容るゝ器のない者もあるので、一部分は握飯にして
施した。其の第一日には白米五俵を焚出して、握飯七百人、
粥八百九十人一人約一合で合計一千五百九十人に配給した。然る
に老若男女の別なく手に〳〵飯櫃・水桶・豆腐箱等を提げ来
りて、我勝ちにと後から〳〵押すので非常に雑沓し、子供な
どは踏み倒さるゝ者もあり、又力弱き婦人や老人などは折角
早朝から来てゐても、半日もかゝらなければ一椀の粥すら得
られない有様であつた。かくては負傷者を生ずる恐があるか
ら、八日よりは上魚町秋葉神社当時は同町南
側にあった
境内でも給与す
ることにした。此の日は二ケ所で十三俵二斗を要したが、罹
災者は案外多くして日毎に増加し来り、十三日の如きは三十
五俵と三斗七升二合を要するに至りしを以て、給与日数を予
定よりも延長したのである。結局少将井社にては六日より十
一日まで、秋葉神社にては八日より十四日まで配給し、其の
給与延人員は一万四千余人。米は約百九十一俵に達した。此
等の米は町奉行所より交付の九十俵。一般人民寄附の二百一
俵。合計二百九十一俵より使用したのである。そして其の残
米中より、先きに久右衛門から流用したものを返して、残余
は此施粥の閉鎖後に悉く罹災者救恤として配給し了つた。其
の配給の割合は焼失した者には男一人に付七升、女一人に付
五升。潰家並に潰家同様大破の者には男一人に付五升、女一
人に付三升。破損を受け難儀してゐる者には、男一人に付四
升、女一人に付二升五合であつた。又召仕一人より三人まで
の家には一俵、同四人以上の家には二俵の拝借米を許された
のである。
斯の如く市中近在の別なく、非常な混雑であつたから商業の
如きも暫く休んでゐたが、十日に至り町奉行より、次の如く
平常通り営業しても差支ない達が出た。
市中地震に付倒家損家多く、銘々野田等江立退候に付、諸
商売相成りがたく、就ては無難の向も遠慮致し候や、諸品
売買不致趣に相聞候、追々日数も相立候儀に付、家居可成
りに取繕、住居も相成可申候間、諸商ひ物平日の通差支な
く融通致すべく候、此段惣町中江早速可相触者也
寅十一月十日
番所
併し従前通り諸商売が始つたのは十五日頃で、蕎麦屋・居酒
屋なども開業するに至り、又魚類も遠州方面より来るやうに
なつた。当時世人が最も困つたのは醬油であつた。それは市
中の醬油醸造蔵が殆んど倒れたからである。夫から町奉行よ
り物価暴騰抑制の為めに材木屋を始め、大工・左官・人足の
日当等に就て屢々厳重に諭告した。これは現時の暴利取締令
に該当するものであつた。又失業者の救済としては神社・寺
院・城廓及び幕臣の役宅等の修理に使役した。
当時は現今と違ひ、白米の貯蔵や輸送が充分行届かなかつた
から、前陳の如く酒造米を施米に充てるといふ有様であつ
た。ところが図らず白米を搗いて置いた直後に、此地震で大
変に都合がよかつたことがある。一挿話として茲に掲げよ
う。それは新通一丁目に西野屋といふ呉服店があつた。此の
店の主人清助は、予てより父の病気が捗々しくないので、万
一の用意にと米三俵を搗き準備して置いた。地震と聞くや否
や、清助は病父を負ふて避難し、幸に病人には何等の怪我も
なく、又病気にも障らなかつたが、家は倒れて仕舞つた。彼
は病父を看病しながら、白米を四五升づゝ近所の難儀してゐ
る者に施した。これを受けた人々は其の慈悲心の深きに感じ
て、自分の家は捨て置いて、西野屋の取り片付を手伝つた。
為めに西野屋は一人の雇人をも要せずして、翌五日の昼時分
には既に残らず片付いて仕舞つたといふ。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-1
ページ 948
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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