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項目 内容
ID J1800333
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔富士市史 上〕S44・…・30富士市史編纂委員会・富士市
本文
[未校訂]この地震は富士市域でも多くの被害を出したが、その時の様
子を岩松村沿革誌からしのんでみよう。
「安政元年一一月四日朝一〇時ごろから地震が頻発し始め、
五日の朝までにすでに三十余回に達したが、その後も地震は
衰えず、翌二年一月十八日夜までその数は実に三百回近くに
ものぼった。そのうち三二回は非常に烈しい地震で、倒壊し
た家屋の多くはこの時に崩れた。全壊した家屋三八九戸、半
壊六七戸のほか、土蔵物置の倒壊は数え切れなかった。家屋
の倒壊した者はもちろんであるが、倒壊を免がれた者も屋内
に安居することができず、竹林や野外に仮り住いし、家業に
専念することができなかった。貧困者はたちまち飢餓に迫ら
れたので、村の有力者が食糧を提供し、九カ所の救助小屋で
炊出しが行なわれた。潤井川から引いていた用水路は、この
地震でいっきょに六百余間(約一キロメートル)が埋没して
しまったので、二〇日間にわたって一滴の水も得ることがで
きず、村中が大変な困難をきたした。」
以上が岩松における当時の地震の様子であるが、この地震は
また富士川の水流の位置にも大きな変化をもたらした。水神
ノ森以下の富士川は、この地震を契機にして、幹流の位置が
右岸(蒲原)側から左岸(富士)側に大きく変わることとな
り、その結果左岸側の平野では、その後度々大洪水に見舞わ
れることになる。そのため左岸側の沿川諸村は、疲弊、衰微
の極に達するが、この間の状況はつぎの御普請歎願書によく
表われている。
乍恐以書付奉歎願上候
駿河国富士郡五貫島村外拾六ケ村役人并小前惣代松岡村名
主平右衛門川成村名主小左衛門森島村名主利兵衛奉申上候
元来富士川筋之義者平地ニテ西側同国庵原郡岩淵村中之郷
村蒲原宿附河原通リ本瀬通水仕来候処去ル寅年十一月四日
稀成大地震ニ而是迄通水相成居候宿村附河原之義者水面ヨ
リ場所ニ寄如山又ハ壱丈余モ石砂震上候ニ付東側同国富士
郡松岡村字三番出御普請所エ本瀬一纏ニ逆落相成同村字山
神大堰エ水行突当リ平水ニ而モ危難場ニ相成水下村々昼夜
安心不仕候間去ル寅年十一月中富士川最寄村々申合川中央
筋エ流水致度示談仕候処地震後村々困窮之折柄行届兼其ノ
御筋エ奉願上候処最早御定式御普請之義者時節モ違ヒ無拠
捨置候ハバ歎願之通リ切所可相成左候得者本瀬逆落シ不容
易義ニ付四月ニ至リ水防キ御出役迄切所不相成様当座ノ水
除水下村々申合自普請水刎可致旨御内々御差図被仰渡御座
候得共極窮村々地震当国者別而大地震百姓家作物置小屋ニ
至迄皆潰レ途方ニ暮罷在候処エ同十一月廿七日暁七ツ時頃
川成島字新浜宮島村字三軒家入道口境海岸エ異国船漂着同
廿八日九日迄ニ異人五百人右両村地内へ上陸十二月七日豆
州戸田湊エ引払ニ相成候迄地元村方ハ不及申上隣郷組合村
々昼夜十五才ヨリ六十才迄之人足召連罷出居極困窮之時節
富士川水除等迚モ自力ニ難及然ル迚捨置候得バ水上ヨリ切
込御大切之御田地亡所人家仮補建小家流失ハ目前歎敷奉存
候間水下松岡村森島村森下村宮下村五貫島村富士川新田并
宮島村川成島村水戸島村中丸村申談事金高取究御料領主地
頭御助合金頂戴且者地震雨露為凌御救米再度是亦頂戴拝借
金等仕漸々水防ギ仕去ル卯四月五月中ニ田畑仕付相済候御
届ケ申上百姓共一ト先安心罷在候処同卯六月二日三日大風
雨ニ而富士川同四日松岡村田地囲堤字水神下御普請所四番
出シヨリ同夜五ツ時頃延長二百拾間余切込其外富士川通リ
田地囲堤数ケ所切込松岡村森島村宮下村森下村五貫島村水
戸島村中丸村川成島村宮島村富士川新田之義者百姓共仮小
家流出田地夥敷土砂押込欠崩八九尺宛モ落掘レ村々富士川
本瀬ニ相成平一面ニ水湛難渋至極加之同七月十八日十九日
大雨ニ而又候松岡村切所続ヨリ数ケ所切込前顕申上候村々
田地飛々ニ相残居候分不残石砂押込皆亡所ノ姿ニ成行無余
義道中御奉行本多加賀守様御役所エ奉歎願上蒲原宿御伝馬
役免許奉願上候処論所御役人中様御出役御見分之上再応御
吟味被仰付去辰三月願之通被仰付其上田畑囲提再度御手厚
ニ御入用御普請被仰付被成下置当春ニ至迄箇所々々御修覆
莫大成御入用御掛被下置村々百姓共至迄冥加仕合難有安堵
仕追々荒地起返シ丹精中之処当七月二十三日大風雨満水ニ
而森島村大草太郎左衛門御代官所内藤班之丞知行所秋山安
房守知行所御入会田地囲堤御普請所字二番出下ヨリ宮下村
境迄堤延長百六拾八間切込加之同月二十九日大風雨大出水
ニテ八月二日引水ニ而大草太郎左衛門御代官所大久保加賀
守領分杉浦主税知行所日向小伝太知行所松岡村田地囲堤字
水神下四番出下ヨリ六番出迄堤延長弐百拾壱間切込大草太
郎左衛門御代官所杉浦主税知行所宮下村田地囲堤字一ノ土
手堤切所延長百拾間同所下同大欠所延長弐拾間本堤森島村
境下堤切所延長九拾五間同所下六番出下大切所延長三十八
間十一番出下堤大切所延長拾五間同所下堤切所延長五拾五
間同所続増切所延長弐拾間合切所延長四百六間両度二三ケ
所ニ而都合七百八拾五間余切崩込松岡村森島村宮下村森下
村五貫島村水戸島村川成島村宮島村中丸村富士川新田エ富
士川水七八分通リ本瀬ニ落込百姓共去ル卯年流失家作補建
並田畑居屋舗押埋亡所之姿ニ成行候場所丹精起返シ御料領
主地頭御助合ヲ以テ追々田畑之形ニ相成候場所両度ノ大出
水ニテ切崩込富士川水一面ニ押込田畑ハ勿論村々氏神之社
御除地高寺院社人諸堂仮小屋補建並御除地高百姓共家作数
多流失卯年以来飛々ニ相残居リ居屋舗用水路小路小堀堤ニ
至迄欠崩流失一村限既ニ住居難相成拾ケ村難渋至極立退キ
田畑之義者富士川同様本瀬ニ相成石砂押込欠崩八九尺ツツ
モ落掘レ百姓共最寄村々エ小家補建雨露凌罷在候得共差当
リ農業渡世向更ニ無御座日用夫喰ニ差支難儀至極罷在亡所
荒所場所夥敷出来此上起返等去ル寅年以来ヨリ引続キ天災
トハ乍申村々百姓共精力モ尽果退転ノ姿ニ成行歎敷次第ニ
奉存候尤人馬怪我等無御座難有奉存候地続キ本郷丹後守知
行所秋山安房守知行所杉浦主税知行所入会字三軒家新浜入
道口エ大雨之度毎高浪打込汐入稲作汐水冠其上大水一集ニ
押込字新浜三軒家浪除堤追々切崩百姓共都合八拾四軒住居
難出来右入道口ヨリ海辺エ押出シ富士郡東側通リ近来引続
出水之度毎土砂海辺ニ次第ニ押洗流シ地窪ニ相成庵原郡西
側蒲原宿外二ケ村先前富士川本瀬壱丈余モ高台相成居候ニ
付是迄之通御普請所出来形何分保兼難渋至極在候間無是非
此段御慈悲奉歎願上候各村高(略)難渋高合四千九百三拾
七石四斗九升八合(中略)……猶御尋之義者乍恐以口上可
奉申上候依之麁絵図面相添偏ニ奉願上候 以上
各知行所
安政四巳年 月 各村名
右拾七ケ村役人小前惣代

駒木根播磨守知行所
中丸村
組頭常右衛門

秋山安房守知行所
森島村
名主利兵衛

本郷丹後守知行所
川成島村
名主小左衛門

大草太郎左衛門御代官所
松岡村
名主平右衛門
御勘定
御奉行所様
前書之通御勝手御掛リ
御勘定奉行所エ惣代ヲ以奉願上度奉存候間此段御聞届被下
置候様偏ニ奉願上候 以上
駿州富士郡五貫島村
名主作平
森島村
名主利兵衛
宮下村
名主久兵衛
松岡村
名主平右衛門
紺屋町
御役所
駿州富士郡五貫島村
名主平兵衛
松岡村
名主弥兵衛
御領主様
御役人衆中様
(加島村)(富士川覚書)
この歎願書は、安政年間の富士川の連年の大出水とその惨状
を訴えたもので、地元住民の力や領主の補助費ではとうてい
復旧工事を営みえないので、幕府に直接歎願したものである。
歎願書は数通作られ、勘定奉行所に差し出されるとともに、
各名主よりその領主へも一通ずつ提出されたものと思われ
る。この歎願書の提出によって、幕府勘定方露木邦憲、御普
請役佐藤嘉長らの巡視を得、復旧工事の急要が認められて、
摂津守土岐朝昌を長とする復旧工事が開始される。その後延
べ九万六〇〇〇人もの厖大な人力によって、河道の移転と一
八〇間の長堤の築造が行なわれ、さらに帰郷・万保堤および
亀甲出しの構築も行なわれて、荒廃していた村々が元の姿に
復することになる。「帰郷堤」の名は、離散していた住民が
故郷に帰ったところからつけられたものとも言われている。
ところでこの歎願書によれば、安政元年一一月四日の大地震
で、蒲原側地先の河原は場所によっては一丈余りも隆起した
とあり、当時岩淵―中ノ郷地先―蒲原地先を流下していた富
士川の幹流は、急に東へ大きく移動してしまったという。そ
の結果水流は松岡村三番出しに集中して流下し、山神大堰へ
と激突するようになったので、左岸側の平野部は平水時にお
いてもきわめて危険な状態に陥った。ところでこの時に一丈
余りも震い上がった場所は、蒲原地先の通称「蒲原地震山」
(日本軽金属研究所下の東方約五〇〇メートル地点)と考え
られていて、実際明治二〇年測図、同三五年第一回修正の二
万分ノ一地形図(大日本帝国陸地測量部)には、広い水田地
内の針葉樹林地として表現されており、また大正四年測図、
同七年発行の二万五千分ノ一地形図(同)にも果樹地として
表わされている。
ところで右岸(蒲原)側の河原はこの地震によって果たして
隆起したのであろうか。この点については今のところ充分に
は判らない。ただ大地震の際にこの程度の隆起、陥没の起こ
ることは、過去にも幾つかの実例があつて、肯定できないも
のでもない。実際富士川の洪水は、安政の地震までは右岸側
にもしばしば起こっていて、天明六年(一七八六)以降のわ
ずか四〇余年間に、天明六年、天明七年(一七八七)、寛政四
年(一七九二)、文化元年(一八〇四年)、文化一一年(一八
一四年)、文化一三年(一八一六年)、文政四年(一八二一年)、
文政六年(一八二三年)、文政一〇年(一八二七年)、文政一
一年(一八二八年)と一〇回にも及ぶ洪水・氾濫を記録して
いる(蒲原町史)。
いっぼう安政の地震以後は右岸側には洪水が起こっておら
ず、この時以来富士川の幹流が左岸寄りに固定してしまって
いることが理解できる。現に富士川の河床は、昭和三六年当
時(本格的砂利採取の開始以前)右岸寄りは左岸寄りに比べ
て二~五メートルほども高かったし、右岸寄りにある「オソ
メ島」と呼ばれる中州は、よほどの増水がない限り冠水する
ことは稀であった。右岸寄りの河床がこのように高いのは、
地震以後水流が左岸側に固定してしまったことによるもので
もあろうが、それ以前に右岸側が相対的に隆起したためであ
ったかも知れない。
いっぽうこれとは反対に、地震山の形成と富士川幹流の東偏
が、地盤の隆起によるものではないとする考え方もできない
わけではない。例えばこの地震で上流山地部に大崩壊が起こ
り、下流に運ばれた土砂が幹流沿いに堆積して小塚をつく
り、ためにもとの流路は破棄されて東側に移り変わってしま
った、とする見方である。これに対する一つの証拠には、左
岸側の松岡にも「地震山」と呼ばれる小塚が存在していたこ
とである。記録によるとこの地震山も安政の地震の際に隆起
したものとされていて、南北約五〇〇間(約九〇〇メート
ル)、東西約六一〇間(約一〇〇〇メートル)、高さ一丈二尺
(三・六メートル)の小塚をなしていたという。このような
小塚が富士川をはさんで東西両側に存在していることは、そ
れらの起源が崩壊土砂の堆積形であることを示しているもの
とも受けとられる。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-1
ページ 815
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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