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項目 内容
ID J1800307
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔安政の大地震についての口頭記録〕○伊豆賀茂村
本文
[未校訂]「かもむら」
話し手 古屋キワ女(当時九六歳)
聞き手 宮石 貢氏(当時四五歳)
年月 昭和十年四月
場所 キワ女の自宅
状況 この当時 失明していたが壮健で、意識は明り
ようだつた。
安政大地震は、安政元年霜月四日四つ刻(一八五四年十二月
二四日十時)に起きた。当時、古屋キワ女(古屋武雄さんの
曾祖母)は、神田の番匠屋(長島謹吾さん宅)で養われてい
たが、口頭記録はこの時の記憶を宮石貢氏が書きとめておい
たものです。
聞き出した内容は、断片的ですが次のようなものです。
(地震について)
○神田の公民館の裏の大岩は、この地震の時、山から落ちて
きた。
また、大道(今の村道)が砕けた。
○発多沢の近所は、大きく砕けた。
○地震中「ドンドン」という音がひびいた。
○番匠屋(長島謹吾さん宅)の母は家がゆれて庭にころげ落
ちた。
○清水(宮石英夫さん宅)や隣屋(山地光彦さん宅)の老人
は、向山の藪の中に泊りに行つた。
○地震になる前の天候は、雨になるか、風になるか、とにか
くトロなぎだつた。
○寺の石塔が倒れて、何本も砕けた。
○御座松(神田背戸山、稲荷岩の上の山頂にあつたが、今は
枯れてない)に、この年十月一三日(地震の前)と思う
が、大きな火の玉がとんだ。
○背戸河原にも大岩が落ちた。
○小さい地震は、この年いくつもあつた。
(津波について)
○大きな地震だつた。その間に「津波だ」という村の人たち
の話し声を聞くことができた。
○津波は、郷村の下(旧役場の上の交叉路)まで、押し寄せ
ている。
○宇久須川をさかのぼつて、大明神さん(宇久須神社)ま
で、波先がきた。
○浜の現在のやいど付近では家が、六~七軒流れた。
○[神田|じんでん]の大屋では田三反歩(約三〇a)が流され、芝の奥
(鈴木利彦さん宅)では、うまやの天井に子牛が二ひき、
水に浮いて水がふえるたびに、上へ上へと上つてきた。
○大川(宇久須川)は、すつかり赤にごりになつた。
○浜では、祭のもちをついたが、ほとんど流してしまつた。
○清水(宮石英夫さん宅)では、浜に出してあつた炭をたく
さん流した。深田と米崎でひろつた炭が、六〇〇俵からあ
つた。
○底魚の大きいのが干上つた。どこの浜へも、四~五尺(一、
二m~一、五m)のものがあつた。
○不来坂のふもとに牛がたくさんつながれていた。
○波が高く慈眼寺の前で波がうつた。
○安良里では、小さな家をたくさん流した。
○立沢洞まで、船が波のためにうち上げられた。
(資料は宮石英夫さん提供)
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-1
ページ 720
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 静岡
市区町村 賀茂【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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