[未校訂]沼津市駿河図書館
(嘉永七歳甲寅地震之記)
甲寅霜月地震記
在沼津 崎継述誌併図画
一四日昨夜泊御番にて今朝退出がけ御太鼓御門外にて不二山
を見候得ば四方晴わたり雲もなく空おだやかに暖気なれば
我入道村辺へ釣魚に出べくやと暫く山をながめ居り候うち
に何となく不二のやうす穏にもおもはれずやがて雪を吹立
候か雲出候かはしらざれども山気立候まゝ多分は風になる
べくと存他出は思ひとゞまり旅宿にて宮太信作と一同に朝
飯をしまひ火鉢のかたはらにて咄いたし居り候うち五半時
過地震のやうすゆへこゝろを落つけおり候が東のまどの障
子はづるゝばかりにつよく成候此折何処となく鳴動いたし
候よつていづれも表口の方へはしり出候うちにいよ〳〵震
動つよくやう〳〵戸口壱間ばかりも歩行出候ともはやうち
倒さるべくほどつよくふるひ候まゝ漸く旅宿前堤下芝原
旅宿入口より
是迄凡十間
へまろび出下にすはり手を突き居候処是にて
もゆり倒され候まゝ遂に芝原へはらばひ罷在候と地底の鳴
りわたる事百千の雷とどろくがごとく山海鳴動空の気忽に
変じ天地もひとつになり今や世界滅亡ならんと心に思へど
も更に生死のさかひをおぼえずおそろしきとも不思議とも
しらず此折からだを地よりゆりあげ候事凡五六尺ばかりと
おもふ土手の大榎地より枝先迄七八間も有之候が其枝先か
しらへあたるばかりに動き其枝あたかも鞭をふり廻し候や
うにヒウヒウと鳴る音烈風の如し旅宿ハ長屋建にて長さ凡
三拾間も可有之候長きなりに六七尺も前へのめり又は跡へ
ひきもどし今にもはづるゝかとおもふばかり也
旅宿ハ終につぶれず下屋の壁えミて土落鴨居一ケ所はづ
れ便所少々ゆがミ障子らんまの類は紙残らずさけ棚にの
せ置候物は落ず只摺鉢丼鉢のミ落て損じたり此外損失無
之不思議にも幸を得たり
地震ゆり出しより強く相成候まで凡たばこ四五ふくもあひ
だあり亦極々強く覚候もやはりたばこ四五ふくぐらゐの間
なりやう〳〵少しくゆれもしづかに相成やう覚候まゝ起あ
がり芝原へ手を突罷在候処御城下町屋より出火と申事ゆへ
大きに驚き見受候処全く数百軒の潰家の壁土あるひは土蔵
の壁落候砂けぶりにて出火にも無之先々安堵いたし候うち
御郭外足軽小屋より出火す是ハ旅宿よりさしわたし壱丁に
たらぬ近くゆへ仰天いたし候
是ハ[片端|カタハ]と申処の足軽小屋にて七軒程焼候ておのづから
鎮る皆潰家ゆへ也
折節宮太信作ともに 御殿へ相詰る自分ハ非番の事故ひと
り跡に残り火の元并出火の手当三部屋下人どもへ申付居候
うち 御殿向不残つぶれ候由よつて直さま出仕いたすべく
と存はしり出候得どもいまだなか〳〵歩行むづかしく
一躰此地震は大ゆれ一旦静に相成候と直ニ又ゆれ出し又
少々しづかに相成候と又ゆれ出し候よつて更に地震のあ
ひだと申事無之終日如此漸く夕七半時過に相成はじめて
御庭にて鴨の声を聞地震も少々おだやかに相成候かと嬉
しく覚候
やう〳〵大地を這ひ候やうにいたし罷出候処御太鼓御門潰
れ候て出入不通相成候付[日頭|ヒガシ]御門旅宿ゟ
三丁程
え相廻り候処此御
門はいまだ倒れ不申終ニ此門ハ
つぶれず
候得共いまにも倒れ候様に
ゆれ動き御門外左右の堀水あぶれ石垣しきりに崩れ落道筋
ハ皆三四尺ツゝにえみわれあゆむべき所さらに無之当惑い
たし候得共此御門より外に通路なければ無拠右の地われを
とび越〳〵からうじて二の丸へ入り見受候処御住居并役所
向いづくがいづくに候や八重十文字に潰れ倒れ候てさらに
わからず途方をうしなひ候うち御側の衆に行逢ひ 上の御
様子伺ひ候処御機嫌よく御庭え御立退被遊候よし依て御庭
へ罷出候
御前ハ御居間にあらせあられ候処地震によつて御椽頰へ
入らせられ候うち御側の人々いづれも罷出早々御立退被
遊候やうにと申上候付直に御庭へ可被為入と御ふミだん
迄入らせられ候処御草履見え不申候ニ付御側のもの御椽
脇より取出しさし上候うちいよ〳〵強く相成候付御草履
をめしながら御下り立被遊候ともはや御歩行被遊がたく
よつて御側の衆御手を取り御腰を押へ候まゝ 上はじめ
一同まろびながら御庭の広場の方へいらせられ候やうに
とぞんじ候うち御居間御書院向一度に御庭の方へ倒れ潰
れ候へ共 御運よくいらせられ候ニ付在らせられ候処よ
り凡一間ばかりあひだ有之候事故何の御さわりもあらせ
られず候唯御ひと足ニて虎口を御のがれ被遊候事かへす
〳〵難有おそろしき事どもなり
奥女中向ハ追々立退候処いまだ五六人相見え不申依之穿鑿
いたし候得ば多分部屋に罷在候間立退かね候うちニ潰れ家
に相成候まゝその下に罷成おり可申と申事故直さま手配い
たし一同とりかゝり潰家を掘うがち候処三人無難ニて引出
したり
おのぶおなみおやゑの三人は部屋に仕まひいたし居候う
ち俄の大地震ゆへ中々駈出し候間も無之部屋より台所の
方へ罷出可申とおもひ候うち同所壁倒れかゝり候まゝ其
下に相成候よしそれ故上よりもの落かゝり候得共少しの
怪我もなく全く壁の下に相成候も自然の幸を得たる也
跡弐人を捜し候処自分役所の前土間に倒れ伏し居候を抱出
し候処壱人は無事壱人は左の足を怪我いたし気絶のやうす
ニ付手当いたし候得共終に養生不叶して死去す
小安平左衛門娘吉村文次娘也此両人ハ台所に居候付地震
と申候やいなや駈出し候処途方をうしなひやうやく庭へ
駈下り両人手を引あひ歩行いたし候うち文次娘ハものに
つまづきまろび候ニ付ひとあしおくれ候処役所并御台所
の桁等倒れかゝりその下に相成候よししかる処文次娘ハ
少々額口をすり疵くらゐの事にて手足とも少しも怪我無
之平左衛門娘は大桁の下ニ相成頭をつよくうち候よし御
医師ども申聞終に死に及ぶ歳廿五のよし
一夕刻に至り御本丸芝原へ仮御住居出来 上はじめ一統相越
す
一夜に入一時の間に五六度も震ふ大小あり
一五日 晴天風 けふも一時の間五六度あるひハ四五度ふる
ふ山鳴りもある
一六日 晴天 一時に両三度ふるふ
御仮屋に直宿し侍れば板間もる月 御まくのあたりもあ
かくさしければかの岩美や木の丸殿もかくやあらむと
上のみこゝろをよめる
きのふまで風もいとひしねやの戸にもるかげ寒し冬の夜の
月
亦旅宿ハ倒れねども住居あやうければべつに居る所を仮
にこしらへこれにかりねすその有さまは
寝たうへに掃くほどたまる落葉哉
居風呂の中も月夜や鴨の声
皆潰半潰破損所等如左
皆潰之分
一大手外張番所
一同左右土塀
一門内張番所
一御殿向不残
一御勘定所向不残
一御太鼓御門并御櫓
一搦手御門丸馬出し御門
一喰違御門
一門内番所
一中雀御門
一門内張番所
一焰焇蔵 弐ケ所
一米蔵 五ケ所
一御本丸御武器蔵 弐ケ所
一御作事役所
一稽古所 弐ケ所
一弓矢并砲術場
一片端通り番所
一学問所
一手廻り部屋
一小人部屋
一矢狭不残
一稲荷社
一御休息女中部屋
一御長屋 八棟
一侍屋敷 三拾七軒
半潰之分
一米蔵 三ケ所
一御勘定所土蔵 壱ケ所
一御稽古所
一日頭御門内番所
一御休息御居間ゟ御三ノ間辺御錠口番小使詰所迄
一御厩 二ケ所
一丸馬出し御門内張番所
一飼馬置場
一御厩物置
一御長屋 拾六棟
一侍屋敷 二拾六軒
破損之分
一大手渡り櫓
一二重御櫓 弐ケ所
一日頭御門
一焰焇製作場
少損之分
一御駕籠置場
一縫殿助殿旅宿
一中雀御門外御馬建
一御長屋 三棟
一焰焇製作場 弐ケ所
一勤番小屋 壱棟
一大手御橋并黒門 三ケ所
屋敷皆潰者名前
五十川佐司馬 神戸甚右衛門
水野助左衛門 栗原五郎三郎
服部純平 秋山頭四郎
清水安人 大野久太夫
鈴木重蔵 富沢門弥
田中作兵衛 神谷友右衛門
杉山束 鷲見房太郎
土方留之助 鈴木源一郎
江本岩右衛門 角田太左衛門
広地彦五郎 大須賀佐五郎
久米延蔵 四日夜潰ル勝見織右衛門(竹内申吾
稲垣源次郎兵衛
五十川楠太 同所半潰之分
菅野源右衛門 別所頭太郎
藤田赤蔵 原田糺
三浦佐太郎 戸塚小十郎
木塚岩次郎 吉田善左衛門
鈴木懸右衛門 鈴木弥一左衛門
吉田寛輔 鈴木五郎作
田中勇 大塚久吉
柿崎求馬 土方直一郎
村瀬登 秋山吉兵衛
原田兵衛 小高平馬
稲垣名兵衛 大岡亀寿
高見沢保助 小林要造
根井早太 小損 駒留陋斎
山下庫次郎 蔵潰住居半潰島津恂堂
内野茂左衛門 蔵半潰住居半潰深沢雄甫
森源吾
小野順蔵
草間小太夫
横田兵学
小熊弁之助
駒留判次
丸山与一右衛門
伊藤半六
森下楯之助
雨宮又右衛門
竹内亥三郎
御城下住居御医師
小損 柳下恵斎
一御領分村方潰家凡 四千九百三拾九軒
一地震ゟ半時ばかり過て津波千本松原え打来凡五十間程幅弐
丁程かきとり汀深さ凡四拾尋程に相成候由川口ゟ狩野川へ
も打込河岸土蔵物置流失有之
一凡在町家居の倒れ候を見分致候ニ下家有之方えは不倒多く
ハ本家表之方へ倒れ候二階家ハ大方二階下ゟ柱ほぞ折れ候
而倒れ候分ハ二階其儘損じ無之三島駅には二階下の損じ候
処を取退け二階を其まゝ住居ニいたし候家六七軒有之
一小林村御城ゟ一里北東にあたる凡家拾弐軒程土中ニめり込死人九人之
内七人追々堀出し弐人は終に不知土地めり込凡幅五拾間程
長弐丁程深さ四五丈立木など其まゝなるもありて如深谷大
石所々散乱ふたゝび住居も覚束なく見えたり六七尺の地何
ケ所と言事をしらず
(この間に絵二枚あり)(注、「絵」省略)
沼津宿魚町油屋彦七方ニ大坂丹波屋利左衛門ゟ申越候書状
写十一月十五日附見舞状之未ニ
当月四日巳上刻当所大地震建家損じ多く大騒動翌五日夕
七時過頃大地震之上沖合大イニ鳴り津波両川口に居合候
数万之船一時ニ内川え押潰寄地震逃れ候以後ニて町方の
者ハ小舟ニ而川々え乗出し居候船も共ニ大船の下敷ニ相
成即死数万人怪我人数不知橋々落人家崩れ多く目も当ら
れぬ次第筆紙に難尽大変地震も少々ツゝ有之未治不申何
事も穏ニ相成候様祈念御座候大あらまし同対申上候 以
上
右同人方に遠州浜松天神町油屋藤助方ゟ之書状写十一月十
二日付
去ル四日当国大地震ニ而前代未聞之大変誠ニ驚入候追々
風聞も有之候得共貴地様辺も御同様之様子ニ承り心配仕
候私町内も潰家六七軒其外土蔵居宅半潰数多く歎ケ敷次
第ニ御座候下拙方仕合と怪我人も無御座破損も薄く候間
此段乍憚御安意可被下候尤当国海岸通リ別而強く殊ニ津
波も有之人死等も余程有之趣返々残念に存候下略
右同人方え南部備後町福永甚兵衛方ゟ書状写十一月十七日
付
去ル四日朝五時過当地大地震有之又候五日夕七半時頃大
地震奉驚入候然ル処東海道筋御様子承り候へば右大地震
之上大津波ニ而御地も殊之外大荒之由中略当地も御同様
混雑仕居市中一統広場へ逃出し野宿仕当地之儀ハ夏以来
之地震ゟ少々軽く御座候而家ニ別条無御座候間御安(ママ)被遊
度候漸両三日以前ゟ本宅へ罷戻候今ニ少々ハ震気有之不
安之事ニ御座候下略
右同人方え濃州岐阜柏屋市蔵方ゟ之書状写
上略当地も相応之地震ニ而昼夜表住居仕候併今日頃は大
イニ多分ゆすりハ仕不申候得共何分大変之事ニ御座候下
略
沼津駅長清水助左衛門旧記写
(この間に宝永山出現之図あり)(注、「図」省略)
宝永四亥十月四日九時大地震道中筋吉原町ヨリ先々家居損
申候豆州下田町津浪揚申候道中荒井津浪大坂津浪揚大変紀
伊国浦々四国土佐浦津浪
一同五年春宿々大名衆御手伝ニ而御普請有之御三人真田伊豆
守様吉原ゟ由井迄酒井佐衛門尉様奥津ゟ掛川迄御見分竹村
直左衛門様本多吉十郎様袋井ゟ先前々度々地震有之候由
一亥年十一月廿三日四時富士山自焼極月八日迄砂降富士裾御
殿場ゟ先駿河相模武蔵
一五年三月八日ゟ九日迄京大火禁裡不残災上当寅年迄
百四十八年来ル
甲寅十一月四日魯夷下田湊に碇泊しけるが辰刻過大地震引
続き大津浪打込来り夷舶大ひに破損したりされども異人ハ
つゝがなく唯一人死すとかや是ハ我国民の津浪にひかるゝ
を見て異人ども舶中より海上に数十人飛入凡百人を助たり
国人を助けんが為に没したりといふ
扨異舶其破裂を修補せんことを 公に乞ふしかれども下田
ハ土地あしけれハ外の地をのぞむ仍て下田より同国戸田と
云所に舶をうつせと 命ありければ十二月四日則舶出して
戸田にうつらんとす折から俄に西南の風暴しく吹出て戸田
に入る事を得ずして雄勢崎より駿河の国小洲の湊に吹入ら
る異船はもとより破損して艪揖もなく海上をのるになやミ
ければ異舶の荷物并卒ども我大船をかりて是に乗組夷船と
我船と都合二艘にて渡海せしに我船異人十五六人是に乗組むも大に破
し原宿の海辺一本松と云所に漂着す夜戌刻頃のよしこゝに
於て所のものどもこれを訴ふ依て韮山の官士来てこれを労
ふ既にして又異舶を下田へ引もどさんと我船漁船也二百余
艘を出して夷船を小羽浜沖小州より二里程沖までひき出したりしか
るに俄に西の暴風吹出ければ船人ども命をからうじてひき
綱をきり皆逃退く異人も我船に乗りたるは吹ながされて江
の浦と云所へ漂着す翌日亦こゝより一本松へ陸地をおくる
是よりして異船小羽浜沖ゟ又もとの小州の湊へ吹もどす悉く風波にくだかれ其
夜のうちに檣も打れ水上の船錺りもミな破れて千本の浜に
ながれよる遂に異舶ハ小州の沖合にしづミたり
或人曰是全く神風なるべし一躰異人ども下田を嫌ひ候ま
ゝ別所をのぞみ居候処津浪にて舶破裂せしを幸ひに外へ
うつり舶の破れを修補せん事を願ひしは此内海へ入らん
との工ミ也しかるに同国戸田へうつれと 命ありし時魯
夷将フウチャジン申やう駿河国江ノ浦と云所に碇船せんと乞
ふ其時官士同所は海底に岩多くして船がかりの場所に非
すと答ふ異人又曰さらば千本の湊に入らんと云是は浪あ
らくして碇舶成がたしと答亦河口の湊と云処にうつらん
と乞ふ此所は水底浅くして大船入る事を得ずと答ふよつ
て無余儀戸田の地を承諾すしかるに十二月四日同所にう
つらんとしてあやまちて内海へ入りしといふてそのまゝ
内海に碇舶せん事を乞はん内存の処大ひに仕損じたるな
るべし地理のくはしき
事おそるべし
(この間に絵一枚あり)(注、「絵」省略)
一異人共は舶をうしなひければ戸田へおくるに我小船をおそ
れ陸路を行かん事を願ふ依て七日八日両日五百人沼津駅を
通行す
一総躰の様子凡長ケ高くして瘦たり中には肉あるも見ゆ色白
く眼ハ蘭人のごとし鼻高く言語ハ不通なれ共音声西国のも
のに似たりものいふ時頻りに手まねする事多し至て早く髪
の毛大方赤鼠色薄黒きもあり又白赤なるもあり毛長きもあ
り多くは短し髭なきもあり多くはあり踵なくして歩行には
やあし也日本語をつかふもの両三人あり
(この間に絵十二枚あり)(注、「絵」省略)
右此一冊ハ予眼にふるゝ処耳に聞くところ其まゝ詞をかざら
ず意をたくまずかきつくるものなれば見る人こころして察し
たまへかし
つぐのぶ