[未校訂]火山の噴出物に関係なく地震のためにしばしば河川がせき止
められた。「五郎左衛門日記」のつぎの例もそれに該当する。
嘉永七年(一八五四)寅六月十四日伊賀・伊勢・京・大
阪・尾州大地震。同寅十一月四日四ツ時甲・遠・駿・相・
豆大地震(中略)藤川四日間水せき留め、四日目の夜押し
切り候て川辺の村々流失。当辺も今度は弘化四未三月廿四
日の地震よりは強く、五郎左衛門馬屋・主屋柱上弐ケ所、
此時ゆりわれ、当辺も村々壱、弐軒位はいたみ、松本七分
通りゆれ潰れ其の上出火あり。松代三ケ一潰れ、岩村田三
十五軒潰れ、三分村五軒潰れ崎田壱軒□□□
最後の安政元年の地震は信濃にも相当の被害を及ぼしたと、
「日記」には見えるが、他の文献には現われていない。「小県
郡年表」(上小郷土叢書)に「宝永四年十月四日昼地震、松
本三百戸、松代百余戸潰れると云」類似の記事が見えるだけ
である。しかし日本史年表としては「全国大地震」と記録さ
れてあるので、この地方にも何等かの影響はあつたであろ
う。編者の母は地震の話の出るたびに「幼少のころ大地震が
あつて、長湖の氷をお寺道へ打ち上げて通れなかつた。」と
話されたのは、いつの地震に該当するであろう。母のまぼろ
しであろうか。母は安政四年(一八五七)生まれである。