[未校訂]第六節 安政の地震
安政五年(一八五八年)二月二十六日午前三時頃越前平野に
地震があった。それより余震は頻発して十日ばかりはやま
ず。丸岡・金津において被害最も甚しく丸岡城は破損し、二
十六日の如きは霞ケ城天守閣、東方の鯱を落し丸岡町及び金
津町などは夜地震が強く、各集落の各家では地震よけ小屋を
作り住むこと月余、特に三月三日の如きは、大雷雨のため小
屋の屋根は漏り、住宅に入れば地震の恐れがあり皆進退に苦
しんだ。又「[橘曙覧書簡集|たちばなあけみしよかんしゆう]」に「夜地震よほど強く御座
候。大聖寺・金津・丸岡などはまだまだこの地よりは強く、
民家つぶれ候もあまたこれある由」と載っている。即ち大聖
寺において壊家百戸、丸岡・金津においても壊家約二百戸、
土蔵破損約七十棟を生じた。
この地震の烈震区域は、昭和二十三年の福井地震のそれと大
体等しいが規模が小さかったようである。尚この地震に先立
つこと約二時間即ち同日午前一時頃飛驒北部に破壊的地震が
あり、壊家七百十一、死者二百九を生じた。その時常願寺川
上流の小鳶山爆発、山体飛散して跡を留めず、以前山であっ
た地は長径四粁、短径約三粁の摺鉢状の窪地となった。即ち
右記飛驒・越前の両地震は双子地震というべきである。(「福
井県の気象」―災害記事による)