[未校訂]安政五年大地震
安政五年(六八年前)二月二十五日夜九つ半時(午前一時)
地面大に震動し、屋上の屋根石は雨垂の如く転げ落ちたか
ら、各々竹藪又は田圃に畳など敷きて避難してゐた、其夜八
つ時(午前二時)に至り、ゆるぎ稍々薄らいで来たが、此後
二十日間も毎日小震動があつた、当町の被害は西新町平沢屋
宗次郎、乗嶺屋与三郎、川窪新町井浪屋善次郎外六軒の家潰
れ、其他小破損の箇所は毎家にあつた、又圧死者一人ありた
るも古書に氏名を記しなし、此地震は北国地震であつたが、
中にも越中の被害は山崩れのため最も多かつた。
此地震に立山連峯中の大鳶山、小鳶山が大崩れして、常願寺
川上流の二渓流堰留り、其潴水の一ケ所が欠潰したるため、
同年三月十日昼九つ時(正午十二時)轟々と大地鳴渡りたる
により、人々不安の念を懐いてゐた、間もなく山の如き土砂
雑りの激流は、常願寺川の上流より押し来り、其沿岸の家
屋、田畑、人畜など何彼の嫌なく奪ひさらひ、残らず海中へ
突き出てしまつた。
同年四月二十六日再び前日の如く、大鳴動あり、程なく前に
数倍したる大激流は、大扇形に汎濫し来り、富山町は鼬川以
東の家屋は、浸水或は流失し、新庄町は其家屋過半流出し、
大田用水復興人夫九十余人は一纒めに押流されて溺死し、常
願寺川沿岸附近の惨状、実に名状することが出来なかつた。
此の両水害の損害概略左の通り
田地流失高三万三千二百八十余石、家屋流失二千九百三十
戸、溺死人数八百数十人