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項目 内容
ID J1700168
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1858/04/09
和暦 安政五年二月二十六日
綱文 安政五年二月二十六日(一八五八・四・九)〔飛騨・越中・加賀・越前〕
書名 〔木町委細帳〕高岡市木町 木町文書保存会
本文
[未校訂]安政五午年二月廿五日、夜九ツ時過地震動キ候ニ付、人々起
出、前江逃出申候、尤大地震ニ而此前弘化四年之分ゟ大ニ覚
ヒ誠ニ驚申候、よりもどしも多ク、引続日数三十日も少々之
地震有之候、扨右廿五日之夜、地震ニハ高岡之内ニ而も別而
河原町は殊之外大ニ而其上地面所々割レ、夫ゟ水并砂ヲ吹出
シ申候、梶原町称念寺御堂内陣之方後にかたむき大損シ致し
候、右河原之事ハ中々恐ろしき事之よし、乍去潰家無之候よ

一今石動河原町三拾軒程潰れ申よし
一此近辺ニ而も土合村等其外大損之ケ所有之事
一伏木 放生津等ハ津波来り候哉と四五日案心之躰無之候事
一立山湯之辺大抜ニ而折節湯さや等ふしんとして人足四五十
人斗も罷越居候処也、山ぬけニ而埋マレ申よし、且谷川等
埋リ一時ニ流れ出候処也、あしくら(芦峅)等砂埋ミニ相成、在家
并坊舎等も殊之外砂埋ミニ相成申由、大変至極前代未聞之
事、将又立山大とび小とびと申山之辺ニ而水ぬまい居、終
ニ何れへ落候哉、右山ノ下村々富山御城下迄も日々案心無
之候事也、四月廿七八日之頃、右大とびノ口きれ候よしニ
而富山ノ新庄より上ミ手村々どろ水ニながれ、凡壱万人も
溺死いたし候よしニ申候、誠ニ大変至極水橋ニも家六拾軒
斗ながれ申よし、富山ハ橋(水橋)ゟ向、大騒動之よしニ候、田地
ハ加賀領富山領ニ而拾万石つい申よし、新庄ゟ上之手村々
ながれ申儀、安養坊山ニ而ミれハ幅弐里、長サ六里斗、平
河原の如く相成よし
右村々溺死等之事ハ中々筆頭ニ尽申かたく、当所之事ハ誠ニ
仕合ニ而異変も無之、只動キ候迄ニ候、依而三月十八日・九
日両日地震祭り高岡中いたし申候事
但し此一件絵図等并委しき事ハ弥平次別記有之候
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻4
ページ 635
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 富山
市区町村 高岡【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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