[未校訂]嘉永七年(西暦千八百五十四年)六月十五日地震あり、記録
にいふ『十四日九ツ時(夜中子刻、十五日午前零時)大地震
良(ママ)二刻斗り明六ツ時に至るまで聊小なれ共四度震ふ。夫より
二十日迄七日の間度々の地震此時津浪の上ることもあるべき
かと用意まちゝゝに及べとも事なく治りぬ。』此時は山城、
大和、和泉、河内、摂津、近江、紀伊、丹波、尾張、伊賀、
伊勢、勢前、諸国大地震で、郡山、奈良、上野、四日市を連
ぬる線が震源地で、同地方は死傷三千三百余、倒潰家屋八千
四百余を超えたといふ大地震であつた。記録に『此地震諸国
所々大荒れ、大和、河内、伊勢此辺は地震は大荒也、伊賀上
野の城下七分通り家倒レ其上、出火にて焼失死亡数不知、其
近辺は地面割れ一里余り泥海の如く相成、又郡山、奈良、四日
市大津、右之辺は一在所に人四五人斗り残りたる所も是有よ
し、京都は土塀石燈籠土蔵など倒レ潰レ表へ畳敷住居候由、
越前福井の城下家潰レ出火にて不残焼失』と幸ひ、我湯浅は
余震に過ぎなかつたやうで(○下略)