[未校訂](室津村勝治郎の備忘録)
六月十四日(七・九)夜九ツ半(午前一時)頃大地震、尚又
明十五日(七・九)六ツ半時(午前七時)同大地震にて民家
潰す。並びに人多く死す。古市にて人数六十四人死す。南都
郡山にて多く死す。尚又川筋道筋谷の山崩等是又大層難計事
也。尚十三日より地震初まり毎日雷鳴の音数知らず、同廿一
日夜五時(八時)又大地震。尤も和州・山城・伊賀・伊勢・
近江町家・民家皆々外にて小屋立て住居致す。依之盗人多く
徘徊する事。右地震の儀十月末方に相成候ても、一月に一度
又は四五度もゆることも御座候
幾日も竹藪に蚊帳をつってねたと当時の恐怖を語り伝えられ
る安政の大地震である。領主に救済方を歎願した室津村庄屋
文書には損壊家屋十六、内丸倒本屋一(中尾)、納屋一(中窪)
山崩れ十一カ所、田畑決潰四十カ所、渇水のため毛付け不能
の田地二町、床締めを要する田地三反六畝十五歩(深さ平均
三尺)をあげている。そして安政六年春になっても七反余の
不毛付田を残した。
杉原村ではこの大地震のために水脉が変り、三町歩の田地が
畑地と化して十余戸、六十余人の住民死活の問題となった。