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項目 内容
ID J1600225
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/07/09
和暦 嘉永七年六月十五日
綱文 安政元年六月十五日(一八五四・七・九)〔伊賀・伊勢・大和・山城・近江・河内〕
書名 〔大地震難渋日記〕添上郡月ケ瀬村石打郷土資料館
本文
[未校訂]嘉永七甲寅年六月
松平時之助様御領分
和州添上郡石打村
六兵衛
六兵衛
三十三才

きの
五十五才

志め
二十四才

猪之松
十三才

こん
十才

寅之助
八才

こま
二才
下男
寺脇勇次郎
下女
奥ケ原村
おまつ
〆家内
九人
嘉永七甲寅年六月十三日、男召連、字薬師堂畑ニ而、小豆植
致し居候処、仕事の工合ニ而九ツ時迄勤居候、早他家ニハ昼
飯喰居、又は昼寝ニもなり候由、扨、右畑ニ働居候処、どふ
〳〵と鳴来り、何ともなく立見候処、端なる田地之稲さわ
〳〵とうこき、水たぶ〳〵と飛上り、向なる瓦屋(の)藤台・細工
小家之後なる稲葉渋はら〳〵と落る、是を見てさて〳〵大地
震成と、其儘仕事を止、内へ帰る、家内申様、誠ニ〳〵大地
震なるに、何とてはや〳〵帰り来らんやと申ゐる、夫より昼
御膳相すミ、昼寝いたしゐ候処、又候ゆり来り、家ぶり〳〵
鳴事きびしく、家内とも門を飛出あきれゐる、頃は八ツ時な
り、夫夜へ向候而も少しつゝのゆり有之といへとも、格別之
事無之為、ミな〳〵誠ニ大地震成(り)しといゝ、其夜もは(や脱カ)明ニけ
り、翌十四日栗林と申所畑え、さつまいも地打ニ参り居候
所、四ツ時又候ゆり来り、畑小麦苅取終而休居候所、丁度馬
の腹ニあぶ喰付、腹のかわをうこかすことく、なみよるてい
にゆりうこく、まことに〳〵恐れ、程なくて帰り、右家内と
も恐れゐる、其日祇園ニ而、大川原村桝屋市左衛門、天王様
へ参詣いたし、妹婿のことゆへ立寄曰、扨々昨日ハ大地震ニ
而、昨夜大河原宿ニ而は、家之内ニ寝る者壱人もなく、火を
消し、牛馬を門畑ニつなき置、火用心廻りかたく相勤、一夜
寝るや寝す、門の中へさを竹ニ而かやを釣、夜を明し、其時
本陣森地平左衛門殿被申候由、大地震ニハ畳を敷、長き竿竹
を一本宛持居るべしと古来ゟ申事、若地われ候ともしつみ不
申、用心なる抔被申、色々心配いたし、夜終寝す、今日は眠
たき由申居る、当所ニ而ハ左程之事もなく、名々内ニ而寝た
り、夫は用心のよろしき事なりとゐゝ、さて〳〵咄しはや七
つ頃ニも相成り、市左衛門も家内まつ(ち)兼居るよし申、帰村す
る、其間〳〵平生の地震のことくなる少々宛ゆり、既ニ十四
日夜四ツ時ニも相成、酒六店ニ而申様、最早きのふの様なる
地震も有之間敷候へとも、此ゆる間〳〵にどんどんと何国(ママ)の
程か大筒の如なる音する、是心得かたき気のゆるされぬ事な
りと申、酒六なとも申様、またきのふの様なる地震ゆるも知
れす、奥座敷ニ而ハ寝られす、猶門ニ而も蚊屋ハ釣られぬ抔
と申居る、中々左様な事有之まし、先々安心ニ而寝られよと
申帰宅する、扨、其夜ハ国中奥山と申所、植木や江戸屋吉兵
衛と申人泊り罷居、家内共能く〳〵寝入候処、夜八ツ時ニ有
之頃、何かばた〳〵落、びつくり目覚し見れハ最早妻志め、
子をいたき、なきすわりおる、奥納戸ニハ母子とも三人寝て
居りしか、母大声ニ而、や大地震なり、はや〳〵出よと申、
其時また座敷のうへ足蹈とまらぬ如くゆり、母妻其外子とも
追々抱き、裏口へ出し、猶、亦右上の間の客人、初め而之人ゆ
へ勝手も知られす候て、中戸へ寄りお客〳〵と大声ニ而よひ
候へとも、はや戸は弓のやうにあちらこちらへまかり、中々
明る事叶わす、客人の音せす、夫ゟ裏口ゟ出、家内皆々召連
東へ出んとするに、上なる平吉忰吉左衛門かけ来り、大声ニ
而早々来候へと、親父様・弟弐人おしに打れ得出ぬなり申、
夫捨置れすとかけ上り見れハ、はや又五郎参り、納戸の壁切
出しけり、夫ゟ家内東道迄連出、表門へ廻り見れハ、門ニハ
右奥山之仁、まるはたか身ニ而地べニすわる、最早門ハ壱尺
四五寸斗り、架(縁)の下ゟ辰巳之方、二階の石垣へ向われ、恐し
く向ふ下りたるなり、是わと見るうちまた候大きニ鳴、今ニ
も家の崩れ候やと思ふ如くゆり来る、前の森大木さわ〳〵と
ゆる音、家敷柿の木・松の木のゆる音、地ハほふろくの中ニ
而豆をいり、両手ニ而ゆする如くゆり、止めはまた後へゆり
来る、彼是言ふ内二つ三つのゆりニ而、門大われ三筋、少ひ
ゝり数知れす、誠ニ今にもしつみ仕舞やと思ひ、客、猶我
身・下男右三人丸裸身、東へかけ行見れハ、此辺の十軒斗り
の家内ミな〳〵、道ニ而裸身またハミの抔を着て立ゐる、ま
た母・妻子ともに気を付、門も不用心と立戻り、夫から軒に
ありしむしろ一枚持来り、其うへへ右三人すわり、只神を祈
り念仏申斗りなり、隣家もみな亭主ハのこり、門ニ而大声を
発し、念仏またハほら貝を吹立る、また治田村ニ而村中とき
のこへを上、なく声間近く聞へ、少ししづまれハ声もしつま
り、ゆり出せハしきりに声を発す、是後ニ而聞は、山崩れに
て四軒潰、八人も死たる由、夫故村中驚き、なき声ニ而(ひ脱カ)呼し
と聞、最早其夜もゆりしつまらす、明かたにもなり、表口雨
戸一枚明、せめて先祖の位はいなりと取出し、何国へ成と迯
去るへしと、ゆり止し間かけ込、くらかりニ而仏檀をさくり
見れハ、こけたりくたけたり、色々なり、壱つ〳〵持出、ゆ
る止間々、観音様またハ弘法大師様を出し、雨戸のはつれた
るを壱枚門へ敷、其上へ漸すへ、かふべを土に付て祈りゐ
る、東へ走り行てハ家内のものに気を付、また門へ戻りてハ
念仏申、世間の大声まことに〳〵恐しう聞へ、今にも泥海と
相成やと思ひゐる、はや其夜もあけ十五日朝となり、少し雨
降、東道ニ而やう〳〵傘軒の方ニ有のやら、ミのかさ取寄、
是を着し、ミな〳〵ミちの真中ニ而莚をしき打寄りゐる、誠
十四日夜ゟ月も晴れす薄曇り、十五日昼も曇り恐しき空な
り、かくて、十五日五ツ時にも相成候へともゆり止す、猶大
キなる地震ゆり、家・小家を見れハ今にも倒れ候様見へ、目
も当られぬ気色なり、其時下の田を見れハ、大ゆりすれハ前
の谷ゟにごり水畔を越落くる、少し止ハ水流れす、是恐しき
事なる由申ゐるうち、右之道かけて又五郎の畑われ、小口壱
尺斗りも下り、下なる田へ行見れハ、油をしめる如くあわ
立、にこり水わき上り、また文左衛門・作兵衛の間畑三四尺
斗りもくひ違ひ下り、夫ゟ宗助田・又六田へ向六地蔵峠迄田
地三四尺斗りくひ違片ふき、ゆり止(め)ハ水ハしみ込、ゆり出せ
はわき上り、是を見て[弥|いよいよ]此度ハ泥海に相成哉、誠ニケ様成咄
しハ子供たらしのゆうに思つるに、今度ハ誠になけかわしく
と、ミな〳〵落城(ママ)して、少しなりとも高き所へ上るべしとミ
な引連、長次郎の前なる高き畑ニ登り、後脇辺ミな〳〵一所
ニ莚或ハミのを敷、只たすけ給ひとて祈ゐる、其内ニハはや
空腹にもなり、名々内へゆり止し間走り込ミれハ、竈ハミな
〳〵崩、家中の荒不少、先是を見捨、鉄輪を持出、鍋壱つ出
し飯を焚く、或ハだんこを拵摑喰、誠ニ家・蔵・稲屋を見れ
ハ、今にも潰れそふにて、目も当られぬ気色也、彼是申うち
九ツ時ニもなり、世間の様子聞見るに、村中ニ而十四日夜八
ツ時、壱つのゆり十三軒家潰、其外建物数多く、追々ゆるニ
付、以上半倒・本倒家〆六拾軒斗、御上様御聞済御手当下
る、十五日昼後、村中之もの氏神様へ御千度垢離取とて参り
候処、一の鳥(居)から上なる通り井(鳥居)、其外石檀・石垣崩、仲々宮
へ登る事不叶候故、寺様の下の辻の所へ榊を立、宮井戸ゟ是
迄御千度取、其時未ゆり止ぬゆへ、誠ニ足踏留る事出来す、思
ハす千鳥足ニなり、誠ニあやふき次第なり、さて、八ツ七ツ
ニ成といへともゆり止す、夫からまた東へ戻り、竹を曲、莚
をはり、其下へ這入、平吉・六兵衛・又五郎・嘉次郎〆四軒
同座して、其夜を明す、十六日ニまた右素家立かへ抔、当分
我家へ帰る事出来すと思ひ、少々手道具・世帯道具持来り住
ゐる、十六日八ツ時是非(ママ)沈ミ候由、世間一統の噂一寸成とも
高き所へ上るへしと、何国ゟかふれ廻す、また是を聞素屋を
出、又此うへなる畑へ向、ミな着物少々喰物を用意いたし登
りゐる、然る処是も只鳴而已ニ而格別の事もなく、また夕か
た素屋へ下り、是ゟ素屋へ雨もり屋根藁かへ建かへ候事七度
也、十二畳の所ニ蚊帳四張釣、夜霧かゝり次第、誠ニ〳〵難
渋なる事也、夫ニ付てハ夜分不用心なとと申立、とび口・鉄
棒或脇差・鉄砲などの用意仕、洞貝を吹立、素屋ハ申ニ不
及、銘々明家へ廻り、村中夜寝る者壱人もなし、只くる〳〵
と廻る斗也、夜廻りハ四五夜ハ村中[違ひ|(たがい)](互いの宛字カ)に廻り、夫ゟ小場廻
りと相定、其方ニ小場ニ而、素屋壱軒一組とし而貝を吹廻
り、次素屋へ貝を渡、段々順々に夜廻する事七月差入迄也、
扨々、十九日、廿一日大悪日のよし世間の評判用心いたすへ
しとふれまハす、十九日ハ無難、大庭(抵)ゆり通しニ而ハあれと
も格別にもなし、廿日夕かた内へ戻り、下の間壱間へ寄集
り、戸障子を明ひらき夜を明す、同廿一日大悪日と聞ゆへ、
夕飯を架(縁)にて喰、また東なる素屋へ家内つれニ而参る、後を
しめんとて雨戸をはげ居候処、また大地震ゆり来り誠ニおと
ろき、是十四日夜八ツ時、またハ十五日朝五ツ時、夫につゝ
く大ゆり也、誠に〳〵恐れ〳〵、夫ゟハ只内へ這入事おそろ
しく、夕かた益々神棚へ燈明上に戻り、早々迯る心ニ而、は
や〳〵素屋へそ帰りける、また廿四日ハ悪日なり、また廿五
日も大悪日也と色々にせつを立候得共止間なし、ゆるといへ
とも格別の事もなく、廿六日ゟ大工・木挽四五輩雇ひ、座敷
麻(床)のはなれたるを、板をはづし見候処、麻の下を亥角ゟ奥納
戸の麻下かけ地われ、西手なる大蔵の下ゟ通りたる筋ともに
三筋われ、広さ弐尺斗り南下りに口あきあり、誠々家内ハ申
ニ不及職人迄あきれ、是ニ而ハ家もくるうはづなりと言、夫
ゟ四本はりを入、はね棹柱表ゟ西麻脇迄下家柱かけて柱七本
八寸程上る、先当分其儘ニ而はりも取らす、表ひさし、西ひ
さしゟ四本都合八本其儘置、下八畳丈は麻板はり架板并(並)置、
漸七月三日我家へ戻る、夫ゟ段々ゆりもうすふなる、昼夜に
五六拾へんの所、四拾へんになり、三拾へんになり、七月・
閏七月・八月あたりは、どん〳〵となる大筒のやうな音も日
ニ五六度ニなり、ゆりも七八度位になり、段々薄らくゆへ、
有かたく神国の御かげとよろこひ、最早我家のやうなる心に
なり、草もろく〳〵に取らぬ田をかり、畑ハ豊年、手入せぬ
わりには取も多し、田ハゆり〆水の出ぬまゝ捨置候ゆへ不作
也、誠々伊賀の国ハまた格別の大ゆりニ而上野御城三大手ミ
な崩、御城代の御家敷・丸の内・御本丸御殿・諸家中壱軒も
不残家倒れ、城下町々大庭家潰、其外在々大あれゆへ死人も
数不知、北の側東村前大キなる湖水出来、舟ニ而のり入ると
いへとも、竿立す、深さ中々よふゐならす、是程の事ゆへ伊
賀地震と世に申なり、はや地震荒相撲番附ニも伊賀上野・い
せ・四日市・大和古市・奈良・越前福井是等日本の大災な
り、誠に〳〵是迄京都大地震・信濃善光寺大地震有といへと
も是ハ格別、此度は古今稀成大地震と世に広く申なり
かくて九月ニ至り十月ニ至れ共、日夜ニ四五度宛ゆり、其内
五日目・七日目ニハ門へ飛出る様なる事あり、然れとも最早
馴候ゆへ常の様ニ思ひ、両三年位ハけさしも有不(ず)なそと申し
暮居る
(注、以下十一月四日の地震の記述につき省略)
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻3
ページ 207
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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