[未校訂]安政元年(一八五四)の地震の被害は全県下に及んだ。圧死者
八〇〇人、家がたおれ、大地のゆれる中を人々は全く逃げる
のに精一ぱいだったという。
久居の侍屋敷のようすを次のようにのべている。
安政元年六月十五日午前二時頃大地震あり、城中ことごと
く驚きとびおきた。幸い久居には潰れた家もなく、死者もな
かった。
久居の野村にある玄甫菴の僧はその由来記の中で次のよう
に記している。
嘉永七甲寅年六月十四日夜半丑之刻ヨリ始十五日朝辰ノ刻
大地震、同年冬霜月初四日申ノ下刻ヨリ五日辰之刻到迄震
動夏冬両度大地震ニ而堂宇悉破損相成不得止事。文久四子
之春堂宇再修造。
(慶応二年玄甫菴再修造記)
同年十一月四日とこの両度の大地震で、堂宇ことごとく破
損したことを記し、この地震によりついに文久四年(一八六四)
に玄甫菴も再修造しなければならなかったことを述べてい
る。
また、南勢(多気郡)の無足人・堀井才之助は、その万代
記の中で地震の恐ろしさを次のようにのべている。(○「大字
前野郷土誌」(堀井光次著)によると明和町旧御糸前村で元
治元年十二月より書き継がれた文書ということである)
一伊勢大地震の事
安政元年六月十四日 夜九ツ時(夜中で実質は十五日に
なる)ゆり初り長くゆすり申候也。其後度々小々づつゆ
り朝まで大たいの者は寝休み不申、家により外へこやを
掛けやすみ申候事。其後も度々、四日、十四日、二十四
日と妙に四日を知らせゆり申候事。
安政元年六月の大地震で伊賀上野を中心に大被害をうけ
た。早速久居藩庁からも上野城代へ使いを遣わされた。
久居御家老より
久居方昨暁より余程之地震に候所爰許は不容易趣承知仕
候。御城御殿向之様子承知仕。(後略)
(伊賀上野市史稿より)
その後もマグニチュード(地震の大きさ)八・四が二回も
あり「妙に四日を知らせゆすり申候」と万年記にあるごと
く、余震も相当にあったことと思う。そのたびに人々は家を
とび出し、庭に小屋掛けを作ったり竹やぶでおののいていた
という。中でも十一月五日の大地震は最も被害が大きく、侍
屋敷十九軒全壊というから約十分の一弱が壊れたことにな
る。侍屋敷二五四箇所の被害、 一般庶民の被害はおして知る
べしである。
久居藩の救済 藤堂藩では伊勢領内の各村被害者へ潰家一
戸につき銀五〇匁、半潰家はその半分の割で下行され、総額
一五〇両(一一六戸の全半壊)に及んだ。(津市史稿)久居
藩も義倉から御貸金があり、救助の手がさしのべられた。
けれども村々では村借がふえるばかりで、くらしは一そう
疲弊の度をましていった。