Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J1600004
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/07/09
和暦 嘉永七年六月十五日
綱文 安政元年六月十五日(一八五四・七・九)〔伊賀・伊勢・大和・山城・近江・河内〕
書名 〔書溜草紙〕東北大学附属図書館・狩野文庫
本文
[未校訂]一当月十四日夜丑中刻大地震にて尾州津島御祭礼中大混雑、
本社并社家等倒れ町家も少々潰申候、勢州四日市宿北町南
川原并南町半町斗倒れ、十五日暁ゟ出火に相成町家八九十
軒焼失同未刻鎮火、桑名石薬師・追分・庄野大荒、亀山・
関・坂下は格別の義も無之、大津・草津・石部・水口辺大
荒、膳所御城崩、家町家も打倒申候、近江伊賀大和河内山
城の内伊賀上野御城大損し御家中町家共大半倒、往還ゟ泥
水吹出し五百人斗行方不知、是は土中へ震み込(ママ)候哉相分り
兼候由、南都は四分通潰、六分通大損し、怪我人多く即死
三四十人御座候由、郡山辺も同様の由にて御座候由、郡山(ママ)
辺も同様の由に御座候、京都は東西の方家蔵共大損し、北
西は格別の義も無之、伏見・大坂辺は同夜酉中刻頃の由、行
燈の油ゆりこぼし申候、筑後様向岸蔵御門長家等倒申候、
天王寺辺は別て強く、堺・兵庫・池田辺大坂同様の由、尤
京・大坂・伏見南都は十四日夜子中刻、伊勢・伊賀・尾州
辺同夜丑の中刻と申事に御座候、十七日朝迄ゆれ申候趣上
方筋飛脚取次所より申越候間御届申上候 以上
寅六月廿三日 定飛脚問屋
京屋弥兵衛
廿日出の写
六月十四日夜大地震翌朝迄に十七度程と申上候処其後一昨十
八日朝迄毎日昼夜五六度つゝ淘り今にも善光寺の躰の相成可
申哉と甚心配夜分は不寝の者も有之宮ノ宿男女共熱田大宮江
籠り居申候由此度の地震御地にても嘸々噂御座候と奉存候扨
伊賀の城下は人家不残倒れ候と申候江州日野勢州四日市神戸
次に京道中大坂表は十三日午ノ刻淘り十四日夜ゟ十五日迄に
三十度程の由是は川々多く候に付舟に乗り開(ママ)き居り候由近き
所四日市は旅籠屋等多分倒れ其上出火に相成死人四百人余と
申事其死人悉も(燃)へにて何国の者か不相分候向多分有之候由細
川の家中右宿に泊り居り死候向有之右宿は当月末祭礼に付名
古屋ゟ右祭り山車出来に付職人等多人数相越居り名古屋京町
筋に御用聞淀川屋と申上の御召服御仕立に御座候右弟并同人
忰召仕共三人四日市車幕仕立方に相越居り右何れも即死又ハ
播(カ)町より壁師五人参り内三人即死其外名古屋ゟ相越居候商人
とも六人程も即死の由此表の分斯之次第其外諸国の旅人方一
所の者共は数多のよし右宿の紀伊国屋と申は宿にては一番の
大家既に一昨年勢州参宮の帰りに右宿泊り兼々勝手も存居申
し右方家内下男下女等多く有之候処逃出程猶予無之家内不残
倒れ死す又家の内取片付不行届夫成に相成居候家々数多有之
候て往来留に相成廻り道致し候ても右同様に有之候付無余儀
路筋の処は倒れ居候家根の上を通路いたし候由神戸の宿抔は
大地割人々并穀物俵埋り込有之候由大日(ママ)並に神戸四日市参り
居候者の下帯斗りにて逃出桑名にて繻伴(ママ)一ツ求メ着用帰宅の
上私方へ出入の大工隣の者にて右の国々の儀[慎|マコト]成由承り申候
伊勢路地震
当十四日夜丑刻頃ゟ大地震いたし四日市宿の内人家大半相倒
れ十五日明方より出火小町不揃(残カ)両町少々焼失死人怪我人多分
有之候由上方筋は亀山辺ゟ手前伊せ路神戸迄多分荒れ候由承
り候余は言語難尽候趣承り候に付右の段為被知申上候 恐々
寅六月 小嶋権之助
地震の義凡承り候四日市は六七歩位も損し候旨庄野は大分損
し候様子に承り申候
六月十七日 御伝馬所
外に申上候越州福井御城下去る十三日夜家数四千程も焼失寺
も三四拾ケ寺焼け其内両懸ケ所も焼失十四日火鎮り不申内に
出立いたし候故凡咄し承り即刻江戸表江の飛脚に承り申候
藤堂和泉守様御家中常川儀之進殿七瀬彦右衛門御下り
右は只今早追にて御通行相成候に付承り候処当月十四日夜大
地震にて伊州上野御城内数知れ不申候由相聞候依之御注進申
上候 以上
六月十七日 熱田宿
乍恐以書付御訴申上候
一当月十四日夜丑の刻頃江州路伊勢路四日市宿迄より水口宿
其外近辺大地震の趣尤四日市宿水口宿辺建家土蔵潰翌十五
日酉ノ刻未相止不申由不取敢東海道宮宿取次所にて為知申
越候間此段御訴奉申上候猶又巨細相分候はゝ奉申上候 以
上寅六月十九日 定飛脚問屋
年月事
呉服町
利右衛門地借
江戸屋仁三郎支配人
浅七
御番所様
伊勢 伊賀 志摩 近江 尾張 美濃 大地震
頃は嘉永七寅年六月十四日夜八ツ時に、伊勢国は東海道四日
市宿外はしめとして東は尾張、西は近江国、北は美濃、南は
伊賀志摩の国にいたるまで大地しんにて其ひゞき大かたなら
ず、取わけ伊勢国四日市は甚つよくしてまづ北町不残、南川
原不残、南町は半丁程打倒、夫より出火して砂けぶりをふき
たてざんじに家数九十軒余焼失、すはまだ・赤堀・落合橋・か
はけばし・長田ばし・加太夫ばし・日永・砂川・うねめ村・
つへつき村こと〴〵くあれ、橋々は落流れ候也、折から老若
男女いかてあわてざらんものはなく、各々にけ出さんとなせ
ども大地大にわれ心当べき方角だに定めがたくして、けが死
亡の者凡五百人余となり斗(ママ)、馬即死凡百六十疋余なりとか
や、又桑名十一万石松平越中守様御領分在方甚つよく御城下
やた丁屋敷〳〵・大門・やす永村・町屋川辺土蔵大にそんじ
あるひはつぶれ、春日の社・八幡・はづ明神社いたむ、二重
つゞみかねいば村ミやつかいて(今)川辺七ツやみたき川すへ土橋
おちる也、長嶋は二万石増山河内守様御領分、御城下大にそ
んじあるいはつぶれ、在々こと〴〵くあれる、石やくし・庄の・
亀山は六万石石川主殿様御城下并に在々こと〴〵く大にそ
んじ、又江近(ママ)路は関坂の下すゞか山山田村そんじ、石山宿水
口二万五千石加藤越中守御城下在々、いしべ・草津・大津・京
都迄も大方ならず相震、中山道はもり山ゟ大田辺迄都合十六
宿間大にふるう、大垣高須御領分尾張は津島・佐や・まんバ・
みや・大山辺迄、伊勢は神戸万五千(ママ)石本田伊予守様御領分甚
しくふるう、白子・津は三十二万三千石藤堂和泉守様御領分
御城下共いたつてつよく所々そんじ、夫ゟ宿々山田辺近辺大
にそんずるといへども両宮は別条なし、あさま山大にあれ、
田丸久居五万三千石藤堂佐渡守様御領分八田辺つよくしてそ
んず、近江は彦根三十五万石井伊掃部頭様御領分すべて、湖
水のめぐりハ甚しく相震、よく十五日の朝よう〳〵鎮り諸人
あんどをなしける
伊勢両宮近辺は殊更あれるといへども両御社はいさゝかも
別条なし、御神の尊こと是をもつて知り給ふべし
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻3
ページ 16
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県
市区町村

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る

検索時間: 0.001秒