[未校訂](藤井此蔵一生記)愛媛県越智郡井ノ口村
十月二日江戸大地震大火の事。明日村の郷の上に喜代次と申人家中に奉公致し、江戸へ登
り、今村上伝九郎とと(ママ)名乗る。郷の上を村上と名乗哉。右伝九郎より送りし書状を是に写す。去る十月二日夜
四つ時、江戸大地震有之、御本丸并御大名様方御屋鋪、町方
所々家蔵震崩れ、地面響き割れ、跡は大出火に相成、焼口三
十六ケ所にて、明日九つ時迄焼。江戸中家蔵三分通りの焼、
五分通り震崩れ、弐分通残に相成、誠に大変にて逃行間も無
之、死人大凡弐拾万九千人程有之候。当方御屋鋪は別条無之
候。猶御屋敷近辺大出火にて、甚危候処成共相逃れ候間、御
長屋三拾間程震崩れ、誠に大痛に有之候へ共、御神仏の御蔭
にて死人は無御坐候に付、先難有仕合と相悦相勤居申候間、
左様御承知可被下候 以上
当国小松の産伊三次申者、我氷見表江材木等仕込に参り候
節、段々心切に付合候処、常夏方他人の女房を引連れ尋来り
候故、平助と改名致、森川為蔵家を借請遣置候。小松新宮に
岡居[并|なみ]右衛門と申御方は伯父故、先此人江内々書面送り候
処、親類共両度連に参り候へ共、帰り不申、色々理解致候
処、承知致候に付、十月七日出立致、右平助并婦人を召連、
岡居波右衛門殿へ引渡し致し置、金毘羅山江参詣、十二日に
今治江帰り候処、江戸大地震にて御屋鋪崩れ、人死等有之由
にて、御船明日出船と申。御家中町家御見舞或は御悔と申、
大騒動に候事。
其後小松岡居より平助事竹次郎と改名致、此度江戸大変、
御屋鋪大破御修覆に付、左官職にて罷登り候次第、委細書状
差送り候へ共長文故除く。
十一月五日夜、出雲国大地震、湖水辺は地割或泥水を吹上
け候由、讃州観音寺平野屋金蔵より承り候事。