[未校訂]いわゆる安政の大震災は、江戸後半期における最大のもの
で、江戸の亀有附近より亀戸・本所・深川にわたる地域を震
源地として、同二年十月二日の夜十時に突如関東を襲い、江
戸を中心に甚大な被害を与え、その余震は同月二十五日ごろ
まで続いた。江戸府内はほとんど目を覆わしむるばかりの惨
状を呈し、城郭の石垣・楼櫓及び諸門は崩壊し、諸侯の邸宅・
士庶の屋舎及び倉庫の大部分が破壊された。しかも五十余
ケ所より火起こり、延焼その数を知らず、圧死または焼死の
人数は三十万人をくだらぬとされている⑶。蕨宿名主加兵衛は
このことを、同年の「役用向日記」十月三日条に、
一御府内之儀言語ニ難尽大変。地震中四拾ケ所程出火相発
候由。御屋敷向殊之外死去人桶類相尽、其儘死人車ニ而
引出候由。吉原は八分通之死去人之由。中ニも深川・本
所辺地震烈敷、建家無之由。風聞ニは五十万人程之死者
之由。誠ニ可恐事ニ有之候。
(中略)
一千住・草加・幸手辺烈敷風聞ニ有之候。
と述べ、さらに二十一日条には、次のごとく記している⑷○
一去ル二日夜之大地震ニ而御府内潰家、其外之様子荒増。
但し社地門前地迄入
一地震のゆれたる場所 三千二十町余
一土蔵崩れ候あらまし 三万二千軒余
一出火の場所 三十七所余
一寺院堂社のくづれ 六百三十軒余
一地しん出火に残りたる町家 千二百二十四所
右は誠ニ御入国以来之大変ニ有之候。
「地震年代記」によれば、江戸市中を出ると、東海道筋及び
近郷にては程ケ谷宿限りで、神奈川宿は盧舎多く倒れ、本牧
・金沢・鎌倉・江ノ島・浦賀辺まで被害が及び、中山道は上
野の高崎宿限りで、道中に地裂けて泥水の湧いた場所が多い
が、蕨宿より大宮宿までは別条なかったという。また、甲州
道中は八王子宿限りで沿道に別条はなく、日光道中は土浦辺
限りで沿道の家が倒壊し、下総は逆井辺・行徳及び船橋辺が
地震強く、葛西領・二合半領及び松戸・市川辺に各所で多く
の屋舎倒壊をみたという。しかし、蕨宿の場合も相当被害を
蒙っている事実は、前掲日記十月三日条の次の記載から知ら
れる。
一宿内取調候処潰家三軒、土蔵は不残瓦壁土揺落し候。
稀々瓦其儘之分有之。角常八土蔵而已損所無之候。居
宅大破之分、左之通。
下
莨屋良助 足袋屋源次郎 髪結常吉
極大破
紙屋弥兵衛
石井七左衛門 医師好庵 大黒屋はな
町田屋彦左衛門 酒屋石五郎 橋本屋平蔵
高橋四郎左衛門 岡田五郎右衛門
極大破
大住平左衛門
岡田五郎兵衛 岡田新蔵 東屋清右衛門
足立屋亀之助 柏屋喜太郎 勘右衛門 住吉屋弥吉
蔦屋庄左衛門 住吉屋弥五郎
長屋潰候
鈴木又兵衛
中屋八郎左衛門 野村屋作之丞 中村屋庄太郎
豊田屋金兵衛 池田屋与四郎
極大破
中村屋三五郎
中島屋富士太郎 越後屋伊三郎 池田屋喜四郎
石村利右衛門
右之外、小破無之家は壱軒も無之候。角作兵衛方壱軒無
事。
一死去人壱人 荷持和吉
一怪我人壱人 下吉右衛門店寅吉
この大地震は、街道筋の町並みに限らず、郷方の寺社・百
姓家その他の施設・建造物全般に多大の被害を与えた。なお
現存する蕨市内の寺院・家屋その他の建造物が、多く安政以
降のものなることは、この事実を物語っている。三学院の石
塔はもちろん、宝筐塔の数も残らず顚倒したといい、見沼代
用水路の大井筋も、附島村土橋より芝村八幡下まで、杭笧場
所十三ケ所・切場所二十二ケ所・崩所及び割れ場所六ケ所と
いう、多大の損害を蒙っている。
〔註〕
⑶権藤成卿編「日本震災凶饉攷」(昭七)二六四~二六六頁、及び
「品川町史・中巻」(昭七)五六二頁の史料等による。
⑷⑸慶応大学所蔵蕨宿文書・安政二年「役用向日記」十月三・廿
一日条。同月十九・廿三日条。
㈡ その対策
地震に対しては、建造物等を強固にする以外に方法がな
く、これも大地震の襲来には効果がないので、その対策は結
果的には大地震後の応急措置と、復旧事業に限定されること
になる。安政の大地震の場合、幕府は真っ先きに江戸城内及
ひ浅草・本所御蔵の修復にとりかかり、さらに江戸府内の窮
民救助の小屋を取建てている。そして前者には江戸市中の諸
職人を徴発、不足分は代官に命じて在方の支配村々より諸職
人を集め、そのうえ竹木の供出を命じ、後者には支配村々よ
り莚繩・丸太類を買上げ、宿方の諸職人にその用を命じた。
そこで蕨宿の組合村々は十月五日集会を開いて諸職人の名前
を調べ、組合村全体から莚千五百枚(うち蕨宿二百枚)、それ
に竹を蕨宿より六十把(五本詰と七本詰がある)・上下青木村より百把、
等々という具合に差出し、戸田河岸より江戸へ廻送した。江
戸への諸職人・手伝人足は高割で員数を決めたが、これは村
々にとって相当苦痛だったと見え、根岸村名主久蔵のごとき
は「村内の潰家の者は収農に差支えており、大工四人の徴発
を二人ずつの交替にしてもらいたい」と、蕨宿名主加兵衛へ
申出た。このことは江戸の復旧工事が、近郊農村の犠牲の下
におこなわれた事実を反映するものであるが、この時加兵衛
は、「もはや名前書上げにもなり、村々一般のことだから」
と拒絶している。
大震災の後とて人心の動揺は激しく、流言蜚語も多かっ
た。そこで幕府は七日、芝増上寺・上野寛永寺にて人心静謐
の祈禱を執行させるとともに、関東取締出役を廻村させて宿
場惣代らに厳重な取締り方を命ぜしめた。しかも、大地震後
の混乱に乗じて悪者どもが江戸へ入込み、強盗が横行するや
も知れずとして、道中奉行本多加賀守は、五街道入口の宿々
に役人一人ずつを派遣して詰切にし、往来の旅人を厳重に取
調べさせた。さらに、これに準じて最寄り宿々はもちろん、
街道近傍の村々へも適宜の場所に仮番小屋を取建て、厳重に
取締るよう命じた。板橋宿へ呼出された問屋五郎兵衛らがこ
の旨を伝えると、名主加兵衛は直ちに町内の世話人へ申渡
し、組合村々へ触状を出した。加兵衛は、蕨宿の自身番小屋
を上の分は水深の兼吉宅に定め、下の分は島田屋万次郎宅と
し、それぞれ年寄善兵衛・平兵衛を詰めさせ、御用高張挑灯
と御達書写しを渡した。これは当時の社会不安を反映するも
のであり、単なる封建支配者の杞憂ではなかった。江戸周辺
村落では事実、かなりの混乱状態を呈しており、蕨宿でも二
十六日の夜八時ごろ藤屋定七の隠居宅へ脇差の抜身をたずさ
えた強盗が押入り、自身番の者が大勢かけつけたため街道の
上の方へ逃走するという事件が起こった。そこで蕨宿では自
身番の増員をおこない、問屋加兵衛・五郎兵衛を先頭に宿内
の巡回・警戒を厳重にしている。
関東取締出役はまた宿村に対し、江戸市中及び近在村々の
潰家・焼家など混雑につけ込んで、諸職人などのうち作料ま
たは諸色値段を引上げる者があれば訴え出るよう命じた。こ
のため名主加兵衛は十六日、諸職人に右の趣意を申渡して請
印をとったが、時節柄を勘案して「当分のあいだ、大工一人
に金一朱、鳶一人に銀二匁五分、左官一人に銀四匁、瓦葺一
人に銀五匁ずつの作料の引上げは止むをえない」と、これを
認めている。また蕨宿では、旅籠屋などの破損多く、関東取
締出役その他諸役人の御用宿に差支えた。このため名主ら
は、定宿の繰替え等に奔走する一方、修復まで飯料を貸与し
たり、時節柄、飯盛女の三味線ひきを禁ずる等、相当慎重な
配慮のもとに事を処している。
十月末から十一月初めにかけて、漸く世情も平穏化し、復
旧への方向が具体化した。幕府は十一月二日より江戸市中の
十一ケ寺で施餓鬼を執行して死者の霊をとむらう一方、江戸
市中へ徴発した在方諸職人を帰村させ、竹木の不要分を払下
げ、かつ、五街道入口の宿々詰所より出役人を引払い、最寄
り宿々の仮番小屋の詰人数を減らすよう命じた。この間、蕨
宿及び周辺村落でも家屋その他の建造物・施設等の復旧が進
捗し、見沼代用水路大井筋の復旧にかんして御普請役へ検分
を願うなど、宿村役人の動きが活潑化している⑴○
〔註〕
⑴慶応大学所蔵蕨宿文書・安政二年「役用向日記」十月四~十九
・廿二・廿六・廿九日、十一月朔日条。