[未校訂]一要石(かなめいし)
奥の宮の東南200mばかりの処
にこの石がある。石質は御影石の
ようで形は丸く半分は地中に埋まり、地上の高さ15㎝余り
直径40㎝くらい、頂上の中央に一つの凹みがある。
この石、地を掘るに従って益々大きく、その極まる処を知
らないと昔から伝えられている。これは大昔、鹿島の大神が
天降りした時、座った石であって、万葉集に言う「石のみま
し」と言うはこれであると。
古来「地震抑え」の石として有名である。俗説に地下の鯰
の頭を抑えているので鹿島には地震がないと言う。(鹿島志)
一説に、徳川光圀が石の根底を極めようと領内の百姓数十
人を招集して、要石の周囲を七日七夜掘らせたが、一夜のう
ちに掘った穴は砂土で埋められて遂に断念したと言う話が
「黄門仁徳録」という書物に載っている。(茨城の伝説)
読人不知
ゆるぐともよもやぬけじの要石鹿島の神のあらんかきりは
読人不知
動きなき石の御座を見てもしれ逢ふことかたき神の契りは
藤原光俊
尋ねかね今日見つるかな千早振 深山の奥の石のみましを
孝阿
あられふり鹿島の宮の要石 動かぬ国のしづめなりけり
要石と地震
安政二年(一八五四年)十月二日夜、江戸並
関東地方に大地震が起り、江戸では大火災が
発生した。
ここに掲載の五枚の木版画は安政の大地震に対する地下の鯰
の頭を押えているといわれる「鹿島の要石」の霊験と鹿島大
明神の御容姿、かばやきの準備を手伝う恵比寿様・金比羅様
の協力ぶり。又、要石大明神と崇拝する庶民の姿などを面白
く諷刺した漫画で当時、木版印刷されたものである。(注、
図略)
1 自身除妙法
安政二年十月二日夜、江戸並関東筋大地震大火に付、鹿島大
明神が、地震を起こした鯰たちを叱る図である。
2 鹿島要石真図
鯰の頭上に乗って剣を左手に執り、立っているのは鹿島大明
神である。
3 あん志ん要石
年寄、大工、新ぞう、せとものや、げい人、医師、りくつ者
たちの庶民全般が地震に対する要石の霊験を感謝し、合掌・
礼拝しているところである。左に「としより」と「せともの
や」の言い分を記そう。
[としより]
南無 かなめいし大明神このたびの大変 のがれまして あ
りがとうぞんじまする。私はもう年寄りのことでございます
からながくいる日もございませんがシカシゆりつぶれ、ひが
うなことでもござりましてハ人のそしりをうけるがくやしふ
ござります。どうぞモウ二三百ねんいきているうち、地震の
ないようにお守り下さいませ
帰命頂礼 帰命頂礼 かなめ石さま かなめ石さま かな
め石さま。
[せとものや]
南無、南無、要石さま 日ごろから神宮のおかげで 此たび
は二個の皿、鉢などをこわしたばかりで別状なく、これはま
ったくあなた様のおかげと悦びおりまする。なにとぞ、この
地は地震のないよう、モシありますることもござればまえか
たにちよと、おしらせ下さるよう、ねがい上げます。
南無 要石さま、この願いおききとどけ給え。
要石大明神 要石大明神
4御客ハ八百善神の大一座馳走ハ鹿嶋が地震の手料理鯰のかば焼大ばん振舞
図中向って左は鹿島大明神が爼板に乗せられた鯰を手料理す
るところ。中央が讃岐の金比羅さまで、かばやきの鯰を盛り
つける皿を拭いている。向って右は恵比寿さまで、かば焼を
するため、コンロに火を起して準備をしているところであ
る。左上の隅に菰かぶりの酒樽が「要石」であるのも面白
い。
5 恵比寿天申訳之記
鹿島大明神の前に恵比寿さまが、地震を起した鯰の一族をひ
きつれていいわけに来た図である。
地震となまず
地震と鯰について昔から伝えられたことや
近代科学の研究の成果を、まず茨城の民俗
第8号の「茨城県における地震俚諺 田村竹男」(筆者は
筑波郡谷田部町館野 高層気象台勤務)の中から引用させて
もらい述べてみよう。
……茨城県には鹿島の要石が地震を防いでいるという諺が
あり、これは他にあまり例がなく、多くの地震学者も注目し
ている。
日本では昔から、地下の大鯰があばれ地震を起すといわ
れ、要石は鯰の首と尾を押えているので、茨城県には大きな
地震がないという。
他の地方で大きな地震が起るのは鯰の胴の部分が動くため
だといわれる。(大谷東平「気象診断」昭和四十一年)
大地震や火山爆発に先だって、魚類の生活状態に異状をき
たすことはよく知られている。即ち水の流れや水温の異変、
地下水の流出異状、ガスや鉱水、地電流の異変など微細な変
化を、魚類が敏感に感じるものと考えられている。特に鯰は
魚族の中で各種の刺激に対して、最も敏感であるというか
ら、地震と関係づけて考えられたのであろう。(今村明恒「地
震の国」昭和二十四年)
ある本によると、最近、研究の結果、魚は[測線|そくせん]でもって人
間には感知できない極く微弱な地電流を感じることが解っ
た。また、ヒゲなどで弱い震動や地震の前に起る地震気の変
化を感じるのではないかといわれている。
茨城県は地震の多い方であるが、地震発生の頻度が多い割
合に、大きな災害をもたらすような大地震が比較的すくなか
った。県内で地震の多い所は那珂川河口を含めた鹿島灘一帯
と鬼怒川地帯で(水戸地方気象台「茨城県の気候」昭和三十
四年)鹿島台地は地震の頻度が比較的すくない。地震学者日
下部四郎太博士は鹿島地方の地層に注目し、鹿島台地は古く
固い地層からなり、北浦や霞ケ浦などの新しく柔かい地層に
取囲まれているため、内陸からの地震波は柔かい層に吸収さ
れ、鹿島に届かないと考察している。(日下部四郎太「地震
学汎論」昭和二年)
以上のような茨城県の地震の特徴をみると、鹿島の要石は
単に信仰上から生れた伝説ではなく、長い間の経験的事実―
鹿島地方には大きな被害をもたらす地震が比較的すくないと
いうこと―と鹿島信仰が結びついたものとみることができ
る。
では要石と地震とは何時ごろ結びついたのであろうか。鹿
島神宮では要石を神の坐った石~御座石~と推測している。
即ち最初に社殿の営まれた位置と考えている。(岡泰雄「鹿
島神宮誌」昭和七年)次に要石についての古い記録をたどっ
てみると、建久九年(一一九八)発行の伊勢暦がある。これ
には「地震の虫」のが(ママ)のっておりその上に「ゆるぐともよも
やぬけじの要石、鹿島の神のあらん限りは」という歌がしる
されている。(今村明恒「地震鯰となゐ」昭和五年「地震」
第二巻、第五号)この歌は今でも茨城県内に残っている。
(藤田稔「大助人形と鹿島信仰」昭和四十年「茨城の民俗」
第四号。「茨城の民俗」第六号、伝説編)これをみると中世
の初めには、すでに鹿島社と要石が地震と結びつけられた事
が知られる。