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項目 内容
ID J1500129
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1855/11/11
和暦 安政二年十月二日
綱文 安政二年十月二日(一八五五・一一・一一)〔江戸及び近郊〕
書名 〔北下総地方史―茨城県結城・猿島・北相馬郡域―〕S49・12・15今井隆助著・崙書房
本文
[未校訂]左文は伊奈役所より飯沼新田村々への触書である。(沓掛、
倉持平左衛門文書)
 「去寅年(安政元)地震当年出水の国々も有之候得共諸国
一体の作方宜しき趣相聞候に付兼々申渡置候通り村貯穀之分
当年柄格別出精出穀相増水災不作者に手当行届候様厚く教諭
致し出穀高取調早々可申立候(下略)」云々と安政二年八
月晦日付右に対し九月には承知の旨各村役人より返答してい
る。
 「当年貯穀精々出穀可仕旨被仰渡候義ニ付今般身元の者共
より厚く御利害(理解)の趣承伏仕候ニ付(下略)」とある。
そしてこの年十月二日夜又々大地震があった。
 家屋に大きな損害を与えたのは、この安政二年十月二日の
大地震と安政三年八月大風である。安政二年には江戸にある
各領主、代官、旗本等の御屋敷が潰れたので各々御普請に人
足を出勤させている。上大輪、下大輪(海)などはその甚だ
しい例である。
 関宿領辺田(岩井)の中山元成の土蔵は江戸火消組頭の一
人新門辰五郎の防災造作のものでこの地震にも無事であっ
た。他家の倉は潰されたり、瓦や壁が皆おとされている。
 関宿領村の震災の例をあげれば、上出島村は家数一八軒潰
されている。三村(岩)は家数五〇軒の内、潰家九、同大破
二一、木小屋便所四〇、同大破三六の計八六であった。
 関宿藩での救恤は潰家に対し金二朱と二六四文と麦一俵宛
であった。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻2-2
ページ 1443
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 茨城
市区町村 結城【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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