[未校訂]左文は伊奈役所より飯沼新田村々への触書である。(沓掛、
倉持平左衛門文書)
「去寅年(安政元)地震当年出水の国々も有之候得共諸国
一体の作方宜しき趣相聞候に付兼々申渡置候通り村貯穀之分
当年柄格別出精出穀相増水災不作者に手当行届候様厚く教諭
致し出穀高取調早々可申立候(下略)」云々と安政二年八
月晦日付右に対し九月には承知の旨各村役人より返答してい
る。
「当年貯穀精々出穀可仕旨被仰渡候義ニ付今般身元の者共
より厚く御利害(理解)の趣承伏仕候ニ付(下略)」とある。
そしてこの年十月二日夜又々大地震があった。
家屋に大きな損害を与えたのは、この安政二年十月二日の
大地震と安政三年八月大風である。安政二年には江戸にある
各領主、代官、旗本等の御屋敷が潰れたので各々御普請に人
足を出勤させている。上大輪、下大輪(海)などはその甚だ
しい例である。
関宿領辺田(岩井)の中山元成の土蔵は江戸火消組頭の一
人新門辰五郎の防災造作のものでこの地震にも無事であっ
た。他家の倉は潰されたり、瓦や壁が皆おとされている。
関宿領村の震災の例をあげれば、上出島村は家数一八軒潰
されている。三村(岩)は家数五〇軒の内、潰家九、同大破
二一、木小屋便所四〇、同大破三六の計八六であった。
関宿藩での救恤は潰家に対し金二朱と二六四文と麦一俵宛
であった。