[未校訂]八 安政の江戸大地震
安政二年は私が十一歳。この[歳|とし]十月二日、江戸の大地震が
あったのです。父は五月から大病で床に就いておられ、私は
毎日のように[浅草三筋町|あさくさみすじまち]から[本郷妻恋坂下|ほんごうつまこいざかした]の伊藤という医家
へ薬取りに参り、母が[小婢|こおんな]を使って看護に[勉|つと]めておられたの
です。この大地震は夜の[四|よ]ツ[時|どき]、すなわち今の午後十時でし
た。幸い[雨戸|あまど]が自然と[外|はず]れたので、難なく一家共に戸外に飛
出した。庭の松の木の根元に母が大病の父を抱えておられる
ようですが、[真暗|まつくら]で父母の顔は見えませぬ。
母が「[御搔巻|おかいま]きを取って来て下さい。」と申されたので、
私は震動している家のなかへ入って搔巻きを引張り出して来
ると、父母の顔が急にぽかっと明るく見えました。不思議だ
と後をふりかえると、大火事が天に映った明りでした。終夜
庭におり夜が明けて家へ入りましたが、幸いに火事も遠く、
私の家は[潰|つぶ]れも焼けもせずに済みました。
不思議なことに、夜が明けて見ると、宅の前にある共同井
戸は水が一ぱいになって、[柄杓|ひしやく]で水を[汲|く]めるようになりまし
た。昨日までは[竹釣瓶|たけつるべ]で[釣|つ]り上げたのです。その水は、一時
のことかと思いましたら、その後いつまでもそういう風で、
近隣の人々は地震のおかげで水汲に楽をすると申しました。
大地震の際には、よく流言が行われます。次の揺り返しが
晩の同時刻に必ず来る、というので皆んな心配し、私どもも
次の夜は外へ出て戸板を敷きその上におりましたが、何ごと
もなかった。四日目の晩は非常なのが来るなどと騒ぎました
が、やはり何ごともありませんでした。すると、揺り返しの
話は[噓|うそ]で、あれは[盗人|ぬすつと]が家をあけさせて盗むために言いふら
したのだということです。毎夜、方々で[空巣狙|あきすねら]いがあった様
子です。当時、今のような警察もないのですが、強盗沙汰は
なく、[窃盗|せつとう]ばかりであったのは人情も大分変っていたように
思われます。
地震の後ではそれにちなんだ川柳や落語が[流行|はや]りました。
浅草観音の[雷門|かみなりもん](今の[仁王門|におうもん]ではありません)が潰れて
[風神|ふうじん]・[雷神|らいじん]が外へ放り出された。地震が[鎮|しず]まってから、また
[旧|もと]のところへ入れようとしたら、一方、風神の方は[容易|たやす]く入
ったが、雷神の方はどうしても動かない。皆んなが困ってい
ると、一人の老婆が来て、[妾|わたし]がやりましょう、と取りかかる
と不思議や雷神は軽く持運ばれた。[観|み]る者不審して、一体ど
この[婆|ばあ]さんかと尋ねると、「へい、向う[角|かど]の婆です。」という
た。これは、その向う角は名物「[雷|かみなり]おこし」を売る菓子屋
であって、その家の婆だから雷を起したという[洒落|しやれ]です。あ
の頃は、江戸情調の[滑稽諧謔味|こつけいかいぎやくみ]が盛んであっただけに、大地
震の後から、もうこんなしゃれだの川柳だの[地口|ぢぐち]だのが沢山
出来たのです。
なおこの大地震で、[藤田東湖|ふじたとうこ]先生は[駒込|こまごめ]の水戸邸(今の[弥|や]
[生岡|よいがおか]第一高等学校)で圧死されました。父は東湖先生を知って
いたので、大病中にもそのことを聞いて、惜いことをした、こ
の地震で失うたものの第一はこの人であると申されました。
九 父の死とその教訓
地震は十月二日でしたが、大病の父は、外へ抱え出された
りしていとど弱りまして、十一月十六日の晩には、自ら[起|た]た
ざるを知り、母が[枕辺|まくらべ]に[侍|じ]しておられたところに私を呼ば
れ、「[俺|おれ]も遠からず死ぬ。[汝|なんじ]は勉強して身を立て家名を挙げ、
母上に孝行せよ。」と苦しい息で言われたのに、私は胸が迫
って声も出ずにいると、母は、「私が生きておりますからに
は、庸太郎を必ず一人前の士に致しますゆえ、どうぞこのこ
とだけは御安心下さいまし。」と涙を[拭|ぬぐ]いつつ申され、父は
ただ[首肯|うなず]かれましたが、十八日の朝亡くなられました。[行年|ぎようねん]
四十歳。(中略)
[下総佐倉|しもうささくら]藩主堀田家の臣に、[木村軍太郎|きむらぐんたろう]という西洋兵学者
があって、[羽根沢|はねざわ]の堀田家敷――今の赤十字病院のところ
――に住んでいました。それが安政の地震で家が[潰|つぶ]れ、その
後新築を思い立ち、最もよく富士山を眺望し得るところであ
るから、そこへ小さい[楼|やぐら]を設けて書斎にしたいと考え、[小楼|こやぐら]
附きの[一棟|ひとむね]を大工に見積らせたところが金六十五両かかると
のこと、当時の金六十五両は大金で、ちょっと[工面|くめん]が附かな
い。思いあぐんでいると門人の一人の足立氏が献策して申す
には、「先日或る人が見えて、先生御所持のカラーメルの術
語辞書を幾らでも[宜|よろ]しいから譲って頂きたいと申していまし
た。あれをお払いになって新築費用に当てなされてはいかが
です。」と申すと、「いや、あの辞書がなくては明日から本が
読めなくなる。」と、軍太郎先生なかなか手放さなかったが、
新築は急ぐので、足立氏はしばしば勧めて遂にその辞書を四
十五両で売り、他から二十両足してようやく新築が落成の運
びになったとのことでした。つまり辞書一冊で家が一軒建っ
たのです。後年、その辞書が長崎屋へ十部着いて、私も一部
を四両二歩で購入しました。その時、足立氏が「君らは書物
の潤沢な時代に生れて学問するのは実に仕合せだ。十余年前
四十五両したものが、今そんなに安く手に入るのだから。」
と、この話を聞かせたことでした。