[未校訂]緒言(省略)
目次(省略)
浜田地震報告
一 調査方法と被害概要
該調査は各町村別に施行し調査事項を二十一項に分ち夫々
説明を附し小学校教師諸君並に町村役場に依頼して一村内
当時の状況を現在六十才以上の記憶正確なる古老三人以上
に就て聴取し之れを綜合して報告することゝせり其範囲は
石見の全体(鹿足郡美濃郡那賀郡邑智郡邇摩郡安濃郡)と
出雲の西部地方なる簸川郡飯石郡の都合八郡にして町村数
二百ケ所に亘り其内重要なる地方は特に実地調査を行へり
斯くの如き組織を以て調査せるものゝ内各郡別の潰倒戸数
死傷者数は今村博士に乞ひて得たる当時浜田県報告郡別統
計数より一般に過少なる結果を齎せり之れ被害調査標準の
相異調査不能並に幾分古老の忘却とに原因せしものならん
も其相互の関連に至りては余り著しき欠陥なきものと信ず
今左に浜田県の報告を挙げて当時被害の一般を窺ふに便ず
尚ほ鹿足郡は影響微少にして記憶に止むるもの少く従つて
充分なる報告を得ざりしを以て以後の叙述の多くは之れを
省略せり
第一表 明治五年二月六日浜田地震損害(浜田県届出)
種別
那賀郡
邇摩郡
安濃郡
邑智郡
美濃郡
計
浜田町
種目
所
田畑損所
三二一九一
一五七三五
三七六八
一八四三四
七八五
八〇九一四
岸崩
所
一一〇一六
─
─
─
─
一一〇一六
田方水源切
所
一一三一四
─
─
─
─
一一三一四
外
所二三
─
─
─
─
二三
堤防水除溜池用水破損
所五七八四
四五五
一〇一
二六〇三
八二六
九七六九
道路破損
所一六三七
四〇六
五三
橋梁破損
所一五九
六三
一一
}一三七三
}二〇七
}三九一一
山崩
所二五二二
一四八七
一二四
一九二七
五〇七
六五六七
焼失家
軒一八八
一九
三
二〇
─
二三〇
九二
倒家
軒二三〇三
七四二
四四〇
四八五
七九
四〇四九
五四三
半倒
軒二三九六
一二九四
六七一
八六八
二〇〇
五四二九
二一〇
大破
軒二三九一
二三一七
二〇二六
─
─
六七三四
一六八
顚倒焼失若クハ破損郷倉
棟一二五
三
─
─
─
一二八
同土蔵
棟二六二
七二
八五
─
─
四一九
焼失一二顚倒四三半倒五六破損三二
死亡人員
人二八八
一三七
三二
八〇
─
五三七
九七
負傷人員
人三七八
一〇一
一八
七五
二
五七四
二〇一
斃死牛馬
頭二八
三八
二二
二一
─
一〇九
牛馬負傷
頭二五
三一
四
八
─
六八
又次表に死傷及び全潰家屋数との割合を示さん
第二表 死者一人に対する割合
那賀郡
邇摩郡
安濃郡
邑智郡
簸川郡
平均
傷者
一・三
〇・七
〇・六
〇・九
〇・八
一・一
全潰家
八・二
五・四
一三・七
六・一
一九・六
七・五
第三表 死者一人に対する割合
濃尾地震
庄内地震
台湾地震(三十七年)
近江地震
浜田地震
傷者
三・七
一・三
一・一
一九・二
一・一
全潰家
二一・二
五・九
三・四
二四・〇
七・五
右に依れば全潰家屋は総て四千三百二十余戸に達し其内最
も多かりしは那賀郡にして二千三百戸余を示し総体の過半
を占め邇摩郡の七百四十余戸之れに亜ぎ安濃郡邑智郡は各
四百数十戸、簸川郡は二百七十余戸にして美濃郡にては七
十九戸に減じ更に飯石郡に至れば僅に二戸ありしのみ尤も
那賀郡は浜田なる市街地を含めるが為めに過大なるに至り
しなるべし今該地震の強度を知るべく之れを総戸数に対す
る百分率として現はすときは那賀郡に最も著しく十二%に
達し邇摩郡之れに亜ぎ九%余を示し安濃郡は八%弱にして
邑智郡に至れば四%に減じ更に簸川郡美濃郡にては一%内
外に過ぎざりき斯く該地震は那賀郡に最も著しく邇摩郡安
濃郡相亜ぎ邑智郡を其次とせしところなるを以て今其著か
りし四郡の全潰割合と各地質とを対照するときは邇摩郡は
主として第三紀層より成り最も軟弱にして安濃郡は北部沿
海附近の地方に於て右と同一地質なれども郡の八分通りは
花崗岩若しくは安山岩を以て成り邇摩郡より強固なり那賀
郡に至れば更に強度を加へ花崗岩石英粗面岩結晶片岩其多
分を占め邑智郡の如きは全部花崗岩石英粗面岩を以てし以
上の各郡中最も強固なり故に前記全潰家屋を以て現はした
る地震の強度に於て邇摩郡は実際割合に弱く其他の郡(就
中那賀郡邑智郡)は於以上強勢なりしものと認めらる尚ほ
前記割合を現はすに使用せる総戸数は明治二十六年に於け
るものにして那賀郡に於て浜田なる都会地を控除したる百
分率にても尚ほ十%に達するを以て其如何に強勢なりしか
を窺ふに足るべし
死者は総て五百五十余人に達し那賀郡に最も多く二百八十
人、邇摩郡は百三十七人にして以下は著しく減じ邑智郡は
八十人、安濃郡は三十二人にして簸川郡は僅に十四人を出
し美濃郡飯石郡は皆無なりき又負傷者は死者より僅に多き
のみにして五百八十余人を出し各郡中那賀郡最も多く三百
七十八人、邇摩郡は百一人、邑智郡は七十五人、安濃郡は
十八人、美濃郡は僅に二人ありしのみにして飯石郡は皆無
なりき、一平方里内の死者数は邇摩郡に最も多く九人を示
し那賀郡は五人、安濃郡は三人、邑智郡に至れば僅に一人
を算し又美濃郡飯石郡は皆無なりき同負傷者は那賀郡邇摩
郡に各七人、安濃郡邑智郡に各一人の割合となる
更に死者一人に対する負傷者の割合に就て見るに約一倍一
に当り安濃郡に最も著しく〇・六を示し邇摩郡の〇・七之
れに亜ぎ簸川郡は〇・八邑智郡は〇・九にして那賀郡は一・
三を示せり故に該程度は明治二十七年の庄内地震及び同三
十七年の台湾地震に類せり
次に死者一人に対する全潰家屋の割合を見るに総体に於て
は七戸半に当り庄内地震より緩徐なりし其の郡別に於ては
邇摩郡に最も著明にして約五戸半に一人を出し邑智郡の六
戸之れに亜ぎ那賀郡に八戸を示し安濃郡に至れば十四戸、
簸川郡は二十戸に及べり此関係が全潰戸数の百分率と相異
せることは各郡の戸数密度と面積の影響を受けし事尠から
ざるが如し
二 発震時刻
本地震は明治五年二月六日(太陽暦三月十四日)夕頃前の
発震にして時刻の精密なる部分に至つては区々にして捕捉
し得べからざれども之れを百五十四ケ所の統計に徴すれば
午後四時三十九分即ち約四時四十分頃なりしことを知る前
震は之れより約八分前に那賀郡以東の点々二十ケ所に於て
微なる鳴動を感知し又約五十分前なる午後三時五十分頃に
於て美濃郡以東の七十七ケ所に微震を起し又三時十分頃石
見村に於て微震を感じたり更に午前十一時頃美濃郡高島、
那賀郡渡津村、邑智郡川越村、安濃郡波根東村に微震あり
其他杵築町には二三日前より毎日一二回の微震、邇摩郡大
家村、飯石郡頓原村には大震前一時間内に二三回、那賀郡
美又村にては当日午前八時頃稍々大なるもの二回を感じた
りと云ふ、斯く本地震は数回の前震を現はしたる後発震し
甚だしきは二三日前より震動を感知したることは最も注意
すべきところなり
三 大震に伴ひたる地鳴方角と其主なる発源位置
地鳴は地震発源位置を指示する有力なる現象なりと雖も其
方向は時に地形地質に依り変化され或は家屋の鳴響を誤認
する事あるが故に其根源的方向を知るには多くの個所に就
き充分吟味せざるべからず而も四十年を閲せる今日朦朧た
る記憶を喚起し甚だしきは震災地の方角より推考する古老
あるが故に最も慎重に攻究せざるべからず、本報告は方角
を八方位に区分して調査せり
地鳴は大震の始まる直ぐ前に遠雷又は砲声の如く一声又は
連発的に各地に聞江たるところなるが其方角は美濃郡に於
て偏北せるも其他の地方の多分は偏西方に聞くことを得た
り今発現方角の配布状態を見るに美濃郡に於ては北及び北
東の二方向にして就中北に聞きたる地方最も多く全方向の
五十七%に達し北東方之れに亜ぎ三十六%を示す其合成方
向は北より稍々東方に偏す、那賀郡に於ては西最多を占め
三十八%を現はし北西之れに次ぎ二十九%、他は著しく減
少し北及び南西は各十五%を示す其合成方位は西北西にあ
り、邇摩郡に於ては西の四十一%を最多とし南西の二十四
%之に亜ぎ北西は十八%にして合成方位は西微南にあり安
濃郡に於ては西の六十二%を最多とし南西の二十五%之れ
に亜ぎ合成方角は西南西にあり簸川郡に於ても西を最多と
し四十三%を示し北西の二十二%之れに亜ぐ其合成方位は
西より稍々北にあり又飯石郡にては西及び北西を最多とし
各二十九%を示し北の二十一%之れに亜ぐ、邑智郡にては
西を最多として三十八%を示し南西、北西の各二十一%之
れに亜ぎ合成方位は西より稍々北にあり
今以上の各郡の最多方位を見るに美濃郡は北を示し飯石郡
は北西にして其他の各郡は悉く西にあるが故に地鳴の初発
位置は大凡那賀郡以北地方の西方海底にありしことを知る
べし更に郡別の平均方位を以てすれば美濃郡那賀郡邑智郡
の方角は北緯三十四度五十五分より三十四度五十八分東経
百三十一度五十五分より百三十二度弱の間に於て切合し邇
摩郡安濃郡美濃郡のものは夫れより北方なる北緯三十五度
五分より同十分、東経百三十一度三十五分より百三十二度
の範囲に於て会し簸川郡飯石郡のものは更に十五分余北方
に於て会す之れを以て大体の発源位置は最初の三線の切合
せる位置以北にありしものにして北東方の地方に行くに従
ひ方向の北移せることは各種の地質が略ぼ海岸線に並行し
て帯状をなせる不等一性の為めに変向を来せるものなるが
如きを以て実際の位置は最初の三線の切合場所よりも尚ほ
稍々南方にありしが如く認めらる而も此の地鳴方向を一層
確実ならしむるものは当時浜田近海へ出漁中の漁夫は勿論
附近の海岸に居住せる者の総てが西乃至北西方海上より来
りし事を一様に確言せし事にして是等の材料より考ふると
きは浜田の西北西に当り前記三郡の方向中地質上の変向を
多量に受くべき邑智郡のものを補正して西としたる場合の
切合点なる北緯三十五度弱東経百三十一度五十五分附近に
ありしものと察せられ其強勢なりし事は海底の状態が割合
に複雑なりしものならんか
以上は頗る広区域に亘れる一地区たる郡を単位とし且つ総
ての方向を以て現はしたるものなれば若し其精密なる方角
を得んと欲せば材料を撰択し且つ小区域別として其切合(ママ)点
を求むるを可とす依て今試に遠く内地にある地方を除きた
る那賀郡を東部中部西部に区分して各其平均方位を算する
に東部は十ケ所にして北八十三度西、中部は十四ケ所にし
て北五十四度西、西部は八ケ所にして北三十九度西を示す
而して是等の三線と美濃郡北東部なる北十七度東なる一線
並邇摩郡の南八十二度西なる線との切合場所は東経百三十
一度四十八分より百三十二度、北緯三十四度五十分より三
十五度四分の範囲にあり又邑智郡の方角を南北二分せば北
部は十二ケ所にして南三十八度西南部は十一ケ所にして北
八十三度西を示し該範囲の南部に落ち他線と八ケ所に於て
会す該会合範囲の中心点は東経百三十一度五十二分北緯約
三十五度の所に位置し前位置より稍々北西方へ偏す本位置
も地質上の考査よりすれば之れより稍々偏南せるところに
ありしものゝ如し、故に美濃郡より邇摩郡に至る間の地方
に於て地震に先立ちて聞きたる地鳴の中心は浜田より西北
西方四五里の海底にありしものと認むることを得べし其他
安濃郡簸川郡飯石郡の如き激震地方より距りたる地方に於
ける方向は地質上の変向益々大なるを以て多くの論拠とな
すに足らず只一様に西方を指示せし事は其大略の方向のみ
を確知し得べきものなりと信ず又美濃郡高島に於ける地鳴
方向を知ることは該位置を決定する上に於て頗る有力なる
べしと思考し只管之れを得んと努めしも只強烈なる地鳴を
認めし外方角に就て記憶せるものなかりしは遺憾とする所
なり只其西方なる山口県の見島に就て調査せしに東方に当
り聞きたりとの事なれば略ぼ如上の位置と一致することを
知れり(第一図参照)
地鳴の中心が絶対に震央を指示すべきものとも限らざれど
も多くの場合より考ふれば該位置は他より最も著しく初発
的位置を占めたるが如きを以て之れが地震前後に於ける海
水の異状と共に海底の変動を証する主要なる材料たるべし
と考ふ
第四表 各地の地鳴方向及強弱
町村名
方向
強弱
美濃郡
安田村
西北
不明
鎌手村
北東
強種村
北東
強東仙道村
北東
強都茂村
北
弱真砂村
北
強豊川村
北
強高城村
北東
強町村名
方向
強弱
美濃村
北
強
小野村
北
強
吉田村
北
不明
益田町
北北東
強
那賀郡
浜田町
西
強
石見村
西
強
国分村
北西
強
川波村
西
強
町村名
方向
強弱
都濃村
南西西
強
江津村
西
強
都治村
北
強
下松山村
南西
強
松山村
西北西
強
伊南村
南西北西
強
町村名
方向
強弱
雲城村
西北西北
強
美又村
西
強
都川村
北
強
今市村
西
強
波佐村
西
強
高城村
北西
強
長安村
西北西
弱
強
杵束村
南西北
弱
強
西隅村
西北西
弱
漁山村
西
強
大麻村
北
強
有福村
北西
弱
強
大内村
北
強
周布村
北西西
強
三隅村
北東
強
芦谷村
南西北西
強
渡津村
西北西
強
都濃津村
西北西
強
浅利村
南西
強
長浜村
西北西
強
三階村
北西
弱
上府村
北
微
黒松村
南西西
普
木田村
北西
強
岡見村
南西
不明
町村名
方向
強弱
二宮村
西
強
三保村
西北
強
邑智郡
川本村
西
強
都賀行村
西
強
谷村
東
不明
阿須那村
西南西東
強
布施村
南
強
出羽村
西
如遠雷
田所村
北西
強
川越村
南西
弱
粕淵村
北西南西
強
弱
浜原村
北西
不明
市山村
北
強
川戸村
南西
強
祖式村
南西
強
三谷村
南西
不明
三原村
西
強
君谷村
西
強
口羽村
北西
強
市木村
南
強
川下村
西
強
井原村
西
強
中野村
西北北西
強
矢上村
西
強
日貫村
北西
不明
日和村
西
強
谷住郷村
西
強
邇摩郡
町村名
方向
強弱
水上村
南西
強
大家村
西
強
大浜村
西
強
湯里村
西
強
馬路村
北
強
大国村
北西
雷の如し
久利村
南西西
強
大屋村
西
強
温泉津村
北西
強
宅野村
西北西
強
仁万村
西
弱
五十猛村
南
強
福浦村
北
不明
八代村
南西
強
静間村
南西
普
福光村
西
強
忍原村
西
強
安濃郡
大田町
西
強
鳥井村
南西北西
普
朝山村
西
普
佐比売村
西
普
川合村
西
普
波根西村
南西西
強
簸川郡
荘原村
北西
普
出西村
西北西南東
強
町村名方向
強弱
伊波野村
北
強
直江村
南
強
久木村
西
強
灘分村
西北西
強
国富村
南西西
弱
鳶巣村
北西
強
西田村
南西
強
久多見村
西
強
佐香村
南西
強
檜山村
西
強
窪田村
西
強
山口村
西南西
強
田儀村
西
強
江南村
西
強
西浜村
南西
強
神西村
北西北
強
町村名
方向
強弱
知井宮村
西
弱
布智村
西北西
強
古志村
北西
強
高松村
北西西
強
園村
西
強
荒木村
北西
強
杵築町
西
強
鵜鶯村
西
不明
遙堪村
西
不明
高浜村
北西
強
四纏村
北西
不明
川跡村
西
強
大津村
西
強
今市町
北西
強
塩冶村
西
強
久村
北西西
強
朝山村
北西南西
強
町村名
方向強弱
荒茅村
南西
不明
飯石郡
一宮村
北西
強
三刀屋村
北
強
飯石村
西
不明
中野村
北
不明
田井村
北
強
吉田村
南
強
掛合村
南
強
多根村
北西
弱
松笠村
南西
普
北西
強
西須佐村
西
強
志々村
西
強
頓原村
西
不明赤名村
北西
強
第五表 郡別地鳴方向
方向
南東
南
南西
西
北西
北
北東
東
平均方向
郡名
度
美濃郡
─
─
─
一
─
八
五
─
北一二東
那賀郡
─
─
八
二〇
一五
八
一
─
北六九西
邑智郡
─
二
六
一一
六
一
─
三
北八六西
邇摩郡
─
一
四
七
三
二
─
─
北八九西
安濃郡
─
─
二
五
一
─
─
─
南八四西
簸川郡
一
一
七
一九
一四
二
─
─
北八一西
飯石郡
─
二
一
四
四
三
─
─
北六七西
第六表 各郡内地方別地鳴方向
方向
南東
南
南西
西
北西
北
北東
東
平均方向
区
度
美濃郡
─
─
─
─
─
八
五
─
北一七東
那賀郡西部
─
─
二
一
一
三
一
─
北三九西
同中部
─
─
一
四
六
三
─
─
北五四西
同東部
─
─
一
七
一
一
─
─
北八三西
邑智郡南部
─
一
─
七
三
─
─
─
北八三西
同北部
─
─
五
四
二
一
─
─
南八三西
邇摩郡
─
一
四
七
三
─
─
─
南八二西
四 物体の潰倒移動、液体の溢出状態
地震に依る物体の潰顚倒移動傾斜及液体の溢出状態は其物
の構造並に地形地質の配布状態に依り複雑なる結果を来す
べきも一般に最大震動の方向と並行するものなるが故に若
し其物体の構造等を詳にするならば之れに依り真の地の最
大動の方向を知ることを得べし就中円形の器中の液体の如
きは特種の状況少きが故に其溢出方角は直ちに最大動の方
角と一致するものと見做し得る場合多し従つて是等の方向
は震央を捜索する上に於て有力なる証跡たるべきを以て次
に各種の顚倒物に就て叙述すべし但し是等の方向は総て八
方位を以てせり
全潰家屋 家屋の潰倒傾斜方向は附近地形に特殊なる状態
を有せざる以上は最大震動方向と家屋の構造とに依り決す
るところなるが故に其方向は全潰家屋の割合と共に必要な
る事柄なり而も全潰家屋の割合は地震の強度を窺ひ得るが
故に充分慎重に調査せざるべからず
今先づ那賀郡浜田町の状況を述ぶるに先立ち其地勢に就て
一言せん、浜田町は海岸に至る迄複雑に伏起せる山岳間を
東より西方に流るゝ浜田川の狭長なる南部流域に位置し其
平地は大体中央部に於て鏡山を以て東西に区分され恰も瓢
形をなし東西約二千六百米を示し其の東部平地と西部平地
との間にある狭隘部は南北僅に二百五十米にあり、東部平
地は東西約千六百米南北約八百米にして上述の狭隘部を除
く外は概ね百米以上の山を以て囲まれ其の中央部より西方
に亘り標高六十米弱の小丘あり又主として浜田町をなせる
西部平地は東西及び南北約千米にして約七十米の高さを有
する城山は其中央部より北西方に延び浜田川其南麓より北
西麓を迂回して松原湾に注ぐ浜田町は主として其南側にあ
り該平地の西部及び北西部の海岸は高さ五十米乃至八十米
の連丘を以て海と全く遮断され僅に北方と南西方に於て幅
員五六百米の平地海に接す又南、南東、北東方は七八十米
以上の山脈連亘す、松原湾は湾口を漏斗形に北西に開き又
南西方の海は石見の一般海岸線より約千五百米陸地に湾入
し長さ(南西より北東)約三千米を有する浅き湾をなし浜
田は其北東部に当る又高尾山西方一葦水を距てゝ瀬戸ケ島
南北に横わり又其の西方に馬島矢箆島散在す、地質に於て
流域地方は沖積層なれども西部平地四周の山は輝石安山
岩、東部平地の周囲の山の大部分は第三紀層なり、地形既
に斯くの如きが故に浜田町の家屋は総て南北の向に建てら
れ東西なるは甚だ少し然るに当時千八百八十戸中其半数は
半潰全潰となり孰れも家屋の抵抗力大なる東方へ、町の東
端小部分の牛市区は西へ傾斜又は潰倒し低湿なる河流のあ
る北方へ向ひ倒れたるものはなかりき之れを以て考ふるも
当時東西動殊に東方に向ひたる震動の最も顕著なりしこと
を認むるを得べし尚ほ同町南側の一寺院の庫裡は南方へ移
動せり、全潰戸数は六百三十戸余にして総戸数の三十四%
に当る其配布は一般に町の南部に少くして河畔部面に多し
其内最も顕著なりしは町の東端と北西部にして孰れも五十
%以上に達し琵琶区は八十五%片庭は九十一%を現はせり
但し片庭区琵琶区の家屋は極めて粗造にして殊に片庭辺は
昔田淵なりしと伝江らる而して町の南側なる安山岩の山岳
に接近せる一帯及び浜田浦は二十%内外にして其他は四十
%余の所多く松原浦及び外の浦は各二十六%にありし故に
其配布状態は一般に地質の支配を受け其強き南側部面に些
く北部なる浜田川流域の沖積層の地に向ひ増加し軟弱なる
其川岸辺に最も多く又砂地にして西側なる浜田浦松原浦外
の浦に特に些少なりし事は注目するに価す
又広区域に於て美濃郡は奥部なる二川村に北東方へ倒れし
ものあるのみにして那賀郡に於て浜田の外周布村井野村江
津村は東方へ、跡市村上府村は東西へ大麻村長浜村は北東
へ、大内村下府村は南東へ、美又村は南西と北西へ伊南村
は南西へ、長安村都濃津村は北西へ、今市村は南北へ倒れ
たり其方向の集注位置は大麻村北部より漁山大内の村界附
近を経て伊南村の南方に達せるものゝ如し
邇摩郡に於て北部なる大屋村は南方へ、温泉津町大浜村忍
原村水上村は東へ向ひたり。邑智郡に於て君谷村は東西に、
川本村は南西へ、市山村は南東方へ倒れ中野村日貫村谷住
郷村は各南なりしも川戸村は北西へ向ひ市山村及び谷住郷
村と全く反対の方向を示せり但し市山村市山の潰倒方向は
真の最大動のみに依りたるものなるやも知れざれども其北
西側に標高約二百五十米の山岳北東より南西方に連亘し南
東面は平原部にして約三百米を距てゝ八戸川北西方へ流れ
該山岳は頂上に約三千米に亘れる亀裂線ありしと云へば家
屋の薄弱なる面が南東方へ向ひし事に依り幾何の疑念なき
能はず然れども川戸村は割合に平坦地にありて字川戸の如
きは北東、南西面の家屋多きに不拘北西方へ潰倒するに至
れり又日貫村のものは土地南方へ傾斜せるを以て証跡たら
ず。安濃郡に於て鳥井村波根西村は東又は東西へ、長久村
波根東村は南へ、川合村富山村は北西方へ倒れたり但し川
合村は土地の傾斜方向と一致せり
以上三郡の家屋潰倒の方向は邑智郡に材料不足なるが為に
充分なる解釈を下し能はざるも多分は川戸附近より邑智郡
北西辺へ向ひしものゝ如し。簸川郡に於ては沖積層の平原
部にのみ潰倒家屋ありて其多分は東方へ向ひ其南方へ向ひ
たるもの之れに亜げり、又飯石郡に於ては志々村のみ方向
判明し南東へ倒れたり
以上の七郡の家屋潰倒方向は那賀郡の周布村辺より雲城村
北部を経て海岸と約三里の距りを以て略ぼ海岸線に並行し
て川戸村北部より邇摩邑智二郡境界附近を通過せる線に向
ひしが如し
次に各地の家屋の全潰の程度を見るに此地震の為めに全潰
家屋を出したる範囲は美濃郡に於て沖積層の高津村と花崗
岩の山岳地方なる二川村のみにして孰れも数%以下にあり
那賀郡に於ては南西、南、南東より北東に亘る地方なる岡
見黒沢波佐都濃川平浅利下松山本田(花崗岩及び秩父古生
層)の各村に全潰を出さゞりしも他は多少の全潰を現はし
邇摩郡は第三紀層安山岩及び小部分の石英粗面岩花崗岩よ
り成り波積、井田、湯里、馬路、静間の主として第三紀層
の各村の外は全潰を出し五十猛、安濃郡は花崗岩安山岩第
三紀層及び小部分の沖積層より成り刺鹿朝山の第三紀層な
る二村の外は孰れも潰倒し飯石郡は概ね花崗岩にして志々
村のみに全潰あり簸川郡は久、江南、神西、知井宮、布智、
古志、今市、大津、伊波野、久木、出東の各村以北の沖積
層なる簸川平原部の各村に於て概ね全潰ありて其北方の石
灰岩の北山脈及び第三紀層乃至は花崗岩なる南部山地に於
ては皆無なりき
今其戸数に就て見るに市街地にして沖積層の軟弱なる地盤
を有する浜田町に最も多く六百三十余戸に達し石英粗面岩
又は花崗岩なる井野村の百戸之れに亜ぎ結晶片岩石英粗面
岩なる大内村石英粗面岩なる谷住郷村は各七十戸石英粗面
岩なる川戸村第三紀層輝石安山岩なる祖式村、沖積層にし
て人家稠密せる温泉津は各五十余戸、杵築町は五十戸内外、
第三紀層の大家村は四十戸、漁山、周布、君谷、水上、八
代、久木、国富、高松、園、遙堪の各村は三十戸内外、大
麻村は二十戸の潰倒家屋を出せり今震央地捜索上有力なる
材料たる総戸数に対する全潰家屋の割合を知るべく各村の
全潰戸数を百分率として現はすときは浜田町の三十四%を
最大とし大内村祖式村は各二十%、石見村は十八%、川戸
八代の二村は十七%、井野村は十五%、谷住郷村は十四%、
大家村遙堪村は各十三%、水上村は十一%、漁山村市山村
は各十%を示す而して五%以上の区域は大麻、井野、杵築、
漁山、大内、伊南、国分、市山、川戸、谷住郷、大家、八
代、祖式、君谷、水上の各村及び温泉津町久木村杵築町遙
堪村国富村なりとす即ち是等の地方の地質は沖積層と石英
粗面岩最も多く第三紀層結晶片岩等相亜ぐ右の内沖積層の
地方に被害著しかりしことは素より其所なるも可なり硬固
なる石英粗面岩の地方に夥多の被害を現はせしことは特に
注目するを要す尚ほ実際の意味に於ける全潰家屋数は浜田
の外は一般に現数の三倍内外にありし事を忘るべからず更
に等率線図に就て見るに地質と家屋の関係より起りし各所
に点々せる局地的のものは別として其大勢は二大著明範囲
をなすことを知るべし即ち一は那賀郡井野村より稍々北方
へ湾曲して伊南村に亘れるもの二は川戸村より北東方君谷
村の北西部に達するものにして概ね石英粗面岩の地質なり
而して両者の間断せる部分は花崗岩若しくは結晶片岩を以
て成り人家なき美又村及び長谷村の山地なるを以て是等二
つの範囲は実際連結して帯状をなせる激震区域をなせる者
なるが如し、今全潰家屋を出したる範囲を見るに主として
石見に於て那賀郡以東中邑智郡南東部を除きたる一般に海
岸線に沿へる楕円的形状を成し其範囲の一部は海底にある
が如く其周囲附近に於ては地質の軟弱なる地方と雖被害些
少にして長軸地方に向ひ増加し而も堅牢なる地盤を有せる
前記長軸附近の地方に激甚なりしことは之が原動力の働き
たる位置として多くの注意を払はざるべからず(第二図参
看)
第七表 各町村総戸数全潰数百分率潰倒主方向
町村名
総戸数
全潰戸数
同百分率
潰倒方向
美濃郡
安田村
不明
─
─
鎌手村
八〇
─
─
種村
三一二
─
─
北仙道村
不明
─
─
東仙道村
六七一
─
─
都茂村
不明
─
─
二川村
二二三
七
三
北東
疋見上村
三五〇
─
─
疋見下村
四八五
─
─
真砂村
不明
─
─
豊川村
三〇〇
─
─
町村名
総戸数
全潰戸数
同百分率
潰倒方向
豊田村
四〇〇
─
─
高城村
四六六
─
─
二條村
四五〇
─
─
美濃村
不明
─
─
小野村
不明
─
─
中西村
五四〇
─
─
高津村
七五〇
二
〇
吉田村
不明
─
─
益田町
八〇〇
─
─
道川村
一二七
─
─
高嶋
七
─
─
那賀郡
浜田町
一八八〇
六三〇
三四
石見村
四八七
八六
一へ
国分村
三六〇
一八
五
南北
町村名
総戸数
全潰戸数
同百分率
潰倒方向
都濃村
五七〇
五
一
南
江津村
六〇〇
四
一
東
都治村
四一〇
二〇
五
下松山村
一一〇
─
─
松山村
三六九
二
〇
跡市村
四五〇
六
一
東西
伊南村
三三五
一九
六
南西
雲城村
三九〇
─
─
美又村
一六〇
六
四
南西
和田村
不明
─
─
都川村
三二〇
一
〇
今市村
三九八
四
一
南北
波佐村
不明
─
─
高城村
四五三
九
二
南東
長安村
二九六
七
二
北西
杵束村
二〇〇
一三
六
黒沢村
四六八
─
─
西隅村
五四〇
七
一
川平村
二五七
─
─
漁山村
二八六
三〇
一〇
東南東
大麻村
三三一
二〇
六
東北
有福村
四五七
一
〇
大内村
三四二
七〇
二〇
南東
周布村
四六四
三五
七
東
三隅村
二五四
二
一
芦谷村
一六八
一
一
南西
渡津村
三五五
四
一
居潰
都濃津村
四〇〇
二
〇
北西
浅利村
三〇〇
二
一
長浜村
三六〇
二六
七
北東
町村名
総戸数
全潰戸数
同百分率
潰倒方向
三階村
二八〇
一
〇
下府村
二四三
七
三
東南
上府村
一七七
三
一
東西
黒松村
二二〇
三
一
久佐村
三〇〇
三
一
木田村
不明
─
─
岡見村
三八〇
─
─
二宮村
三五七
七
二
三保村
四一七
五
一
井野村
六五〇
一〇〇
一五
南西
邑智郡
川本村
四〇〇
一五
四
南西
沢谷村
不明
─
─
都賀村
不明
─
─
都賀行村
二九〇
─
─
谷村
不明
─
─
阿須郷村
二〇〇
─
─
布施村
不明
─
─
高原村
不明
─
─
出羽村
不明
─
─
田所村
不明
─
─
川越村
四〇〇
─
─
粕淵村
三五一
四
一
浜原村
三〇〇
─
─
吾郷村
一八〇
─
─
長谷村
三九〇
三
一
市山村
一五二
一六
一〇
南東
川戸村
三〇〇
五〇
一七
北西
祖式村
二八〇
五六
二〇
三谷村
一八〇
一
一
町村名
総戸数
全潰戸数
同百分率
潰倒方向
三原村
三二〇
二
一
西
君谷村
五〇〇
三〇
六
東西
口羽村
不明
─
─
市木村
五〇〇
─
─
川下村
三〇〇
─
─
井原村
三七〇
─
─
中野村
四〇〇
一
〇
南
矢上村
七〇〇
─
─
日貫村
三四〇
七
二
北西
日和村
不明
─
─
谷住郷村
五〇八
七〇
一四
南
邇摩郡
水上村
二三〇
二五
一一
東
大家村
二九六
四〇
一三
井田村
不明
─
─
波積村
不明
─
─
大浜村
二五〇
三
一
東
湯里村
三八〇
─
─
馬路村
四五〇
─
─
大間村
四二〇
二
〇
久利村
四一八
一
〇
大屋村
二〇九
二
一
南南西
温泉津村
四〇〇
五三
一三
東
宅野村
三一九
二
一
仁万村
二七一
五
二
五十猛村
不明
─
─
福浦村
不明
─
─
八代村
二一〇
三五
一七
静間村
四八五
─
─
福光村
不明
四
─
町村名
総戸数
全潰戸数
同百分率
潰倒方向
大森町
六五〇
三
〇
忍原村
一一五
一
一
東
安濃郡
大田町
八五〇
九
一
長久村
三七七
六
二
南北
鳥井村
二六〇
一二
五
東
朝山村
一二〇
─
─
富山村
四〇五
五
一
北西
佐比売村
二一五
三
一
川合村
五〇〇
三
一
北西
波根西村
四〇〇
五
一
東西
波根東村
五二〇
四
一
南
刺鹿村
三八〇
─
─
簸川郡
荘原村
九四五
─
─
出西村
七〇九
─
─
伊波野村
四六六
六
一
直江村
六三三
─
─
久木村
四二〇
二一
五
東
出東村
七九四
一
〇
灘分村
五一二
三
一
東西
国富村
四七〇
二九
六
南東
鳶巣村
二八七
二
一
南
鰐淵村
二七一
─
─
西田村
三八九
─
─
北浜村
四三二
─
─
久多見村
四六〇
─
─
佐香村
四五〇
─
─
檜山村
四二七
─
─
町村名
総戸数
全潰戸数
同百分率
潰倒方向
東村
五六九
─
─
平田町
一二九一
─
─
窪田村
二八五
─
─
山口村
三八〇
─
─
乙立村
三一五
─
─
田儀村
四三二
─
─
田岐村
三五〇
─
─
江南村
四八四
三
一
西浜村
七〇〇
五
一
神西村
六二三
二
〇
知井宮村
三五〇
二
一
布智村
一七一
─
─
古志村
二五〇
三
一
北
高松村
六八二
二八
四
北西西
園村
七〇二
二七
四
南
荒木村
六三一
─
─
杵築町
一一〇〇
七〇
六
東
杵築村
八二〇
一
〇
日御碕村
二八三
─
─
鵜鶯村
二五〇
─
─
遙堪村
四一三
三〇
一三
東
高浜村
四七三
一〇
二
四纒村
三三〇
四
一
南東北西
川跡村
四三二
一二
三
西
大津村
不明
─
─
町村名
総戸数
全潰戸数
同百分率
潰倒方向
今市町
一〇五〇
一
〇
北東
塩冶村
五三九
─
─
久 村
三〇九
一五
五
朝山村
五五〇
─
─
神原村
五五一
─
─
上津村
三九四
─
─
荒茅村
三二〇
─
─
飯石郡
一宮村
五五〇
─
─
三刀屋村
四〇〇
─
─
鍋山村
三七〇
─
─
飯石村
不明
─
─
中野村
二九〇
─
─
田井村
二四五
─
─
吉田村
五〇〇
─
─
掛合村
三九〇
─
─
多根村
一八〇
─
─
松笠村
一八〇
─
─
東須佐村
二九〇
─
─
西須佐村
不明
─
─
志々村
三五〇
二
一
南東
頓原村
不明
─
─
波多村
不明
─
─
来島村
六三一
─
─
赤名村
四一〇
─
─
第八表 浜田町総戸数全潰数百分率潰倒方向
区名
総戸数
全潰
半潰
全潰百分率
潰倒方向
清水区
一〇四
二四
一五
二三
不明
若宮区
八七
九
─
一〇
東
高田区
六九
三一
─
四五
不明
大元区
五四
六
一一
一〇
不明
真光町
九三
二五
一六
二七
東
錦町区
五〇
二〇
─
四〇
不明
田町区(横川共)
六七
三二
三八
四八
不定
外ノ浦区
四五
五
一五
一一
不明
瀬戸ケ島区
四六
一二
八
二六
東
浜田浦区
二六二
四〇
六七
一五
東
琵琶区
六一
五二
四
八五
東
牛市区
八二
四四
二八
五四
西
松原区
二一八
五七
二三
二六
南東
蛭子町
五九
一三
─
二二
東
京町区
九九
二二
一七
二二
東
辻町区
五〇
二二
─
四四
不明
紺屋町区
一四六
六九
五
四七
東
新町区
一三五
六五
四
四八
東
片庭区
七〇
六四
─
九一
東
原町区
八三
一八
─
二二
東
計
一八八〇
六三〇
二五一
三四
墓標石灯の顚倒方向と液体の溢出方向 墓標及び石灯は家
屋の如く構造複雑ならざるが故に其顚倒方向は夫れよりも
一層最大震動の方向と一致せるものを現はし就中円筒形を
なせる墓標及び石灯台の如きは地震計の代用的働きをなす
が故に若し地質地勢に顧慮すべきものなくんば震央捜索の
場合に欠ぐべからざる貴重なる材料とするところなり殊に
器中にある液体殊に円形の器中にある液体例へば手洗水、
酒、醬油等の溢出方向は正しき震動の方向を現はすが故に
一層重要なる材料たるなり尚ほ当地方は丸形墓標及び石灯
些少にして多くは方形をなせり
墓標顚倒方向の配布は美濃郡に於て区々なりと雖多くは北
乃至東方に向ひ液体は南北に溢出せり、那賀郡に於て海岸
地方は多く東に向ひ只下府村の南方にある多陀寺の墓地は
小丘上の割合に平坦なる土地にありて墓標は孰れも円筒形
をなせり其明治五年以前に建てられたるものゝ損傷痕跡に
依り当時の潰倒方向を推測するときは其判明せる五基は皆
南東より稍々南方へ偏せる方向に倒れたるもの、如し又南
三十五度西に向ひ建てられたる山門は南五十五度東方へ
稍々傾斜せり今以上六ケの有痕跡物体の潰倒方向を見るに
孰れも一定し平均に於て南四十度東を現はす、又内陸地方
に於ては南北に倒れたる処多く伊南村大内村及び美又村に
ては整然として南に倒れ周布村に於ては東微南に倒れしが
杵束高城の両村は南に、長安村は北に、波佐村及今市村は
南北に倒れたり、液体は川波都濃津の二村は西方へ、杵束
上府両村は南へ、今市村は南北、周布村は南東へ、長安村
は北西へ、大内村は南東方へ溢出せり。今以上方向の帰着
点を求むるに其内陸にあるや明かにして周布村浜田附近よ
り大内漁山両村の中間附近を経て伊南村美又村の南方に達
するものゝ如し又伊南美又村以南の地方中和田長安の二村
に於ては北方を指し今市及波佐村は南北の方向を採れども
高城村杵束村に於ては南方へ倒れたり斯かる反対方向へ倒
るゝ例は孰れの地方にも多かるべく右の内高城村の顚倒方
向は一般に不明にして或る部落に於て南東へ向へるものあ
りしと云ふに過ぎざるを以て充分なる証跡たる能はず而も
桶底にありし小量の尿が東方へ射出されたることを認めた
るものあるに至つては此の墓石の潰倒方向は射出運動の為
めに起りたるものに非ざるか兎も角も南部地方は南北に震
動し潰倒家屋の状態より見れば最大震動の方向は北にして
雲城村今市村和田村の北方伊南村の南方にありしものと認
めらる。次に邑智郡に於て墓標石灯は長谷、谷住郷、中野
の各村は南へ、都賀行、口羽、阿須那の各村は概ね東方、
浜原、井原、田所の各村は西乃至北西、布施村は北方へ倒
れ、液体は都賀行村は東西、阿須那村口羽村は東、田所村
井原村は北西、長谷村は南方へ溢出せり。邇摩郡に於て墓
標類は温泉津町忍原村静間村は東、大屋村は南方へ倒れ溢
出は静間村忍原村は東西、大屋村は南方へ向へり。安濃郡
に於て墓標類は長久、波根東、朝山の各村は南、富山村は
北西、鳥井村は西方へ倒れ液体は長久村朝山村は南北、富
山村は北西へ溢出せり。飯石郡に於て赤名村は北西、志々
村は南東、飯石村は北微西、西須佐村は南北へ倒れ赤名村
は西方へ波多村は東方へ溢出せり。簸川郡に於て潰倒及び
溢出の方向の大部分は東方へ向ひ南東へ偏せるもの之れに
亜げり
右五郡の潰倒及び溢出方向は那賀郡の美又村南部より邑智
郡の長谷村、川戸村北部附近に連り祖式村北部より同郡の
江川以北の地方に向ひしものゝ如きも其詳細なる位置に関
しては材料の不足なるが為めに単独に本項に於て論じ能は
ざれば宜しく異種の材料と合せざるべからず
要するに以上の墓標石灯の顚倒方向及び液体の溢出方向を
最大震動の方向と見做し之れに依り最大動の向ひたる位置
を決定するときは周布村浜田町附近大内漁山村附近より雲
城村北部を経て川戸村北部に達し夫より邑智郡北部に延長
せるものと認められ前記潰倒家屋に依りたるものと略ぼ一
致するところなり(第一図参照)
第九表 墓標石灯顚倒方向
町村名
墓標転倒方向
石燈転倒方向
美濃郡
安田村
南北
─
都茂村
西
西
豊川村
北
北
高津村
南東
─
那賀郡
江津村
東
─
伊南村
南
南
雲城村
西北西
─
美又村
南西
南西
波佐村
南北
─
高城村
南東
─
長安村
北西
─
杵束村
南
─
西隅村
東
─
川平村
─
北東
漁山村
東南東
東南東
町村名
墓標転倒方向
石燈転倒方向
大内村
南東
南東
周布村
東
東
渡津村
東
東
都濃津村
北西
北西
長浜村
北東
─
上府村
─北
岡見村
東
東
邑智郡
都賀行村
東
─
布施村
─
北
田所村
─
北西
川越村
─
北西
浜原村
西
西
長谷村
南
南
口羽村
東
─
井原村
西
北西西
中野村
南
南北
町村名
墓標転倒方向
石燈転倒方向
谷住郷村
南
南
邇摩郡
大屋村
南南西
─
温泉津町
東
─
忍原村
東
─
安濃郡
長久村
南北
南北
鳥井村
西
─
朝山村
南
南
富山村
北西
北西
波根東村
南
南
簸川郡
伊波野村
北
北
久木村
東
東
灘分村
東西
東西
国富村
南東
南東
町村名
墓標転倒方向
石燈転倒方向
鳶巣村
東西
東西
西田村
西
─
檜山村
南東
南東
江南村
東
東
西浜村
東
東
布智村
─
東
古志村
東西
東西
高松村
北西─南東
西─東
─
町村名
墓標転倒方向
石燈転倒方向
東村
南
南
荒木村
沈下
─
杵築町
東西
─
高浜村
東
東
四纒村
南東北西
南東
川跡村
西
西
今市町
北東
北東
久村
─
東西
町村名
墓標転倒方向
石燈転倒方向
朝山村
北
西
飯石郡
飯石村
北西
─
吉田村
南
─
西須佐村
南北
志々村
南東
─
赤名村
北西
北西
第十表 液体溢出方向
町村名
溢出方向
美濃郡
安田村
北
種村
南
豊川村
北南
高城村
南西
道川村
北
那賀郡
川波村
西
今市村
北
長安村
北西
杵束村
南(多)北(次)
漁山村
東北
大内村
南東
周布村
南東
都濃津村
西
長浜村
北東
上府村
南
町村名
溢出方向
邑智郡
都賀行村
東西
阿須那村
東南東
田所村
北西
長谷村
南
口羽村
東
井原村
北西
中野村
南
邇摩郡
大屋村
南
静間村
東西
忍原村
東
安濃郡
長久村
南北
朝山村
南
富山村
北西
川合村
北西
町村名
溢出方向
簸川郡
伊波野村
南東
久木村
東
灘分村
東西
鳶巣村
東西
西田村
西
檜山村
南東
窪田村
東西
西浜村
東
古志村
東西
高松村
東南東
川跡村
東西
今市町
北
飯石郡
吉田村
南
志々村
東南
波多村
東
赤名村
西
物体の移動状態 震動の為めに起りたる物体の移動状態を
知ることは激震区域の表示、震央捜索等に頗る重要なるに
不拘之れを記憶せる者或は現存せるもの頗る少し今其得ら
れたるものに就て述ぶれば、美濃郡に於て都茂村某家の小
簞笥、帳箱類は元位置より一二尺移動したるも其方向を詳
にせず又豊川村にては墓石が南方へ四五分移動せりと云
ふ。那賀郡に於て浜田町宝福寺境内の三重の台石より成る
総高五尺三寸、最低の敷石は高さ五寸四分、方四尺四寸九
分にして其の上には高さ一尺三寸、方三尺三寸の台石其の
上に高さ九寸九分、方二尺二寸八分の同じく台石を重ねた
る上に高さ二尺四寸七分、前面一尺三寸九分、側面一尺三
寸五分の方形墓標を置き北十度東に向ひ建てられたるも
のゝ中間の台石は最下の台石の中心即ち元位置より六寸六
分東方へ、最上の台石は同原位置より同方向へ九寸一分、
墓標は東方(約四度偏南)へ八寸九分丈け移動せり且つ敷
石を固定せるものとして考ふるときは中間の台石及び墓標
は時計の針と反対方向へ僅に廻転し最上の台石は之れと反
対方向へ約一度丈廻転せり即ち本地震の最大震動の方向は
東(僅に偏北)にありしことを確められ以上の潰顚倒物に
依りたる最大動方向の誤差甚だ小なることを知るべし但し
敷石は南東方へ一度余傾斜せるも之れ恐らくは四十年間移
動状態の儘放置せるを以て重力位置の変動より来りし結果
なりと考ふ為めなるべし
石見村大字黒川字河内岡本某方の高さ一丈三尺、南西へ面
せる六脚瓦葺門、両側柱間距離一丈二尺、一側に於ける柱
間相互の距離四尺即ち外柱間八尺、屋根の長さ一丈八尺外
に門の北西方西側の外柱より北西方へ高さ七尺巾四尺の小
門を附し、北西方主柱と西側なる外柱の間に潜戸を附せり
沓石は高さ五寸の自然石の稍々整理したる者を用ゆ又門の
南東、北西方に門に連接並行せる高さ約四尺の土塀を築き
其南西側は石垣を以て直に丈余の断崖をなし門の同方向は
緩傾斜の阪路(ママ)を有し家屋は門の北東方数間を距て位置す、
斯かる状態にありし者が地震の為に土塀は南西方なる石垣
下に落ち家屋も同方向へ傾斜せしが門は独り沓石を脱して
南東方へ約二尺移動せりと云ふ
伊南村大字後野字辻堂の或る土蔵は南方へ約二間移動し後
潰倒し浅利村に於て東面の墓標南方(時計の針と同一方向)
へ約二寸回転し高城村に於て肥桶の底部にありし小量の尿
は全く東方へ射出され大麻村大字折居の土蔵は北東方へ五
寸五分移動し大麻山上の尊勝寺の庫裡は其儘潰倒し方向を
有せず又同山の高さ一丈五尺柱の太さ六尺の六ツ足大鳥居
は低地ならざる南西方へ基部より(杉丸木基上)約五尺移
動、大内村の家屋寺門は南東方へ一尺五寸計り移動し周布
村字原井の一家に於て水瓶北東方床上へ飛び上りたりと伝
江られ又家屋の稍々東方へ移動したるものあり、岡見村の
或る墓標は五寸計(方向未詳)移動し三保村の石灯は南方
約一間の処へ飛び井野村の北部に於ては道路の小石飛び上
りたりと云ふ
以上の移動状態より那賀郡に於ける最大震動の向ひし位置
を考ふるときは浅利村の東微南、伊南村の南方、浜田町及
び石見村の東方、高城村の北西方、大内村周布村の南方、
大麻村の北方に位置せしものにして之れが前述の潰倒物に
依りて判断せるものと略ぼ一致することを知るべし次に邑
智郡に於て川越村の南方へ向ひたる墓石約四十五度丈け時
計の針と同一方向に廻転し君谷村の墓石は東西に移動し著
しきは約一間に達せりと中野村に於て食器釜鍋類は北方へ
三尺位移動せり。邇摩郡に於て静間村の石灯墓石は東西に
移動し、安濃郡長久村にては高さ二尺の小地蔵堂南方一間
の処へ飛び朝山村及び川合村にても家屋等の移動ありしも
是等は土地の傾斜状態より来りし結果なるを以て論ずるに
足らず。簸川郡に於て古志村の大桶は南東方へ四五寸移動
し今市町の一鐘楼は南西方へ移動せり、飯石郡東須佐村に
於ては社寺の移動せるもの多く赤名村にては墓標北西若し
くは東方へ二三寸移動せりと云ふ
以上五郡の移動状態より最大震動の向ひたる位置を考ふる
ときは邇摩郡安濃郡簸川郡の各南方にして邑智郡飯石郡の
北方に当り是又前記潰倒物の方向に依りたるものと合する
を見る。要するに各地に於ける物体の移動状態より推考し
たる最大震動方向の集注位置は以前に攻究したる激震帯と
略ぼ一致するを見、且つ是等の移動状態を現はしたる地方
は前記震動の強烈なりし範囲と符合し其激震部なる事を表
示するや明かなり
第十一表 物体の移動状態
町村名
種類
移動方向
距離
美濃郡
都茂村
小簞笥、帳箱
不明
一二尺
豊川村
墓石
南
四五分
那賀郡
浜田町
墓標
東
約九寸
川波村
舟小屋、鳥居、石碑墓石
西
五寸
伊南村
土蔵
南
二間
高城村
桶底にありし少量の尿
東方へ射出
大麻村
土蔵
北東
五寸五分
大内村
家屋寺門
南東
一尺五寸
周布村
家屋水瓶床上に上ると伝う
東
微
都濃津村
高さ五丈の砂山
東
約一町
浅利村
墓石(東面)
南
二寸
岡見村
墓石
不明
五寸
三保村
石燈
南
一間
井野村
道路の小石飛び上る
邑智郡
川越村
墓標
時計の針と同方向
約四十五度
君谷村
墓標
東西
大なるは一間
中野村
食器、釜、鍋
北
三尺
邇摩郡
静間村
石燈、墓石
東西
不明
安濃郡
長久村
小地蔵堂(高二尺)
南
六尺
朝山村
家屋、樹木
北
九間
川合村
家屋
北西(地の傾斜方向へ)
一間
簸川郡
古志村
大桶
南東
四五寸
今市町
鐘楼
南西
不明
飯石郡
東須佐村
社寺の移動せるもの多し
頓原村
廻転動あり
赤名村
墓石
北西東
二三寸
五 感覚に依りたる最大震動方向
感覚に依りたる最大震動の方向は略ぼ実動と一致し之れを
記憶する者頗る多きが故に材料豊富なり然れども其最大動
と之れに亜ぐ方向とを区別する能はずして単に東西動とか
南北動とのみ記憶する者尠なからざりしも震動の顕著なり
し地方に於ては多く其方向を感知したるを以て是等を有力
なる一材料たらしむることを得るなり
今其配布状態を見るに美濃郡に於て其北部は南北動多く東
西動之れに亜ぎ。那賀郡に於て海岸より約二里の幅員は東
方又は南東方へ向ひたるもの最多を占め大麻村にては北東
を周布村は東方を示す其他内陸地方にありては南北のもの
最も多し。邑智郡に於て東部及び北部は東西動最多にして
南部は南北動を現はし北西部は長谷村に南北市山村日和村
に各東西、川戸村川越村に北東、谷住郷村に南西、三原村
に東西、三谷村に南西を現はし一般に郡の南東半部は南東
より北西、北西半部は南西より北東方にありしが如し。邇
摩郡安濃郡に於て一二を除く外は孰れも東西動にして其東
方へ向へるもの多し。簸川郡に於ては整然として南部は東
西動なりしも他は北西より南東へ向ひ。飯石郡に於て中部
は東西を示せしも北部及び南部は南乃至南東方を示せり
是等の方向を綜合するときは最大震動は那賀郡の周布村以
北より内地へ入り海岸より約二里の所を海岸線に沿ひ漸次
其距離を増加し邑智郡の西部と北部(邇摩郡南部)に達し
更に安濃郡南部より飯石郡中部地方へ亘れる一長帯へ向へ
る事を知るべし
次に上下動を感じたる纏りたる区域を見るに此地帯の南辺
は那賀郡の大麻、井野、漁山、高城、雲城、和田の各村、
邑智郡の日和、川本、粕淵、沢谷の各村に達する線にして
其北辺は那賀郡の下府、有福、松山の各村、邇摩郡の大家、
大国、大森、安濃郡佐比売の各村に通ずる線にして簸川平
原に於ては土地の軟弱なるが為め急劇なる水平動を上下動
と誤りたる所二三あれども飯石郡に至りては皆無なりき。
以上の主として石見の那賀郡以東に限られたる上下動区域
は平均幅二里半長さ十五里に達す今該帯の長軸の通過する
位置を見るに其西端は長浜村に始まり伊南、美又、長谷、
川戸の各村より八代村、水上村の各南端を経て三瓶山方面
に向へり
上下動の感覚は土地の状態及感覚の如何に依るべけれども
一般に地震の根源的地方に非ざれば発現せざるものなるが
故に如上の石見の堅牢なる地盤に起りたる主なる上下動区
域の中軸は該位置に接近せるものと見做すことを得べく之
れが前記感覚に依りたる最大動の方向の集合位置と西端に
於て稍々北上せる外一般に符合するは勿論前に論じたる潰
倒移動溢出現象等より誘導したるものとも一致するところ
なるを以て該帯は原動力の働きたる位置として益々確度を
増加し来れるものと云はざるべからず(第一図参看)
尚ほ該地震に於て震波を空中へ伝播したる事著しかりしも
のと認めらるゝは各地に鳥類の墜落したるを実見せる事な
りとす其地方は邑智郡都賀村、中野村、邇摩郡馬路村、安
濃郡大田町、飯石郡赤名村なりき
第十二表 感覚上の最大動方向
町村名
方向
美濃郡
北仙道村
東西
東仙道村
上下動南北
二川村
上下動
疋見上村
上下動
真砂村
北─南
豊川村
南北
豊田村
上下動
美濃村
東西
南北
中西村
東西
益田町
上下動南北
高島
南東─北西
那賀郡
石見村
上下動西─東
国分村
北西─南東
川波村
北東─南西
都濃村
西
町村名
方向
江津村
東西
下松山村
北、北東上下動(少し)
松山村
上下動西─東
跡市村
東
伊南村
上下動
雲城村
上下動東─西
美又村
東西
和田村
上下動南─北
都川村
北─南
今市村
東西
波佐村
東北
高城村
上下動
長安村
水平動
杵束村
南─北
西隅村
西─東北─南
漁山村
東西
大麻村
上下動南西─北東
町村名
方向
有福村
西─東上下動
大内村
上下動南西─北東北西─南東
周布村
東西
三隅村
東西
芦谷村
上下動
渡津村
東西
都濃津村
北西─南東
長浜村
東西
三階村
上下動北西─南東
下布村
上下動
上府村
上下動北東─南西
木田村
北西
岡見村
東西
三保村
西南西─東北東
井野村
上下動北─南
町村名
方向
邑智郡
川本村
上下動南北
沢谷村
上下動
都賀行村
東西
谷村
東西
阿須那村
上下動
布施村
上下動南北水平
高原村
北─南
出羽村
水平
田所村
上下動北西─南東
川越村
上下動南北動南西─北東
粕淵村
上下動北西─南東
吾郷村
東西
長谷村
南北
市山村
東西
川戸村
上下動南西─北東
祖式村
上下動東西動北東─南西
三谷村
北東─南西
三原村
東西上下動
君谷村
上下動西─東
口羽村
東西動
市木村
南─北
井原村
東西動
中野村
南西─北東
町村名
方向
日貫村
南東─北西
日和村
東西動上下動
谷住郷村
北東─南西南─北
邇摩郡
水上村
南西、東上下動
大家村
上下動
大浜村
東西動
湯里村
東西動
大国村
上下動
久利村
東西動北東─南西
大屋村
南西─北東上下動
温泉津町
上下動東西動
宅野村
北─南
仁万村
東西
五十猛村
東西動上下動
八代村
上下動南西─北東
静間村
東西動
福光村
東西動
大森町
南東─北西上下動
忍原村
西─東北東─南西
安濃郡
大田町
上下動西─東
長久村
上下動(微)南北
鳥井村
水平動
朝山村
東西
町村名
方向
富山村
波動的
佐比売村
上下動東西動北─南
川合村
東西
波根西村
西─東
波根東村
上下動東西動
簸川郡
荘原村
北西─南東
出西村
北西─南東
伊波野村
北─東西
直江村
北東─南西
久木村
東西北西─南東
出東村
北西─南東
灘分村
北西─南東上下動
国富村
上下動西─東南北動
鳶巣村
北西─南東
西田村
西─東
久多見村
北東─南西
佐香村
上下動南西─北東
檜山村
北西─南東東西
平田町
水平動
窪田村
樹木東西西─東
山口村
水平動
江南村
西─東
西浜村
東西
町村名
方向
神西村
北西─南東
知井宮村
東西動
布智村
北西─南東東西
古志村
上下動西─東北西─南東
高松村
北西─南東東西動
園村
北西─南東
荒木村
北西─南東
杵築町
東西
杵築村
北西─南東
日御碕村
東─西
鵜鶯村
樹木北西─南東三五度傾西─東
高浜村
上下動東西北西─南東
遙堪村
北西─南東西─東
四纒村
北西─南東
川跡村
西─東
大津村
南─北
今市町
東─西
塩冶村
上下動南西─北東
久村
北西─南東東西
朝山村
東西
神原村
西─東北西─南東
町村名
方向
上津村
上下動南西─北東北西─南東
荒茅村
南西─北東
飯石郡
一宮村
北西、水平動
田井村
東西動
吉田村
南北動
掛合村
東西動
多根村
南西─北東
松笠村
北西─南東
西須佐村
北─南
志々村
西─東
波多村
東西動
来島村
北西─南東
赤名村
北西─南東
町村名
方向
第十三表 上下動感覚町村名
美濃郡
東仙道村 二川村 疋見上村 豊田村 益田町
那賀郡
浜田町 石見村 下松山村 松山村 伊南村
雲城村 和田村 高城村 大麻村 有福村
大内村 芦谷村 三階村 下府村 上府村
井野村
邑智郡
川本村 沢谷村 阿須那村 布施村 田所村
川越村 粕淵村 川戸村 祖式村 三原村
君谷村 日和村
邇摩郡
水上村 大家村 大国村 大屋村 温泉津町
五十猛村 八代村 大森町
安濃郡
大田町 長久村 富山村 佐比売村 波根東村
簸川郡
灘分村 国富村 佐香村 古志村 高浜村
塩冶村 上津村
六 地震の強度
全潰家屋の割合と地震の強度即ち震動の最大加速度との関
係は大森博士が岐阜地震に依り標準的調査を施行されたる
ところにして之れに依り最大加速度を推測することは複雑
なる状態にありて而も少数の物体の顚倒より計算するより
も却つて穏当なるべしと考へらるゝを以て今之れに依りて
当時の最大加速度を推考し更に少数の墓標の顚倒に依り之
れを算出して参照に資せんとす
今大森博士が示されたる全潰家屋の割合と震動の最大加速
度の標準の中間に当るものを仮りに比例するものとして其
配布状態を見るに石見の有全潰家屋範囲の最大加速度は二
千六百粍以上にして簸川平原に於ては二千六百粍を現はす
浜田町は土地の軟弱なると人家の稠密とに依り最も著しく
三千七百粍に達し大内村石見村祖式村は各三千五百粍、井
野村川戸村八代村は各三千四百粍、谷住郷村は三千三百粍、
大家村温泉津町遙堪村は各三千三百粍、水上村は三千二百
粍、漁山村市山村は各三千百粍に相当し二千八百粍内外の
範囲は前記全潰家屋五%の範囲附近なり尚ほ大内村以下は
実際之れより大なりし事勿論なり
次に震度と地質との関係を見るに最とも著明なりし沖積層
上に人家稠密せる浜田町、同地質なる温泉津町及び簸川平
原の如きは別として之れに亜ぎたる大内村井野村漁山村は
花崗岩、結晶片岩、石英粗面岩にして周布村は主として沖
積層なるも割合に震央に接近したるが為めか著しからず却
つて地質の堅固なる漁山村地方に多かりしことは地勢が山
岳をなし家屋は孰れも山の斜面に建築されたる者のみなり
しに依る、又被害大なりし井野村の北部地方の如きも同様
の地形にして而かも家屋著しく薄弱なりしが為め過剰なる
被害を現はしたるものなるべし其他雲城村伊南村の多分は
花崗岩を示す又邑智郡に於て祖式村の北部は輝石安山岩又
は第三紀層を以て成るも市山、川戸、谷住郷、君谷の各村
は石英粗面岩にして邇摩郡に於て八代村水上村は石英粗面
岩、大家村は第三紀層より成る。之れを以て本地震に於て
震度の著しかりしは沖積層を除けば石英粗面岩の地方にし
て花崗岩結晶片岩第三紀層等相亜ぎ邇摩安濃郡の海岸附近
に多き第三紀層地方は余りに被害なかりしなり又墓標の顚
倒と震動の最大加速度に就て見るに浜田町に於ける最大震
動の方向は殆んど東西なりしことは家屋の潰倒方向及び宝
福寺の墓標の移動状態より知ることを得べく又上下動はあ
りしも極めて顕著なるものに非らざりしが故に同地に於て
東西若しくは南北に向ひたる墓石の倒不倒を知るならば簡
単なる式を以て大凡の最大加速度を計算することを得べし
今顚倒状態に依り震度の概要を窺ふべく伝聞せる二三の実
例に就て計算を試みん
浜田浦北部の平地にある極楽寺の墓地は約八間の間隔を以
て南北二ケ所に区分されあるが住職の語る所に拠れば其墓
地中孰れのものが顚倒せしかは今は確知せざれども南部墓
地のもの多く倒れたるに反し北部のもの余り倒るゝに至ら
ざりしと依て大体の程度を知るべく両墓地のものを比較せ
しに総て百基ありて南部には四十五基中最大加速度五千粍
以上に非ざれば倒れざるもの五、同四千粍乃至五千粍未満
二十八、三千粍乃至四千粍未満四、二千粍乃至三千粍未満
六、二千粍以下二にして其最多は四千粍以上のものにして
之れを百分率を以てするときは総数の七十三%に当る又北
部墓地は五十五基ありて五千粍以上のもの十四、四千粍乃
至五千粍未満のもの三十八、三千粍乃至四千粍未満のもの
一、三千粍未満のもの二にして四千粍以上のもの最も多く
総数の九十五%に達す今之れと前者とを比較するに後者は
倒れ易からざるもの多きこと明かにして前者の多くを倒す
には最大加速度五千粍未満を要すべく後者の多くを倒し能
はざる加速度の最大は四千粍未満なるを要し其間一千粍の
差あるが故に今住職の言と一致すべき状態にあらしむるに
は大凡四千五百粍内外の加速度なりしものと見做すを可と
するが如し
又松原浦より約五町南東方鏡山の西麓にある妙智寺の墓地
は麓より稍々高き平坦地より山頂へ掛けて同山の北西斜面
一帯に多数の墓標を有し地震の為に殆んど全部顚倒し今尚
ほ其儘となり雑草に蔽はれつゝあるもの夥しく当時顚倒せ
ざりし者は数基に過ぎざりしと勿論斜面に設けられたるも
のゝ顚倒方向及び最大加速度は無意味なるも其麓なる平坦
地に於けるものは幾分の証跡となり得べき者と認めたるが
故に該処にあるものに就て加速度を計算せり其結果四基を
以て一群をなせるものゝ内二三のもの倒れざりしとの事に
て内一基は四千粍他は四千八百粍乃至五千二百粍を示せり
又他の倒れざりし五基は四千八百粍乃至五千四百粍にして
倒れし者は四千六百粍の者なりき。是等を以て考ふる時は
当時の最大加速度は四千粍以上四千八百粍以下なりしこと
を示し前記極楽寺の統計と照合するときは最大加速度は四
千五百粍内外にありしものゝ如し但し極楽寺の墓地は海岸
にして沖積層を以てし北部のものは南部と同質なれども震
動方向より見れば西方の輝石安山岩の山の陰影をなすが故
に南部よりも顚倒し易からざるべし又妙智寺に於けるもの
も純然たる平地にあらず山腹の平坦地なるが故に其感ずる
震度も過大なるべく其上一般に墓標が水平ならざる事を含
みて必竟以上二ケ所の墓標の顚倒状態より計算したる最大
加速度の値は実際より稍々過大なる結果を現はせしものと
認めらる
以上の如く浜田町に於ける全潰家屋の割合に依りたる最大
加速度は墓標の顚倒に依り計算したる値より過小にして其
間五百粍以上の差を現はすに至れり之れは前述の如く墓標
の位置の幾分不完全なりしがために起りしところにして其
一割乃至二割を控除するときは全潰百分率に依りたるもの
と略ぼ接近せる値を得るに至るべし
第十四表 明智寺墓標の大きさと最大加速度
倒れざりしもの
2X(糎) 2Y(糎) 最大速度(耗秒)
一三一 五九 五二〇〇
二二八 五七 四八〇〇
三二六 四九 五二〇〇
四三〇 五五 五四〇〇
五三八 七二 五二〇〇
六四三 八七 四八〇〇
七三五 七一 四八〇〇
倒れしもの
一三〇 六四 四六〇〇
二三〇 七三 四〇〇〇
七 最大震動方向等の精査
以上各種の材料に依り推定せる水平歪力の働きたる位置は
略ぼ一致して周布村附近より周布川に沿ひ東方へ進みたる
后東北東方へ変向して三階村伊南村及長谷川戸谷住郷の各
村より邇摩邑智郡界に沿ひ三瓶山附近へ達し更に東方へ向
へるものなることを確むるを得たり其の東半部は直線的な
るが故に可なり明瞭なるも西部は湾曲著しく且つ海陸の関
係あるが為めに誤謬に陥り易きを以て更に之れが位置を精
査すべく該帯を横切りたる四個の直線を撰び其沿線地方の
状況を実地に調査せり、其第一は周布村以南大麻村大字折
居に至る北東より南西へ国道に沿ひたる約一里の地帯、第
二は大内村より漁山村迄南北約一里、第三は浜田より東南
東方波佐街道に沿ひて二里第四は浜田より広島街道に沿ひ
て東方へ二里半の範囲にして今左に方面に別ちて論ずべし
第一の計画に於て周布村原井の南西方十五町の所にある青
口の平地に於ける郷蔵の内に蓄積せる俵米は蔵の北西方壁
を破り蔵と共に同方向へ潰倒し地鳴は北方に聞江たり夫よ
り約十町南西方の同村西村力石にては戸数約五十戸中全潰
僅に一戸にして其潰倒方向は石垣上にありしを以て取るに
足らず地鳴は北方に聞き最大動の感覚は南北にして恰も蒟
蒻の上にあるが如き感ありしと次に其南方十町余の同村荒
磯谷に於ても総戸数約五十戸中二戸全潰し其内一戸は其儘
圧下し一戸は北方へ倒れ或る家に於て長さ四尺の自在鍵に
掛けありし茶釜は北方一間半の所へ飛び地鳴は震動前北方
に当り大砲の如く聞江発震してより二三間を避難せしとき
大震動となりしと云ふ又約十町南西方の同村大字折居字折
居にては全潰家なく上下動を感じ茶釜類は三尺南方へ飛び
一土蔵は北東方へ移動し其東南東方約二十町の所にある標
高約六百米を有せる大麻山頂附近にありし尊勝寺の内庭あ
る正方形の庫裡は前記の如く圧下座伏し又同山の南面せる
大鳥居は南西方へ約五尺移動せり
以上の状況に依り是等の各地に於て上下動と射出現象のあ
りしこと明かにして最大震動の方向は孰れも北方に向ひ荒
磯谷の某家茶釜の顚倒方向は最大水平動に依りしものに非
ざるなきや之れを以て前述の周布村に於ける最大動方向が
東に向ひ液体が南東方へ溢出せるを射出現象として考へ又
某家の水瓶が北東方の床上に飛び上りたりと伝江らるゝこ
とを綜合して考ふるときは震源は該範囲の北部以北にあり
しものゝ如し
第二に於て大内村大字内田は小丘間の平地にして大部結晶
片岩を以てし村の西部より北部へ亘る山脈は玄武岩より成
る総戸数百三十七戸中全潰家屋十三戸半潰三十戸以上を出
せり是等の家屋は総て南東方へ倒れ地鳴は西方より来り同
村字内村本郷は主として結晶片岩にして北方に周布川を扣
江南に山を脊ひ総戸数五十六戸内全潰三戸にして北方へ倒
れしも之は北方が田地にして幾分同方向へ傾斜せるが為な
らん地鳴は発震直ぐ前に西方に聞江たりと、其南方山地な
る漁山村字櫟田原は石英粗面岩の山岳を以て囲まれたる摺
鉢形の急なる西方斜面にありて全数五十一戸中全潰八戸、
半潰十三戸を出せり地形既に斯の如きが故に潰倒状態に就
て採るに足る者なく地鳴は西方に当り強烈にして十三人の
一家中九人迄家屋下に圧倒され其逃れ出でたる四人は内庭
にありし者なりと云ふ無論該家屋は薄弱なりし者なるも性
質の如何に急劇なりしかを知るに足るべし櫟田原の南東方
約二十町の処にある同村鍋石にては地質石英粗面岩の山地
にして総戸数七十六戸中五戸全潰、十五戸半潰し地鳴は西
方に聞き家屋墓標石灯の如きは概ね東方へ倒れ就中某家の
茶釜は重さ約一貫五百匁にして水一升在中総体約二貫目の
者を天井より約一丈の長さの綱にC形の掛金を以て掛けあ
りしが該地震の為に茶釜は鈎を脱して南七十五度東方へ約
三間飛び出でたるを目撃し家人一同奇異の感に打れたりと
云ふ
以上の状態を地質上の考を度外して考ふれば最大震動方向
は大内村大字内田以南漁山村大字鍋石の以北に向ひしが如
し但し本調査区域の南部は山地のみなりしが為め充分なる
証跡を得ざりし
第三に於て浜田より東南東方へ二里の範囲中先づ三十町東
なる石見村大字黒川字河内は第三紀層の地にして総て低地
なる浜田川の流域へ向つて潰倒傾斜せるもの多かりしも独
り前記の門は南東方へ約二尺移動せり其以東の地方は花崗
岩にして該地より約一里の処にある雲城村大字七条小笹は
内地なるに不拘地勢一般に平坦にして総戸数三十戸内二戸
全潰し其割合七%にして方向は半潰家と共に北西最も多く
現に傾斜したる儘放置しある三間半に奥行二間半の農家を
見るに南微東に面して平地に建てられしが潰倒するに困難
なる北三十八度西に向ひ傾斜せるを以つて当時同一方向の
著明なる最大動を現はしたるものと認めらる又一神社の拝
殿は全く圧下して潰れ初期微動は殆んど皆無にして地鳴の
方向不明なりし、更に其南方約二十町の処にある同村の青
原(地質石英粗面岩)にては総戸数四十三戸中四戸全潰し
其割合九%を現し七条小笹より多く建物の潰倒方向は東及
び北なりき今其附近の地形を精査するに東方に倒れたるも
のは孰れも同方面に低地を有せるものなれど北方へ倒れし
ものは全く平坦地をなせるが故に最大震動は北へ向ひしも
のなるべし地鳴は五名の古老共北方に聞江たりと云ひ初期
微動は甚だ短く一秒半位なりしと
以上の事実に従ふときは最大震動は河内の東方にして青原
の北方七条小笹の北西方へ向へるものと認めらる
第四に於て浜田より東方へ向ふものは、浜田より東方約一
里十町の所にある伊南村大字後野字辻堂は第三紀層にして
当時十三戸中二戸全潰(十五%)し西北西方より地鳴を聞
き平坦地にありて南六十二度東に向け建てられたる家屋は
同方向へ潰倒し又棟の中央より東西に裂けたるもの、土蔵
が約二間南方へ移動したる後同方向へ潰倒したるものあり
更に其東方三十町弱の所にある同村佐野に至れば既に花崗
岩層に入り略ぼ南北に流るゝ小河の両岸に沿ひたる凹形の
割合に広き平地をなし総戸数百戸中五六戸全潰(八%)し
一寺院は北西方へ倒れしも川に向ひたる傾斜方向に略ぼ従
ひたるを以て充分なる論証たらず又割合に平坦なる地にあ
りし一家屋は南西へ、墓標桶手水鉢等は南方へ倒れたるを
覚江、地鳴は北より来り亀裂線は割合に長く略ぼ川に沿ひ
南北に亘れりと、次に其東方二十五町の処にある美又村字
今福五十石は平坦地にして地質は佐野同様花崗岩にして総
戸数二十一戸中三戸全潰(十%)し佐野より稍々多く其方
向は北十三度東を脊面として建てられ且つ同方向に小丘を
扣江たる一家屋は南方へ稍々傾斜せる一般地勢に反して小
丘の方へ倒れ又酒蔵及び附属家屋は北五十二度西へ向ひ潰
れ、南十度東に向ひ建てられたる一家屋の西側の壁は其北
方下底部より南部の上方へ向け亀裂し石垣を以て積まれた
る一石灯の笠は南西方へ墜落したり、長き亀裂線は道路が
東西に亘りしに不拘南北に走り地鳴は西より聞江たり、即
ち此地の最大動方向は平均西北西にして地質の為め稍偏西
されたるものゝ如し
右三ケ所の状態に於て家屋の全潰率は佐野附近に最も小に
して隣接せる両地方へ向ひ増加せり而して後野に過剰なり
しは地質と地形の影響なるべし次に最大動を潰倒方向によ
り考ふれば後野佐野地方は南東、少なくも南北動にして今
福地方は北西方へ向へり
以上四種の調査に依り最大動の向ひたる位置に関し比較的
精細なるものを知ることを得たるを以て此処に其最終の判
断を下さんとす
今地質的顧慮を放れて以上の最大動の向ひたる位置を決定
するときは、周布村以北より東方へ大内村の北部附近を経
たる後方向を徐々に東北東方へ変じ三階村の中部、雲城村
七条小笹の北西部、伊南村佐野の南方、美又村今福の北西
方を過ぎて邑智郡に入り北東方へ向ひ長谷村字長谷の南
方、市山村市山附近、川戸村の北部に達したる後江川を横
切りて谷住郷村、邇摩郡の八代村、邑智郡の祖式村北部を
通過し漸次東方へ変向し、水上村南方なる邑智郡の北部を
経て安濃郡南部なる三瓶山附近へ達し以東は著しく微弱と
なり出雲の飯石郡中部へ向へる一大帯状をなせり
然れども右は震動方向が地質の為めに尠からざる変化を受
くべき重要なる事柄を多く度外視して論じたるところなる
を以て充分なる判定と見做し能はずその最も疑問とすべき
は周布川流域を通過せる事なりとす、此論定は第一第二の
両精査区域に於て其各北部に射出運動の証跡を有し最大動
は周布村に東、大内村字内田に南東を指し且つ大内、漁山、
井野の三ケ村が地質の強固なりしに不拘被害大なりし事を
根拠としたる所なれども今震動方向と地質の状態に就て考
ふるに内田附近の地盤をなせる結晶片岩、其西隣の山地を
なせる玄武岩又其西方の安山岩の地盤は孰れも南西部(周
布川流域)より北東方へ帯状をなして延長し更に其西方に
沖積層の周布平原を扣ゆるが故に若し是等の合成地層の西
側へ既に幾分偏東せられたる周布村地方の東方への最大震
動を伝ふるならば該地質は其方向を著しく曲折して東方よ
りも南方へ偏せしむるに至るべきが故に内田に於ける南東
方へ向ひたる最大動は山岳の傾斜方向と一致せる事と共に
余り有力なる方向と認むるを得ず却つて東方よりも偏北せ
る方向が真に近きを思はしむ之れを以て最大動の向ひたる
位置は地質状態を度外して考へたるものよりも北移すべし
又長浜の同方向が北東を示せるは寧ろ地質的変向少く、下
府附近に於けるものが偏南し浜田地方のみ東西動を現はし
共に地質的影響大ならざるが故に該範囲の最大動の向ひた
る位置は浜田附近にありしものとなすを適当なりと信ず而
して本位置を水平歪力の働きたる所となすも前記南部地方
の射出現象との関係に於て間然する所なく只地盤の堅牢な
る前記三村に於て割合に多数の被害を蒙りたる事柄との関
連が稍々矛盾するのみなり、然れども漁山村井野村は山地
のみなるが故に家屋等は熟れも急傾せる山腹若くは其山麓
に設けられ且つ建築粗雑なり又大内村に於ては割合に堅固
なる家屋多きも周布川の低湿地に沿ひ且つ多数は該流域を
限りたる急峻なる山岳の直下に建てられしが為に崩潰等に
依り著しき害を受くるに至りたるものなるべし、斯く三村
は震動割合に強勢なりし事の外地形上の影響些からざりし
が為め遂に著明なる被害を見るに至りし所なるが如きを以
て該方面の被害と原動力の働きたる位置との関係は充分密
接ならざるが如し
右の外最大震動方向が地質の為めに多少反射或は屈折され
たるかの如き所あり殊に石見地方の如き複雑せる地形地質
を有せる場所に現はれたる震動を充分なる真方向となし能
はざるべきは勿論なれども各地趣を異にせる複雑なる周囲
の地質を有せる多数の地方の方向が概ね統一され而も有意
味なるが故に之れを以て其一般的趨勢を示せるものと見做
すも大過なかるべしと考ふ
八 土地の変動
本地震の為めに起りたる土地の変動は頗る多くして枚挙に
遑あらず其多くは山岳の崩潰にして土地の大小亀裂も又至
る処に起り隆起陥没に至りては潮位に依り明瞭に判断さ
るゝ海岸地方の外は信ぜられざるを以て不明なり又断層等
は見るべき程のものなく只土地の薄弱なる沼湖河畔に普通
起るべき模型的のもの或は山の一側が崩落せる為めに起り
たる山頂又は山腹の断層的亀裂に過ぎざりき今以上の変動
の著しかりしものを挙ぐれば
土地の隆起陥没 簸川平原に於て遙堪村入南部落にありし
約五町歩の高地約三丈五六尺も陥没し其反動として西方荒
木村字北荒木の一部隆起するに至れり又園村の中部以北の
地一町三段歩は陥没して池となり久村字砂子にては高さ約
二丈の丘陵全く陥没し其反動として周囲の土地隆起したり
然れども石見沿海地方の隆没状態は頗る広区域に亘り那賀
郡黒松村西方に約六尺沈下し渡津村江津村沿海に於て稍々
隆起したる所あり更に国分村に於て国分久代海岸は二三尺
より五六尺、松嶋、金周布辺は四五尺、畳ケ浦は三四尺唐
鐘海岸は五六尺の孰れも隆起にして下府村に於ては約三十
間の間約一尺陥没し又下府の西方海岸なる石見村の後生湯
部落の海岸は一尺五寸陥没せり、浜田沿海に至れば孰れも
陥没し瀬戸ケ嶋は三四尺、松原浦は平均四尺、浜田浦は約
二尺其他浜田川の右岸地方に著しく陥没し城山の如きは約
一丈に達したり然るに川の左岸は稍々低下したる所と原位
置の儘なるところとありて南方の山岳に近き処は異状なく
稍々増高したる所もありき其増高に関しては陥没地と見掛
上の高低の為めに増高せりと称するものあれども南部山岳
方面の増高の実証は浜田浦南方海岸の青川附近に於て海水
面との比較に依り地震前より約五尺隆起したることなりと
す、更に長浜村沿岸は三四尺沈下し周布村沿海は異状なく
大麻村大字折居字折居に於て海岸約三尺沈下したる所あり
しも以西の海岸は美濃郡高津村の北西海岸の砂地約三尺陥
没せる外は異状なかりき故に海岸に於ける著明なる隆起陥
没区域は国分村以西長浜村に達する地方にして国分の隆起
と浜田町長浜村附近の陥没を以て最たるものとし是等の隆
起地帯の多くは第三紀層にして陥没地帯の多くは輝石安山
岩の地層なり又安濃郡川合村字住居の高阜は面積五町歩全
崩壊し且つ約八尺陥没し水田五段歩を損せりと云ふ(第三
図参看)
山岳の崩壊 簸川郡に於ては著しきもの皆無にして飯石郡
美濃郡に於ても頗る少く那賀郡邑智郡邇摩郡に著しかり
き、今面積の大なりしものを挙ぐれば次の如し但し面積表
示の方法は報告の儘にして其数も概略なり
第十五表 山岳の主なる崩壊
美濃郡
道川村幅四十間に長さ百二十間、幅四十間に長さ六十間
匹見下村 高さ五十間長さ二町、高さ八十間長さ二十五間
那賀郡
波佐村 長さ五十間 下府村 三段歩余
江津村 幅三十間長さ七十間 伊南村 幅二十間長さ八十間
三隅村 約五十間 漁山村 幅二三間長さ百間
大内村 一反歩 雲城村 百坪
岡見村 幅二尺長さ百間 都川村 幅五六間長さ五十間
邑智郡
市山村 十五町歩 谷住郷村 六十余間
沢谷村 二三町歩 川越村 一町歩半
中野村 十二三町歩
邇摩郡
水上村 七町歩 大浜村 一町歩
温泉津町 七十坪
安濃郡
佐比売村 幾十町歩
飯石郡
東須佐村 八町歩
右の内邑智郡中野村獺越の山岳十数町歩の崩潰は石英粗面
岩の大塊衝撃発火して烟を放ち光景恰も火山を見るが如く
惨憺たりしと云ふ、邇摩郡に於ては右の外八代村に著しく
同村は大家高山より分派せる諸丘陵が北方高地より南部低
地へ崩落し本郷山田の二部落は全部、飯谷部落は半部余激
変し惨状を呈したるが為め同村の全部家屋の大部分は山の
崩壊せるが為めに潰倒せり即ち三十六戸中直接の震動の為
めに倒れたるもの僅に三戸山岳崩壊に依り全潰せるもの三
十三戸に達せり又大家村にては村内至る処に崩壊し就中柿
田部落は四囲の諸山崩落し谷より水を噴出し樹木の緑葉を
止むるものは稀に見ることを得たりし位なりしと云ふ、安
濃郡佐比売村の志学温泉は地震以前は余り高温ならざりし
も此地震の為めに高温となり且つ湧出量を増加せりとのこ
となり
土地の亀裂と噴出物 亀裂は各地無数に現はれ其多くは沼
湖河畔堤防道路或は山麓に沿ひたるものなりしが大なるも
のは一般に南北に裂け激震帯と交叉せるもの多かりき今其
主なるものを挙ぐれば次の如し
第十六表 主要亀裂線
町村名
方向
長
幅
那賀郡
浜田町
南北
一町
都野津村
南北
二町
三寸
波佐村
百間
美又村
東西
南北
三十間
国分村
南北
約一町
二尺
渡津村
南東─北西
三町
二尺
久佐村
一町
五六寸
松山村
南東─北西
二町半
二尺
有福村
南北
五六十間
四五寸
高城村
南北
五十間
二三尺
漁山村
南北
百間
一尺
邑智郡
市山村
(山頂)
北東─南西
二十五町
三尺乃至二間
川戸村
北西─南東
租式村
北西─南東
四十間
三尺
谷住郷村
川に沿い北東─南西
四五十間
六七尺
三原村
南北
一里
三尺
邇摩郡
大浜村
東西
一町
三四寸(一ケ月間湯溢出)
仁万村
東西
五六十間
二三尺
久利村
河畔
四十間
二尺
安濃郡
長久村
河畔
百六十間
二尺
佐比売村
山頂
南東─北西
四町
四十町
一尺─三尺
簸川郡
伊佐野村
十町
三寸乃至五寸
荒木村
大社ヨリ浜山駄越北西─南東
二十町
一尺
出西村
堤防
二百間
荒茅村
松山ヨリ大年
二町
三四尺
西浜村
南北
東西
八町
四十間
低湿地一間一尺
久 村
北東─南西
五町
五寸乃至一尺
久木村
南北
百間
一尺
高松村
南北
百六十間百二三十間
五六尺三尺
荘原村
新川堤防南西─北東
約一里
遙堪村
三十間
八間
飯石郡
西須佐村
川に沿い
四町
右の内簸川郡に於ては地層の軟弱なるが為め頗る多数を生
じたり今大小亀裂より溢出せる液体の種類を見るに水砂を
吐きたるは海岸地方に多く泥水を出したるは主として安濃
郡、江川畔地方、濁水を吐きたるは簸川郡の東部、邇摩郡
安濃郡の各一部、青砂を出したるは簸川郡西部にして其他
赤土黒土泥土等を吐き就中邇摩郡大浜村及び美濃郡真砂村
にては湯を吐き深層より来りたるものゝ如し又安濃郡鳥井
村川向と称する所にては濁水噴出して家屋の天井に達し簸
川郡灘分村にては塩水を含みたる濁水噴水すること三丈に
及び那賀郡上府村にては亀裂より濁水及貝殼を噴水し為め
に太気濛々たりしと云ふ今前記噴出物の種類を左に掲げん
第十七表 亀裂噴出物の種類
水砂を噴出せる地方
簸川郡 杵築村、荒木村、出西村、荒茅村、西浜村、出東村、江南村、
高松村 那賀郡 下府村、大麻村、浅利村、大内村、浜田松原村、
長浜村 邇摩郡 仁万村、宅野村 安濃郡 大田町、佐比売村
美濃郡 種村 邑智郡 川下村
泥水を噴出せる地方
簸川郡 朝山村、智井宮村、川跡村、灘分村、久村 安濃郡 長久
村、久利村、鳥井村 邑智郡 浜原村、川越村、吾郷村、川本村
邇摩郡 馬路村、大国村 那賀郡 国分村、三保村 美濃郡 真
砂村
青砂を噴出せる地方
簸川郡 神西村、布智村、久木村、荒木村、古志村
白濁水を噴出せる地方
邑智郡 都賀行村
湯を噴出せる地方
邇摩郡 大浜村
赤土砂を噴出せる地方
邑智郡 長谷村
単に土砂のみを噴出せる地方
安濃郡 波根西村
二酸化鉄を含める水を噴出せる地方
安濃郡 川合村
右の外大地震後土地に高低波状を印跡したるは安濃郡鳥井
村に於て砂質壌土の畑に波の高さ一尺、波長五六尺、波は
南北に亘りたりと云ふ
九 大震前後に於ける海水の状態
大震前後に於ける海水の変動状態を詳細に調査することは
頗る有益なる結果を齎らすところなれども事激震後に属し
狼狽せる当時とて充分なる資料を得る能はざりしは遺憾と
するところなり今各地の材料を綜合して地震前後に於ける
海水の概況を窺はん
大震約十五分前海水は邇摩郡五十猛村に於て約八尺、那賀
郡長浜村にて三四尺減少し同四五分前国分村及び浜田浦に
於て約一町許り減退(深さ七八尺以上)し邇摩郡湯里村に
て二尺余を減じたるに反し山口県見嶋に於ては同時刻頃約
四尺を増高したりしが間もなく大震動となり之と同時又は
後に邇摩郡西部より美濃郡鎌手村に亘る地方の多分に増高
を呈し邇摩郡に於て仁万村のみ一丈五尺を減じ大浜村福光
村福浦村湯里村に増高し就中福光村は一丈の高潮を呈し福
浦村は同六尺を示せり那賀郡に於て黒松村附近は海岸より
五十間(深さ約八尺)川波村は約三町減退したるも渡津村
は二三尺、都濃村は一尺増高し下府村以西美濃郡鎌手村及
び高嶋は概ね三四尺を増せり石見村後生湯にては震後六尺
増高し約二時間の後平水より七尺減退せり当時浜田の海岸
瀬戸ケ嶋北方海上にありて出漁の途にありし漁夫(本山吉太郎)の言に依
れば出発時は海水に別に異常なく該位置に達したるとき西
方海上に当り著明なる地鳴を聞くと共に震動し来り其の静
止したる後帰航せんとせしも海岸より沖に向ふ引潮となり
たるが為め之れに逆ひ三挺艪を以てせるも尚ほ流さるゝに
至りしが暫らくにして反対に沖より陸地へ向ふ流れを生じ
たれば無為にして瀬戸ケ嶋東側の部落へ帰着することを得
たり以降は一進一退して干満を繰り返せりと云ふ、浜田浦
にては震前海水著しく引退し約三町沖にある鶴嶋迄での海
底全く露出したるを以て人皆此嶋へ見物に行きしも後難を
恐れて直ちに帰りしが間もなく平水よりも増高し来りたる
後遂に大地震を発し浦の北側にありし漁船は潮流の為めに
数町ある浦の南部迄流さるるに至れりと以降は潮流一進一
退し小範囲的高低を呈せり其引退してより発震迄は往復時
間より考ふれば少くも六分以上の余裕ありしものゝ如し又
其南方青川附近にては震前の引退は不明なりしも震後約三
十間(六七尺)を引きしが後数日にして復旧せりと云ふ、
斯く各地共一進一退して平水に復したるは長きは福光村の
五日なれども多くは一日内外にて静止せり
要するに大震前後に於ける海水変動区域は邇摩郡那賀郡の
沿海に限られ大震前既に海底の変動を生じて其北西方沖合
に向ひたる流れを生じたるや明なり之が為め附近海底の圧
力変動と関連して最後の活動を演じたるものなるが如く見
倣さる、又大震後に起りし増減も普通海底地震に伴ふ現象
にして港湾の状態及び目撃の時期に依り高低区々なれども
一般に震前の退潮と関連して増加し来り多くは高低一丈以
下の津波的現象を起したる後数尺の増減を繰り返したるも
のゝ如し其周期に至りては驚愕の際とて孰れも判明せざり
き、兎も角も該現象は前記の地鳴発源位置と共に震源を海
底に取るべき有力の材料なるが如し、尚ほ当時は小潮時期
にして当地方の大潮の際に於ける干満差は約一尺九寸なり
十 大震以前に起りたる前徴的現象
大震以前に起りたる前徴的現象に就て里人は極光的現象を
以て只一の前徴となせども今日の科学進歩の程度を以てし
ては未だ容易に信じ能はざるところにして先づ指を地の鳴
動と大雪とに屈せざるべからず
地の鳴動 大震以前に於て地の鳴動を感じたること尠から
ず其早きものは安濃郡にして川合村にては大震一週間前よ
り西方に地鳴を聞き又同郡朝山村にては四五日前より同じ
く西方より二三回鳴動あり次に大震二三日前に至れば邇摩
郡馬路村簸川郡鵜鷺村にて西方に聞き更に大震当日の午前
中より聞き始めしは邇摩郡仁万村簸川郡久木村にして孰れ
も西方に当り久木村は午前十一時よりとあれば美濃郡高嶋
那賀郡渡津村邑智郡川越村安濃郡波根東村に於ける同時刻
の前震に伴ひたるものならん又大震前一時間半即ち午後三
時頃に至り美濃郡の北部なる種村、那賀郡中部地方及び以
東なる周布村渡津村久佐村、邑智郡の多分、邇摩郡南部及
び北東部なる大家村大屋村久利村、簸川郡平原部の中央を
南北に古志村高松村遙堪村、飯石郡中部を南北に赤名村頓
原村松笠村等に鳴響を感じ種村は北東方なるも六ケ処は
西、五ケ処は北西、二ケ処は南西方より感じたりと云へば
該鳴動は前記午後三時五十分の微震と同一のものにして頗
る広区域に亘りたるものなるべし更に大震より約八分前に
も各地に鳴動を感じたれども五十分前のものより遙に小な
りしが如し
要するに大震以前甚だしきは一週間前より既に微なる鳴動
を感じ更に二三日前並に午前中に至れば前より可なり広区
域に亘りたるものあり更に一時間半前に至れば頗る広範囲
に拡がり石見の大部分より簸川飯石の二郡に迄で及び又八
分前にも各地同様の鳴動を感じ遂に午後四時三十九分の大
地震となるに至れり今鳴動感覚区域を見るに大震前一週間
乃至四五日前に於ける西方よりの鳴動は安濃郡附近に限ら
れ二三日前よりのものは邇摩郡より簸川郡に拡がりしも那
賀郡方面に於て之れを感じたるもの皆無なりき若し此配布
状態が鳴動範囲の実状を現はすものとすれば数日以前に起
りたる鳴動の根源は安濃郡地方に多く接近せる位置にあり
しものと認めらるべく又午前十一時のものに至れば西は高
嶋に、南は川越村其他安濃郡簸川郡の各一村に於て感じた
るを以て前より著しく広区域となりて其範囲は西方へ伸張
せり更に三時五十分の微震に至りては那賀郡以東は勿論美
濃郡の三ケ村に於ても感じたる所なるを以て大震時刻に近
くに従ひ漸次其勢力と頻度とを増加せるものと認めらる
以上の前徴的地の鳴動は啻に海底のみならず別に陸上の最
激震帯の各所に於ても発現したるが故に若し今日の如き整
備せる器械観測を以てすれば顕然たる前徴的地変を発見し
得べかりしものならんと信ずるなり
顕著なる降雪 気象が地震の副因をなすや既に定論あると
ころにして本地震に於ても其発震以前に異常の降雪を認め
たるを以て此処に其大要を記さん
降雪は出雲の簸川郡南部の山地及び飯石郡に於て明治四年
十一月中旬頃より始まりしも他は概ね十二月末より現はれ
一月五日或は六日夜より七日に亘りて最も著しく其最深度
は美濃郡沿海附近に於て皆無若しくは一二寸を示し安濃郡
沿海地方より邇摩郡東部に亘る地方並に邑智郡の川戸地
方、飯石郡松笠村に於ては五寸乃至一尺五寸に過ぎざりし
も他は孰れも二尺以上に達し那賀郡に最も著しく三四尺に
及べり之れを例年中の最深度に比較すれば美濃郡、邑智郡
北半、安濃郡、飯石郡に過少にして松笠村の如きは二尺の
不足なりしも其他の地方にありては孰れも一尺以上の過剰
を呈し就中那賀郡及び邇摩郡の各沿海地方並に簸川郡北半
に於て二尺以上の過多を現はし未曾有の状態にありき又大
震当時は石見の奥部地方の外は孰れも積雪なかりき
斯く顕著なる降雪は大震より約一ケ月前に簸川郡北部及び
邇摩、那賀二郡の沿海地方に最も著しかりしに反し石見の
南西部及び東部に於て割合に軽度なりし事より考ふれば附
近地殼に不均衡なる圧力を与へしや明なるを以て之れが本
震発現に一つの副因をなしたるものと認めらる(第四、五
図参看)
第十八表 主なる地方の積雪表
地名
降雪期間
最深度
程度 例年最深
例年最深との差
大震当時積雪有無
美濃郡
高津村
正月に最も著し
二寸
普通 二三寸
少一寸
無
真砂村
─
一二尺
少一二尺
無
道川村
四尺
普通 四尺
─
有
那賀郡
浜田村
三尺
未曾有五六寸
多二尺四寸
三保村
前年十二月末より正月に亘る
三尺
未曾有五寸
多二尺五寸
無
都濃村
四尺
未曾有一尺
多三尺
長安村
前年
一二月末─一月
四尺
稀有 二三尺
多一尺五寸
有
雲城村
同
十二月末より
三尺余
未曾有一尺─一尺
五寸
多一尺五寸
有
国分村
一尺五寸
未曾有二三寸
多一尺二寸
和田村
正月─三月
三尺
普通 二尺
多一尺
無
邑智郡
田所村
十二月末─一
三尺
多 二尺
多一尺
有
川戸村
十二月二五日十一月上旬
一尺二寸
普通 一尺五寸
少三寸
無
租式村
一月上旬─下旬
二尺
普通 三尺
少一尺
無
中野村
二尺
邇摩郡
福浦村
正月六日夜─七日
三尺
未曾有四寸
多二尺六寸
無
久利村
前年十二月末─一月
一尺
稀有
五寸
多五寸
無
安濃郡
鳥井村
五寸
普通
五寸
─
無
富山村
前年十二月末─正月
八寸
普通
八寸
─
無
飯石郡
頓原村
十二月中旬─三月上旬
二尺五寸
少
三尺五寸
少一尺
無
松笠村
十一月下旬─三月下旬
一尺五寸
少
三尺五寸
少二尺
無
簸川郡
四纒村
正月六日─七日
三尺七八寸
未曾有
一尺内外
多二尺七寸
有
神原村
十二月中旬─二月上旬
二尺三四寸
普
二尺
多三四寸
無
極光 里人が所謂大震前兆と唱へつゝある現象は明治四年
十二月二十六日夜(太陰暦)石見の北方広区域に亘り恰も
遠地の大火を眺むるが如く空一面赤色に焼け亘りたるを観
望したる事にて当時相互の顔を明瞭に認識し得る迄明かと
なりしは勿論樹木の如きも判然と分別することを得たりと
云ふ、松山村にては三大火柱現はれたりと称し、波佐村に
ては北西方に、周布村にては初め北西方にありしも深更に
至り北方へ移り、浜田町にては翌日午前二時頃北方に現れ
たる後東方へ移動し、都濃村にては午後九時より北東方よ
り北西に亘れる約二里の海上に帯状をなして現はれ津和野
町にては同午前三時頃より現はれたりと云ふ、該現象は極
光としては余りに低緯度なるやの感あれども明治四十二年
九月二十五日より二十六日に亘れる大極光は本州は勿論四
国に於ても観望することを得たりしことより考ふるも稀有
の北極光にして之れと略同程度のものと見做すことを得べ
し其間三十八年の距りを有し之れが里人の云ふが如く果し
て大地震の前兆なりしや否は今日の科学進歩の程度を以て
しては未だ説明し能はざる所なるも此所に参考迄に記載す
べきは前記明治四十二年の極光は同年八月十四日に近江地
震の起りたる後一ケ月余にして現はれ又本地震に於て極光
は一ケ月余前に現はれたることより考ふれば該程度の地震
と顕著なる極光とは其発現順序は兎も角相伴随して現はれ
其間何等かの関係あるに非ざるやと迄考へらるゝところに
して強て一笑に附すべきものにも非ざるべしと考ふ
十一 余 震
本大震後に起りたる余震は頗る多かりしが為め人心恟々と
して震後三四ケ月に至るも尚ほ仮家を設けて之れに起臥せ
る地方もありて日々大小二三十回宛震動したることは各報
告に見ゆるところなるも具体的なる統計数に至りては遺憾
ながら発見することを得ざりし、本地震の状況を記載せる
震譜に依れば余震は翌年十月頃迄継続せりと云ふ、今最も
詳細なる手記を掲げて其一般を窺ふことゝせん
第十九表 伊南村大字後野に於ける余震概況
(岡本甚右衛門氏筆記)
大震後は毎日昼夜二三十回宛震動す
同月十四日頃より時々稍強きものを混じ為めに戸外に出づること屢な
り同十七日午前四時頃稍強きもの一回
同十九日午前一回午后に一回に小震動
同廿日朝稍強きもの一回
其の後小震頻りに起り三月廿日頃より追々其の数を減じ一日十回計り
となる
三月廿三日頃より一層其の数を減じ四月一日頃より昼夜に六回位とな
る
同十二日午前六時強震一回
五月二十日頃より昼夜に二三回となる
六月二日には終日震動なし
翌三日より又々一二回宛震動
同月六日地鳴は聞ゆれども震動なし
同七日八日震動なし
其の後同月十二十三日頃迄は毎日数々小震ありて止む
越江て八月廿日より再び震動を始め毎日一二回づゝ同月十九日に至る
九月二日夜微動一回
同三日午前八時同上
同五日午前十時同上
同六日小震二回
同七日震動あり
同八日夜一回
同九日午前六時一回
其の後毎日一回位の割合に震動し
同廿一日より廿三日迄の間は震動せず
同廿四日午前六時頃稍強きもの一回
同廿五日午前四時同上
同廿八日午前八時頃同上此日日没迄に五回其後二回
同翌廿九日には震動なかりしも其後は又々日々小震絶江ず
十二月十四日夜二回
同月十五日三回
同月二十日頃より翌明治六年正月五日迄は震動なし
正月六日午前九時稍強き震動あり引続き二回
同月七日午前八時頃小震二回それより同月二十四日迄なし
同月二十五日夜中頃小震あり引続き三回
同月二十七日午後二時小震一回
二月一日午後二時小震一回
同七日午後には稍強きもの数回
其後四月頃迄震動絶へず
四月二十日頃より五月十二日頃迄震動なし
五月十三日午後八時頃より同十七日迄の間数々あり同十八日よりは一
日一回位に減ず
六月中にも度々震動し閏六月中にも五六回あり
七月二十三日昼稍々強きもの一回其後追々減じ十一月頃より翌明治七
年正月十八日迄は震動なし
正月十九日一二回
同二十日午後稍々強きもの二回
其後毎日小震動絶江ず二月十日頃に至りて止む
十二 歴史地震と地震帯
歴史地震の調査は一見甚だ迂愚なるかの如き感あれど其実
地震帯を攻究する場合に其だ緊要なる事柄なり換言すれば
之れに依り将来起るべき地震の時と場所との配布の概要を
予察し得る塲合些からざるべし依て今本地震以前に本県附
近に起りたる地震を調査して聊か当地方地震の配布状態を
窺はんとす
山陰の地たるや九州北岸より長門近海を経て石見に入り東
方加越地方へ達する白山火山脈に属し石見の青野山三瓶
山、伯耆の大山の如きは該帯中其著名なるものとせり而し
て是等の裏日本西部地方に於て過去に起れる地震は概ね該
火山脈附近に沿へる帯状的地方に於て発するを以て該火山
脈と並行的地震帯の存在を唱江られつゝあるところなり従
つて我島根県下の石見出雲地方の如きも該帯に属すべきこ
と勿論なり、今回得られたる明治五年以前県下に起りたる
地震を挙ぐれば概ね次の如くにして其多数は当地方に特発
せるものなり又同一地震を一ケ年乃至数ケ年誤想して報告
せしやの疑あるものは可及的に修正を施し之れを一地震と
して掲げたり
第二十表 明治五年前百九十年間の著明地震
西暦年
本邦年号月日
著明地方
有記録地方
備考
一六七八
延宝四年六月二日
津和野
津和野
一七七七
安永七年一月十八日
波佐
波佐
一八〇八
文化五年十一月二日
美濃村
美濃村
一八一七
文化十四年十一月二日
鎌手村
東仙道村
鎌手村
東仙道村
一八二八
文政十一年十一月
朝山村
朝山村
一八五二
嘉永五年十一月
飯石郡西方
郡界
鳥井田井
出西各村
鳥井村二三戸潰倒田井村五年のものより強
一八五三
同 六年十月
塩冶村
塩冶村
五年のものより強
一八五三
同 六年十一月
西浜村
西浜村
五年より稍々強
一八五四
安政元年十一月四日五日
東海道四国近海
窪田波佐漁山国富二條の各村
一八五五
同二年一月十八日
那賀郡中部
波佐漁山の各村
一八五七
同四年五月十八日
同右
同右
一八五七
同四年十一月五日
大麻村
大麻朝山宅野の各村
一八五八
同五年八月二十五日
那賀郡中部
波佐漁山の各村
一八五八
同五年十二月二日
石見南西部(美濃匹見波佐)
畑迫匹見下東仙道波佐美濃鎌手漁山窪田
美濃村潰家十戸匹見下波佐山岳崩壊発火畑迫五年より強
一八五九
同六年九月九日
那賀郡西部
波佐漁山大内周布窪田浜田
波佐山崩周布潰家あり大麻釣釜外に水溢出浜田潰家なし
一八五九
同六年十月十一日十六日
漁山村
漁山村
一八五九
同六年十二月
鎌手村
鎌手村
右の内安政元年十一月の大地震は東海四国の余波なりしも
他は総て当地方附近に起りたるものなり、即ち記憶又は記
録に残れる明治五年以前約百九十年間に本地方に発したる
地震は約十六回を算ふるに至りたり然れども右の内安政年
間前のものは記録のみによりたるものなれば記憶及び記録
に依りたる同以降のものよりも粗略なるを免がれざるが故
に本調査は単に其概要なることを忘るべからず
以上の期間に於て津和野地震を最初の著明なるものとし其
後百年間は著しきものを見ざりしが安永七年一月十八日に
至り波佐地方に強震を発し三十年後なる文化五年十一月二
日に美濃郡西部、同十四年十一月二日同郡東部に現はれた
り(右二地震は月日同一にして単に年を異にせるを以て或
は年数の誤算にあらざるやの疑あり)即ち前記百四十年間
に於ては主として石見の南半に発現して東漸的傾向を示せ
り夫より十一年を経て文政十一年十一月に至り発震方面を
変じて出雲西部地方に現はれたるを始めとし嘉永五年十一
月飯石郡西方郡界附近(三瓶山附近ならんか)に発し安濃
郡鳥井村にては二三戸潰倒し飯石郡田井村にては明治五年
のものよりも強勢にして簸川平原にも及びたり又同六年十
月には塩冶村地方、十一月西浜村地方に発し該地方に都合
四回の強烈震を起せり然るに其後発震方面を変じて石見の
那賀郡中部に現れ安政二年一月十八日波佐村漁山村地方に
発したるものを始とし同四年五月十八日にも同一地方に、
同年十一月五日大麻村を主として遠く邇摩郡の宅野村、簸
川郡の朝田村にも感じ翌五年八月二十五日には波佐漁山地
方に起り同年十二月二日には美濃郡西部より南部、那賀郡
南部に亘り烈震を発し鹿足郡及び那賀郡の其他の地方も震
動して遠く簸川郡窪田村に及べり次に翌六年九月九日波
佐、周布の二村に烈震を起し周布村は潰家ありしも浜田は
潰家なく又窪田村に迄で及べり其後同年十月漁山村に、十
二月鎌手村に発震せしも左程著しからざりしが如し
右の如く当地方に於ける発震位置の一般的配布は最初の百
五十年間に石見西部にありて約四回を起し後出雲西部に移
り二十五年間に約四回を発し後再び那賀郡中部地方に来り
五年間に又約四回を数江、其後二ケ年間には石見西部の前
記八回の地震に洩れたる地方に発現すること四回而も強勢
にして其頻度を増加するに至れり故に百九十年間に於ける
地震発生地は大体二区域にして石見西部殊に周布川附近以
南より鹿足郡北半に至る地方を最も著明とし出雲西部之れ
に亜げり、而して該期間に烈震と見倣し得べきが如きもの
約四回ありて其配布は安政二年より同五年八月に至る期間
の発震位置たる那賀郡中部の北西部地方に於てのみ之れを
見ざりしも他の時期的各集団区域に於て各一回殊に最後な
る安政五年十二月二日以降同六年迄の僅々二ケ年間に於て
頻々として毎年一回の烈震を起すに至れり
斯く石見西半部地方及び出雲西部地方に於ては既往百九十
年間に於て頻多に地震を発したるに拘らず石見東半及び出
雲中部以東は全く静穏にして一回の記録だも見ざる配布上
の顕然たる変化を現はせり換言すれば既往百九十年間に於
て石見西半及び出雲西部の地盤は安定状態に向つて長期間
に逐次歩を進めたれども石見東半及び出雲中部以東は之れ
に向つて余り運動を起さず所謂大震を発すべき危険状態に
ありしこと明かなり又其内著明なる四回の地震の配布状態
のみに就て考ふるも第一津和野の大震を起したる後石雲国
境附近(充分強勢なりしと認め能はざれども)に来り亜で
美濃郡東部(或は同郡近海)に発し翌年周布川と三隅川の
間にして海岸より余り遠からざりし内地に現はれたるが故
に其一般的推移状態は北東に向ひたることを知るべし、斯
くの如き発震状態と前述の石見西部に起りたる地震が最も
良く出雲西部地方へ感ずべき事実とは当地方の地震帯が仮
りに単純なるものとすれば大体同一方向に亘れるものと認
めらる、更に之れに本浜田地震を附加して考ふるときは一
層其釈然たるものを得るに至るべし、又明治五年以降本県
附近に現はれたる強弱震の震源位置を見るに其多分は前記
二区域の附近に位置する外は石見近海、見嶋近海、宍道湖、
雲伯国境地方に起れり故に是等のものをも加へて広区域に
於ける発震場所の範囲を考ふるときは見嶋附近の海底より
石見近海、石見の陸地出雲の陸地及び伯耆に達する一帯即
ち略ぼ石雲二国の海岸線に並行せるものと見做さる
更に一歩を進めて幾分詳細なる配布状態を揣摩するに見嶋
附近より石見近海へ亘りて強弱震を発する事多く且つ本地
震の前震の一つが高嶋渡津村川越村波根東村に帯状をなし
て感じ又其以前に石見西部若くは其附近に発したるものが
能く簸川郡南部に感ぜる事実よりして一つの弱線は見嶋附
近より石見西部の近海を経て石見東半部の内陸、出雲中部
以北へ略ぼ東西に亘れるものゝ如く又津和野激震後石見南
西部より北東方へ亘り強烈震を発したる一群は其東端に於
て右の弱線と会合する事の外長門石見西部の海岸附近に発
するもの稀且つ此処に見嶋方面のものを著く感ずべしと認
むる事実なきを以て其間直接関係なきが如し故に両弱線の
本支的関係は兎も角本県下の地震帯は大体Y字形をなすが
如し其接合位置に就ては本地震の激震帯の南部が原動力の
働きたる線よりも著しく偏南し漁山井野村方面へ枝杖突起
を現はせる事実の幾分は其接合状態を意味するものに非ざ
るか是等の研究は将来に俟たざるべからず右の外卅八年六
月瀬戸内海中部の烈震及び其余震が著しく美濃郡南東部に
感じ或は其附近に発現せし者の震央を連ねたる略ぼ南北に
亘れる一弱線あるに非ざるやを想はしむるが故に石見西部
は地震頻多且不規則なるを免かれず。斯く主要弱線位置を
推考する事に依り本地震は見嶋近海より来れる帯上の浜田
近海に発したる事を知り其震央が内地にあるが如く見ゆる
は内陸帯上の極めて不安定なりし部分が前記の発震に刺撃
(ママ)されて著き勢力を以て発動したるものに非ざるなきか要す
るに津和野地震と本地震とは一地震帯に於けるものと見做
す事を得るが如し
今右の大体の推考に基き本県下に於ける大震の配布状態を
考ふるに津和野附近は延宝年間の大震の為めに安定状態と
なり前述の石西地方と雲石国境附近は強烈震を起して幾分
安定状態に向はんとしたるも石見中部以東は百九十年間は
勿論其以前に於ても著明地震を見ざりしが故に該地方は出
雲中部以東と共に不安定にして其多数の年間に鬱積せる力
が安政六年九月九日の烈震より稍々距りて十三年目なる明
治五年二月六日に至り遂に石見の前記地方全般に亘りて発
動し此処に石見西部と出雲西部との間に於ける一つの既震
帯をなせり此顕著地震に依りて石見中部以東は安定状態と
なりたるが為め其後本県下に起りたる弱震及び強震は当時
震度比較的強勢ならざりし三瓶山附近及び飯石郡西半地方
に現はれたる外は全く該激震区域を冒さずして多数の小地
震を以つて安定状態に向はんとしつゝある石見西部石見近
海並に出雲南西部及び北部、雲伯国境附近に現はれ出雲中
部附近のみは尚ほ静謐状態を維持せり、故に今日に於て石
見中部以東換言すれば今回の主なる震域地方は雲石二国中
最も安定にして石見西部之れに亜ぎ出雲西部又之れに亜ぐ
も出雲の他の地方に於ては嘗つて宍道湖に二回の強震、雲
伯国境に二回の弱震を起したるのみなれば二国中最も不安
第一図
各地最大震動方向
主なる上下動区域の中軸
水平歪力の働きたる線
地鳴中心と震央
第二図
全潰家屋の配布
総戸数に対する百分率
第四図
一月六日前後の顕著積雪
例年中の最深度との比較
第五図
一月六日前後の顕著積雪
定にして若し該地方に於て将来顕著なる地震を免かれん為
めには数多の強震を頻発せざるべからざるところなり以上
は主として浜田地震より遡り百九十年間に於ける地震の場
所に関する配布と其の後に於ける小地震とを以つて当地方
の地震帯の状態を論じたるものなれどもその時に関する配
布に就ては当大震以前に於て小地震が年を加ふるに従ひ頻
度を増加し遂に本地震となりし時と頻度の増加状態の如き
は充分なる材料たる能はざるも只該期間中著明なりし津和
野地震と本地震とに就て考ふれば顕著地震が該地震帯上を
約二百年の周期を以つて未発部分に発するものにあらざる
なきやを想はしむるところなり要するに時の配布は場所の
配布の如く明瞭ならざるは遺憾とする所なり
十三 結 論
明治五年二月六日の浜田地震に関し古老に就て得たる事実
を夫々分類して之れに幾分の地震学的見解を加江て得たる
以上十二項に亘れる事柄の概梗を結合して本調査の結論と
なすときは該地震は一ケ月前先づ那賀郡邇摩郡の各沿海地
方並に簸川郡北半に於て未曾有の大雪を降せる気象の異常
現象を起したる後発震約一週間前より石見附近の海陸に鳴
動を発し漸次強勢となり数分前に至り海底の変動の為めに
退潮を現し遂に午後約四時四十分浜田の西北西方に当り顕
然たる地鳴を発して発震するに至れり、烈震区域は約百四
十方里に達し死者五百五十人を算江負傷者と略ぼ同数にし
て全潰家屋四千三百二十余戸を出し其総戸数に対する割合
は震災地たる浜田町の三十四%を最大とし(之れに相当す
る最大加速度は三千七百粍)郡別に於ては那賀郡に最も著
しく十二%を示し邇摩郡安濃郡相亜ぎ邑智郡に至れば四%
に減ぜり、死者一人に対する負傷者の割合は恰も庄内地震
に於けるが如く又同じく全潰家屋の割合は七戸半に当り前
記地震よりも死者の割合稍々少かりき、激震区域は那賀郡
井野村より北方浜田附近を経て伊南村に及び更に川戸村よ
り北東方君谷村の北西部に達せる概ね石英粗面岩の地方に
して約十五里に亘れる一つの帯状を為し其西端は海岸線に
接して強勢なるも東端に至れば海岸より約四里の距りにあ
りて勢力著しく減退す更に家屋潰倒方向、墓標等の顚倒方
向、液体の溢出方向、物体の移動方向並に感覚等に依りた
る最大震動の方向中地質の相異より特に著しき変向を起し
たりと認めらるゝものに大体の補正を施して其一般配布状
態より水平歪力の働きたる線の位置を考ふるときは那賀郡
北部邇摩郡、安濃郡、簸川郡の最大動方向は東乃至南を示
し該区域の西部は東方を指すもの多きも東進するに従ひ南
方へのものを増加す然れども其他の地方に於ては之れと反
対に概ね北へ向へり故に北部地方の方向は南部地方に比し
偏東的特性を有すれども一般に両地方に現はれたる反対方
向の力は其境界なる主として浜田、石見、伊南、美又、長
谷、市山、川戸、谷住郷、八代、三谷、祖式、水上、君谷
の各町村を連ねたる線に向ひ且つ該線附近の諸所に之れと
並行せる震動を現はし是等地方の多分は石英粗面岩よりな
る且又該線は前記の激震帯及び主なる上下動区域の中軸と
も略ぼ一致せるが故に之が本地震に於ける原動力の働きた
る線なりと認めらるゝところなり、尚ほ該線が海底へ延長
せし事は地鳴が浜田の西北西方四五里の海底に起り之れが
反響的ならざりし事確実なると発震前後に海水が津浪的現
象を起し震後上下動区域内の海岸の隆没を実見し殊に該線
附近に著しかりし事実に依り明かなり
斯く本地震に於ける水平歪力の働きたる線は浜田附近に於
ては東西に亘れるも西方は海底へ東方は内陸へ向ひ共に漸
次北西或は北東方へ変向し恰も大なる一つの円弧なるかの
如き形状をなし其震央は邑智郡北西部若しくは浜田以西の
激震範囲に撰ぶを適当とするが如し然るに前者とする理由
は主として地盤の堅固なる地方に於て割合に強勢なりしこ
とゝ地鳴の強度なりし事を論拠とするも祖式附近一帯は安
山岩と石英粗面を以て囲まれたる第三紀層の地方なるを以
て震度の割合に強勢なりしは当然なり又地鳴の強勢なりし
ことは地形複雑せる山間地に発せし証跡たるが如きも前述
の如く該中心は浜田近海にありて反響的ならざるが故に其
位置に於て著しき相異あり勿論地鳴中心と震央とが必ずし
も一致すべきものとして論ずる事を得ざるも那賀邇摩二郡
の海岸に於て発震前海水に著しき減退を起し長浜村より国
分村に亘れる海岸地の土地は三四尺の隆没を現はしセイシ
ユを起すべからざるが如き地形にある那賀邇摩二郡の一般
海岸及び遠き見嶋に迄で小津浪を起したるが如きは普通大
地震の際震央を中心として附近の地方に現はるべき断層的
陥没を浜田近海の海底に起したるものと認むる事を得べし
尤も陥没が該地方のみならず線に沿ひて内陸地方にも幾分
現はれたるが如しと雖も如上の広大なる区域に亘りたる海
水の変動より見れば該現象が海底に於て其多分を占めたる
事を推考し得べきが故に震央は浜田近海の海底に於て前記
地鳴中心と略ぼ一致したる位置にありしものと信ぜんと欲
するところなり
尚ほ本地震を最近の著明地震たる明治四十二年八月十四日
の近江地震に比較するに烈震区域は略ぼ同一なりしも被害
程度に至りては全潰家屋数に於て約三倍、死傷者に於て約
二倍の多きに達し其急性なりしこと庄内地震に近似し近江
地震より卓越せり但し発震当時は晩餐準備時期なりしが為
め家内にありし者多く且つ火災を多からしむるに至れり、
之れを以て考ふるに本地震は頗る強烈なりしも地盤の堅固
なる地方に起りしが為め夫れ丈けの被害を見るに至らざり
しところにして其強度は近江地震の約二倍に相当せしも
のゝ如く考へらる
本地震前百九十年間に於ける地震は津和野激震を最も顕著
なるものとし発震地は自ら二区域に限られ第一は石見の周
布川附近以南の地方にして此処に最も多く強烈震を発し且
夫れが最も良く出雲西部に感じ第二は出雲西部地方にして
頻度並に震度共前者に劣れり然るに石見の他の部分及び出
雲中部以東に於ては静謐にして一回の記録だも見出し能は
ざりしが明治五年二月六日に至り極めて不安定なりし前記
石見の中部以東の地方全体に亘り遂に本激震を発して全く
安定状態に運びたり故に其後の強弱地震は該区域以外の諸
所に起り只出雲中部以東の地方のみ尚ほ極めて静穏なり斯
く本県の地震は石見西部の海陸と出雲の陸地とに於て関連
的状態を有し海岸線に並行せる地震帯の一部を形成せるも
のゝ如く考へらる故に裏日本西半部地方の地震位置により
該地方の地震帯は一班(ママ)に白山火山脈に沿ふものゝ如しとな
す説有力なるが如し而して本県附近の配置と地震帯とを尚
ほ詳細に考ふるときは見島附近より石見西部の近海東部内
陸及出雲へ達するものゝ外津和野地方より那賀郡中部にて
前帯に連接するもの並に内海中部より北上するものあるに
非ざるやを憶測し能ふところなれば石見西部の陸地に於け
る地震は概ね是等に属するものならんか果して本説の如く
ならば其接合位置と今回の激震地との関係を研究する事は
頗る興味あることなるべしと信ず