[未校訂] 明治三十五年、二俣東福田の保理藤洗氏(故人)が書
きのこした「温故叢談」に、文久元年(一八六一)辻堂
町の災害に関係して次のことが書きしるされている。
要約すると、
六月ごろ虫の害がひどかった。さらに秋の実のりの
最中にひでりになり、稲作は五、六分通りの作柄の状
況となった。その上九月には大地震となり、川筋通り
にある辻堂町は被害が大きく、丸つぶれ家一軒、つぶ
れ同様は二軒、厩四軒、そのほか多数の家屋が大曲り
になった。この家直し等にすくなからず費用がかかり、
莫大の人夫を要し、広大な損害を蒙った。
御上よりいろいろ御手当もあり、材木の御払い、村
備えのことについても御願い申し上げ、御吟味中では
あり、更に手厚い御世話もいただき、一統有難い仕合
せと思っている。
ようやく稲[扱|こ]き[挽|ひ]き等にかかったら、過る朔日より
昼夜三日大雨になり、北上川が大増水し、山水も沢山
押し出し、窪地(堤防の低い所)は二尺・三尺ほど惣越えとなり、数十
ケ所欠け崩れ、危くなり、村・町(大森村・辻堂町)惣がかりで防いだが、
ますます増水の勢が強くなり、ついに大森村沖大川前
の土手が十三間ほど押し切れとなった。それでも人馬
に怪我はなかった。辻堂町の人家は縁板(床上)へ二尺三尺ぐ
らい水が押し上げたので、町裏へ小屋掛けをして六・
七日の間野宿をした。
稲は濡れ稲となり、また流失し、[村役付|むらやくつき]が立合って
見分けた。濡れ稲の分は二万ほどの[調高|しらべだか]である。物こ
ぼれも多く、米納の見当がつかないから、御憐愍の御
吟味をもって、辻堂町の御石上納は金納に成し下され
たく、[水痛惣|みずいたみそう]百姓中願い申し出があるから、拙者ども
連名をもって此の如く願い上げ奉る。
文久元年十一月
桃生郡辻堂町組頭中
善右衛門
とある。辻堂町は、虫害・旱害・大地震による災害・水
害と、たて続けに大きな災害を蒙っている。
飯野川仲町山崎家(現主博氏)所蔵の年々暦にも、文
久元年九月十七日に大地震があって家々がいたんだこ
と、十月二十九日には、五十五人の堤防・柳津大堤の土
手が押切れ洪水になったことが記録されている。