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項目 内容
ID J1100138
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1828/12/18
和暦 文政十一年十一月十二日
綱文 文政十一年十一月十二日(一八二八・一二・一八)〔中越〕
書名 〔与板町史〕○新潟県
本文
[未校訂]○十一月十二日
 三条地震と呼びなれた大地震があった。『長明寺過去
帳』にのこされた当時の記録には、
 十二日五ツ時(午前八時)頭上ニテ雷ノコトキ鳴リ渡
リ、世界中[胴|ドウ]ブルヒノ音イタシ山モ崩ルゝ如キノ大地震
ニテ御堂庫裏トモ大イタミ、戸障子カラ紙微塵ニナリ、
慶宗寺御堂庫裏大イタミ、柱数十四本折、殿様御殿ハ勿
論、御屋敷御長屋イタミ、町中ハツブレ家三百廿軒はか
り、半ツブレ百軒ハカリト申事、御上より御慈悲トシテ
町中一同へ御タキダシ十日バカリノ内、南ハ七日市村ノ
辺より北ハ大川津村辺まで、西ハ乙茂村辺より東は栃尾
まての内ハ別して大変、長岡モ大地震ニ候へ共、是ハ御
城下ハ無難の様子、去リ乍ラ長岡領北組下河根組ハ大乱
惣ツブレ、三条町ハ地震後大火、御坊所ハ別して丸焼、
五尊(ママ)まで焼申候由、此度の地震ニテ三条町残らず丸焼、
今町見付町モ地震後出火ゆえ是も丸焼、当所(与板)モ
横町東ノ片町五七軒モ焼、いなり町新屋敷残らず焼申候、
当所ニモ焼死五六人、地震ニテ死去イタシ候人三四十人
位と申事、其外怪我人ハ数知れず、三条町ニテ死人数凡
千人アマリ、その外市日の事ゆえ他所他村の人死候事ハ
数知れず、長岡領北組ニテ凡七八百人ト申事、此度ノ大
変ハ第一番三条二番見付町三番今町四番ツバメ町五番与
板と申事、マコトニ前代未聞の大地震ゆえ、六七里四方
ノ内ニテ凡一万人モ死人コレアリ候様子、十二日より昼
夜とも折々地震ニテ今十二月二日ニモ相ナリ候へ共、今
以テ折々コレアリ、マコトニ往昔ヨリ例コレナキ大乱、
其上今年ハ悪作ゆえ米直段も秋頃より五斗ニテ金弐分よ
り弐分一二百文位の直段ゆえ、人機も穏ならず、甚だ大
困窮の上大乱ゆえ世上一同ツマリ候。とあり、同寺門徒
の惨死者与板七人をはじめ十五人を記入して居る。
 その後「文政十一子年十一月十二日地震ニ付」与板町
の被害状況を戸別に詳記した地図が発見され、それによ
ると焼失十七かまど、潰れ家二百六十三かまど、半潰れ
九十六かまど、大破四百八かまど、土蔵潰れ十、土蔵破
損九十一、潰れ家焼失一軒、潰家一軒、即死三十四人、
怪我人百十八人、神社破損なく、寺庵大破九軒、社家大
破二軒となって居り、横町安永舟戸方面が殊に甚しく、
殆ど総つぶれの惨状を呈して居る。なおこの地図は被害
状況のほか、町家全部を図示して居るから、当時の軒別
を知るには貴重の資料である。(注、本書五三八頁参照)
○十二月
 信濃川筋の欠潰甚しく、既に文政八年にも国役普請を
願出たのであるが、殊に当十一月十二日の大地震にて「堤
形大半裂け、内割れ候口幅五六尺から三四尺、其上地中
へめりくぼみ、中には一向堤形もこれなき体の所もこれ
あり」少しの出水にも土堤切れを免れぬ状態であるから
この際速に国役普請で修繕をしてほしいと、[目論見|もくろみ]帳一
冊粗絵図一枚を附して願出た。
「その上私共村々此度の地震にて住家皆潰れに相成
り、[夫食|ふじき]農具まで失い、殊に当年は越後国一統凶作に
て百姓夫食の雑穀[払底|ふつてい]のところ急難に逢い、当日たた
ずむ場もこれなく雪中路頭に迷い候体、未だ仮小屋も
取り繕い兼候者の飢寒凌ぎがたく、此上水難にあい候
はば村々大勢の百姓餓死仕り候外御坐なく候」
と、切々その窮状を訴えて居る、これは末宝松ケ崎中野
西等の川東五ケ村からの陳情である。
文政十二年
○前年の大地震にて被害をうけたものに籾、惨死したも
のに銭の手当をしたが、その額は本与板七十二俵、中村
六十七俵、槇原五十一俵、吉津十俵、蔦都十二俵等を初
めとして郷中合計七百三十四俵、銭六貫五百文となった。
出典 新収日本地震史料 第4巻 別巻
ページ 535
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 新潟
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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