[未校訂] 雲仙嶽の大爆発 寛政三年(一七九一)十月八日に起
きた地震は、しだいに回数を増し、十一月十日ころには
激震となり、翌年正月に入ると、山が頻りに鳴動し、落
雷のようになった。正月十八日の夜中十二時ころに、大
音響を発して大噴火を起こし、二月九日には熔岩を噴出
した。この光景をみた住民たちは、驚き不安におののい
た。
その後小休止状態に入ったので、住民たちは安心し、
逆に噴火と熔岩を、見物に出かける有様であった。付近
には、にわかの茶小屋が作られ、歌謡三弦が鳴るほどで
あった。藩も禁止令を出すほどに盛況であった。しかし
それは嵐の前の静けさで、まったく知らぬが仏の農民た
ちであったわけである。
三月に入ると、今までとは違って大砲のような音が山
から海へ、海から山へと響きわたり、眉山がうなり出し、
日に三百回も地震を数えるようになった。各地に一尺ほ
どの亀裂・断層ができかかった。
四月一日午後七時ころ、ついに大爆発を起こし、眉山
の前半分が頂上より麓までさけ、前の有明海に突入した。
山からは山水が溢れ出し、海は津浪となった。城下島原
町は全滅した。逃げまどう住民の姿は、地獄絵さながら
であった。藩主忠恕も、この災害の苦慮からついに病を
発し、守山村の仮寓で亡くなるありさまであった。
この大爆発によって受けた損害は、幕府への報告書に
よると別表の通りである。島原町の約半数におよぶ一万
余人(一説に一万五千人)が死亡し、『島原大変記』には、
出雲神話の国引きにたとえて物語っているほどである。
この大噴火は、島原のみならず、海を隔てた肥後国に
も多大の損害を与えた。流死人四千六百余人、流潰住居
二千二百余軒という状況で、島原領にも劣らぬほどであ
った。そこで当時「島原大変・肥後難題」の諺さえも生
まれる始末となった。
雲仙大爆発による損害数概要
在町本家流失数
3,284軒{内村1,619町1,665
郷蔵〃
31棟
町土蔵〃
275棟
在方廐灰屋〃
1,485棟
町方〃
180軒
橋〃
56ヵ所
在町船 〃
542艘
往還筋道損
5,270間
〃石垣損
4,019間
田畑囲石垣損
11,558間
本田
232町3反21歩
本畑
95町2反4畝
新田
27町2反5畝
新畑
24町8反3畝
塩浜石垣土手
5,814間
扶持人流死
580人
在町流死
男4,018人女4,817人
怪我人
707人
牛 馬 斃 死
496匹
幕府は、この報告を聞き、即刻に災害復興資金として
五ヵ年賦で二千両を融通した。しかし藩はなお不足する
ので、二千両を願い出た結果、五ヵ年賦と十ヵ年賦で一
万二千両を拝借することができた。もちろん、この額面
で全領内の災害を復興するには不足であったことは当然
である。