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項目 内容
ID J1100051
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1792/05/21
和暦 寛政四年四月一日
綱文 寛政四年四月一日(一七九二・五・二一)〔島原・肥後〕
書名 〔島原大変記〕九州大学文学部九州文化史研究所・元山文庫
本文
[未校訂]叙
寛政壬子乃とし嶋原の災異ハ世の人まのあたり見聞せり
予其頃東武に在て其事を見るに及はすさいつころ故里に
帰りて其迹乃事ふりにたるを見るといえとも其詳なる事
を聞事を得す曽て中木場村乃隠士楽山亭なるもの彼変災
の始末をしるして嶋原大変記と題せり予一たひ閲して繁
きを刈不足を補ひ我より後に生れしものゝむかしかたり
にせむと写しととめぬ
文政二年卯の季秋燈下に書
玉潤亭主人
(中略)
地震騒動之事
頃ハ寛政四子正月十七日之夜子刻頃より地震し翌十八日
昼頃より何処ともなく山鳴動する事雷の如し深江中木場
安徳の三ケ村至て強く鳴けるよし十九日之朝不図も普賢
山に煙吹出し其勢ひ大空にも[冲|ノボル]へき有様なれハ諸人怪し
ミ胸を轟かす古今珍敷事故始之程ハ壱人も近付ものなか
りしに日を経るに随ひて見物の貴賤老若男女の隔なく群
集せり御鎮座まします普賢菩薩の御庭前石壇の下に当り
凡壱町程とも有へき地獄出来砂石を吹上る煙の勢ひ言語
に述かたく近国よりハ是只事にあらす定而相図の放火に
やあらんと疑ひしよし也風に応し風下の近郷悉く土煙を
吹かけ前代未聞の事とも也扨其後二月三四日の頃より
折々地震し山々鳴動せり又候怪しき事もあらんかと諸人
奇異の思ひをなしける処に六日の朝辰の下刻頃三会村の
頭に当り煙吹出し次第〳〵に勢ひ烈敷なり村役人日々為
見分相登り見届候処凡三拾町歩程の所煙吹出し是ハ最初
の地獄とハ事替り煙の粧ひ只白雲を吹出すに異ならす然
る処に八日の晩より猛火となん炎焰〳〵と吹出し何丈共
難計深谷を一夜之内に吹上山の如くに嵩重り夫より次第
〳〵に岩石を吹崩し谷筋日々崩れ下る事夥し夕陽に及頃
よりハ岩間〳〵ハ火焰と成崩れ下る巌石ハ火車の如ク数
十丈の谷底芝山の内に転込燃上る火ハ天を焦し谷岸共に
一面の猛火となり火先の赤き事朱の如く恐しき事譬を取
るに物なし是も始の程こそ諸人肝を冷しあやしミけれ共
数日の事なれハ次第〳〵に見物の人々も多くなり中にハ
敷物茶弁当なともたらせ登山下山の輩緒を繰るか如し夜
に入れハ灯燈松明にて昼夜のわかちもなく猶又茶屋商人
ハ酒肴を持運ひ酒迎の有様誠に眼前に地獄を見なから物
見花見の様に心得酒宴の粧始の程に引替下山の折にハ
ざゝんざ浜松やう小唄やうにて中にハ怪我あやまちも有
し趣余りに法外之体御聞に達し見物停止被仰出之程の事
也然れ共家頭壱人充ハ様子見届のため御構無之然る処に
亦々二月廿九日の朝三会村之頭に当り煙吹出し是ハ近辺
に近付事も成かたく至而嶮岨なる所にて次等〳〵に崩れ
下り日々に三拾間五拾間又ハ六拾間も崩れ下り同しく見
物群集せし処不計も三月朔日申の刻より大地震出し夜に
入て至而烈しく山鳴動する事夥し今や奈落に沈ミ日月も
地に落るかと思ふ計の事共也別而御城下の方強く依之町
人共周章ニふためき我屋を捨東西南北をわかたす右往左
往に散乱す近郷三四里の間昼夜迯さまよふ有様誠に修羅
の街も斯やらんと思はる子は親をしたひ親は子を尋ね中
にも病人産婦足弱の老人老女跛の類或は背負或は目籠[笊|ザル]
に取入差荷二本杖にて歩行の族見るも哀なる有様也又有
徳成者ハ駕籠乗物に打乗又は乗掛にて迯るも有道中の粧
は京都鎌倉の街道に異ならす御城下の注進ハ誠に櫛乃歯
を挽かことく実説悪説を申触しいとゝ転動したる人心狼
狽さまよふ有様哀というも愚(カ)也御上にも甚以御心遣ひ
に被思召上御子様方守山村御本陣へ御立退被遊候程之事
也別而市中町人共驚き候趣相聞ゆ尤此節之大変区々評議
にて洪水出候事も難計三丸御殿の前にハ御船を召登船用
意被遊猶又御城下の海辺にハ御手船不残乗出し粮米数石
塩味噌薪等御手筈之通夫々積込其外御領分の廻船漁船一
艘も不残御城下へ乗廻し銘々船印を靡を今や崩れかゝら
んやと相招く粧ひハ実に古ヘハ島壇の浦の有様も斯やと
舌を巻て見物せり斯而三月も過行最早可鎮と相待といへ
とも昼夜間断もなく止事更にあらす大地所々震割或は幅
壱尺亦三尺其深き事何丈共しらす猶又木場付の村々ハ水
渇して田方植付もならす剰苗等も干からす事是日頃山焼
の所為と思はる然れとも数日の事にて諸人地震になれ候
や皆々我家へ帰る用意をそ致しける段々日を経て鳴動も
静に相成諸人安堵の思ひをなし人々我家へ落着けり然れ
とも右騒動に付諸商売も暫く相止難儀之者の中にハ飢渇
も有之趣御聞に達し郡中為御救御米被下置村方ハ石高に
応し御割賦有町方ハ三ケ町にて高百石御施行有之依之百
姓町人飢を凌有難かりし事共也猶又近国諸侯方より御見
廻之御使者相見別而佐賀表ゟハ格別の御使者にて御心付
有且又神代へ迯越候者共ヘハ夫々御扶持米を被下其(ママ)塩噌
薪等に至迄御心付被下諸人之悦挙て述かたし然るに六日
の焼出し鎮る事なく始の程ハ三会村の頭なりしか中ほと
より杉谷村千本木と申所の谷伝ひに崩下り次第に御城下
の方へ近寄依之御城内町ニ而殊に騒動せり地震は近国一
統少々充有之趣に相聞ゆ此節の焼出し御上にも御心遣に
被思召上色々御祈禱有之尚又御城下寺社等におひて思々
の祈念有之といへとも止事更になし亦々三月十五日より
温泉山一乗院消湛の御祈禱被仰付右崩口千本木の城に(ママ・ウへ)仮
屋をしつらひ普賢妙見の両菩薩を申卸(カ)し鎮火の御祈禱
一七日執行有然れ共鎮る事もなく中〳〵人力の及所にあ
らされハ只区の評議にて日を送るのミ也乍去右崩れも大
方千本木の上迄にて焼留り山鳴も次第に静に成候に付
村々の廻船は先夫々に御差戻し世上少しハ穏に相成御城
下市中も段々商売事ニも取懸り居候処思ひ寄らすも四月
朔日酉刻頃亦々大に地震するや否や南の海より津浪打寄
村方海辺田畠ハ不及申山林木石も虚空に散乱し又闇夜の
事なれハ只音のミすさましく夫と弁ふ隙もなく海辺居住
の百姓共悉く流失ス御城下の市中ハ不及申社堂寺院波先
にもみ立られ或は土中に埋り中にも宗廟にまします猛島
大明神を始奉り五社神明宮東照宮松島大明神寺方にては
江東寺桜井寺護国寺光伝寺和光院快光院崇台寺養養(ママ)寺善
法寺浄源寺一宇も不残流失せり其外修験者請持之堂其数
を不知追手御門外御船倉所々浜辺の御蔵其外御手船は勿
論諸国之廻船数百艘一葉も不残流失御城下の東西南北死
人の山をなし市中の者共屋敷の外迄迯出たるも有多くハ
家諸共に流失せり其騒動[冷敷哀|スサマジク]なる哉親ハ子に迷子ハ親
に引れ遁へき命を捨も有或は倒れたる家にしかれ打寄た
る材木にひしかれ泣叫声ハ修羅の呵責に異らす又安徳村
にハ倒家より出火して適遁し家迄類焼すれとも消んと思
ふ人もなし折節西風烈して炎雲をつらぬき辺の手負ハ煙
にむせひ或は半身土中に有て遁んともかけとも動かす喚
へ共助る人もなく或は溺れ或ハ焦れ千変万苦の有様哀と
いうも愚也右之趣共御聞に達し無程御助の勢被差出斧熊
手鉄手子等を以敷れたる人を助埋たる者を掘出し追手の
前にハ数ケ所に篝火をたかせ寒へたる人をあたゝめ飢た
る者には粥をあたへ御台所には大釜にて人参を煎しさせ
或は気付等をもたせ所々に是を配散して手負等に服さし
む兎角する内に夜も明くれハ御領内中の医師外科不残御
城下へ召寄られ怪我人江夫々御手当有けり扨前夜の大変
前山の南の方中木場安徳深江島原村にかけ崩懸りし有様
言語に述かたし其島の数何ほとゝいふる(事カ)をしらす地方よ
り海中壱里ほと嶋続に涌出せる嶋もあり其嶋々の間ハ湖
水と成て五町拾町或は百町歩末に至りてハ毒蛇の宿すへ
き湖水満々たる池其数を知らす然れとも地震も不鎮山鳴
動し地中にハ石火矢を打如く其音止間なく猛火はしたひ
に燃下り御城も危く見へし儘御家中の妻子方ハ三会三の
沢東空閑大野湯江多比良大黒西郷伊古伊福三宝守山々田
右拾三ケ村之内思々に旅宿を定立退有其通路暫の間も絶
る事なく銘々長刀を突或は刀を対し道中の粧勇ましくそ
見へし往古源平の戦ひに平家の一門須磨乃内裡をひらき
転動散乱の有様も斯やと思ふ計やしかれとも御役人中は
堅固に籠城有といへとも目差たる敵もなけれはふせくへ
き手段もなく只徒に日を送る而已是非もなき事共也上に
も甚御心遣ひ被遊御家中不残立退候様との御意度々に及
ひしとそ夫より諸役所の道具等夫々に取調三会村景花園
と申御茶屋へ諸役所を補理四月八日家老衆を始諸役人不
残景花園へ御立退尚又御城下近郷の者共ハ遠郷の縁所々
へ立退依之御城下流残し僅計の町家皆々空家計にて往来
の人もなく塁々たる死骸取片付る者もなく誠に荒果たる
有様物凄く哀也かゝる時節を待まふけたる盗賊共空家
〳〵へ押入捨置たる衣類家財等を積取迯も有其騒動大方
ならす依之御役人衆為取鎮御廻り有其行粧戦場に異らす
鎗は鞘を外し鉄炮鳶口各得物〳〵を携へ昼夜の間断もな
く御廻り有けるよつて町中も納り山鳴動も日を経て穏に
成御家中方も夫々御帰宅有町方近郷迯散たる者共も皆
〳〵安堵の思ひをなし我家〳〵へ落着せり
(中略)
南北村々流亡之覚
一嶋原村今村不残其外海辺 一杉谷村海辺計
一三会村海辺人家 一三之沢村同上
一東空閑村同断 一大野村同断
一湯江村浜辺計 一多比良村同断
一土黒村浜辺人家 一西郷村同断
一安徳村北名不残人家共山ニ成南名少々残一中木場村山手人家山ニ成
一深江村浜辺人家 一布津村浜辺人家
一堂崎村同断 一有田村同断
一町村浜辺人家 一隈田村同断
一北有馬村同断 一南有馬村同断
合弐拾ケ村
一流死人 凡壱万百七拾余人
一怪我人 凡六百五拾余人大方七日過死
一流失家 凡五千六百軒余
一牛馬 凡四百八拾疋
一旅人 数不知
一大小船
一新島之数五百三拾余出来但此島前山裂落てなれるも有又海中より涌出てなれるも有とそ
一三之沢村浜辺に仮屋を補理御城下其外近郷之怪我人共
被差置夫々御療治被仰付候事
一村々庄屋に於て御家中方御家内扶持并流家之者共へ御
救米日々御施行之事
一三月九日大地震致候節前山南之方に楠山有此所草木生
なから拾町余も震下り其節茂町方ゟ見分罷越候者共も
有之候得共何之思慮もなく尤中にハ高案之者も有之候
へ共近所合壁(ガツペキ)愚昧之者之挨拶に応られ用心せさりし由
是大変の前表成しに残多き事共也亦最早三月朔日之大
地震より村方又ハ他所へ思ひ〳〵に迯去候へ共大方共
廿七八日頃迄皆〳〵帰宅せり然処に四月朔日の大変也
中にハ漸一日我家へ落着候者も有之迚之事に三月中見
合帰りなば助る事も有へきに是亦甚恨へき事也
一百三拾ケ年以前高力左近大夫様御代にも普賢山焼出し
北目筋往還ハ闇夜に松明不用往来せしとなん古人の話
聞伝へぬしかし其節ハ左迄之変にも及はすして安徳村
深江村の境に山塩洪水して田畑多く破損有之趣今水無
河原と申右焼出し候事村方田畑検地竿入有と云り
一右焼山為見分城野市大夫と申仁被致登山見分之上御政
事直ならさる時はケ様之大変有之抔と有之儘に言上被
致候由依之永之御暇被下候由其後御家老志賀玄蕃殿御
手討有其後左近大夫様御改易と云々山焼ゟ六年目に当
候よし申伝
一此節茂翌巳春中中木場村洪水度々有之田畑多く破損有
之安徳村南の百姓の家土中に埋る怪我人は無之候得と
も是も古今の珍事也
一町方流跡へ家建候者共ヘハ家之大小坪数を以普請料被
下置候事但壱歩ニ付銀拾三匁充
(注、以下「史料」三巻三六頁上一六行目~四〇頁上
九行目迄と同文につき省略)
出典 新収日本地震史料 第4巻 別巻
ページ 273
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長崎
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