Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J1100013
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1792/05/21
和暦 寛政四年四月一日
綱文 寛政四年四月一日(一七九二・五・二一)〔島原・肥後〕
書名 〔眉山ものがたり〕
本文
[未校訂] 寛政四年(一七九二)は昭和五十年からさかのぼって
百八十三年前である。その前年の旧暦十月八日から千々
石海底マグマ溜りの憤りによる雲仙岳の地震がはじまっ
た。明暦三年(一六五七)の秋にも噴火した。寛文二年
(一六六二)十一月二十三日も噴火した。そして宝永二
年(一七〇五)は四月二日に地震が起きている。
 今度のはひどい。毎日数回づつ鳴動をともなって地が
ゆれる。十一月四日から急に激しくなり、眉山のいただ
きがそのたびに崩れた。十日には小浜村の[鬢串|びんぐし]で崖崩れ
があった。
 年が明けるとさらにひどくなり、遠雷のようなひびき
も加わって正月十八日の夜十二時ごろ、とくに激しい地
震とともに、もの凄い音を発して普賢岳が爆発し噴煙が
天をふさいだ。二月四日穴[迫|さこ]谷に鳴動がおこり、九日に
は熔岩をふき出した。
 赤く焼けた熔岩がドロドロと流れくだるのを遠望した
島原人は、恐怖の眼を見張って逃げ腰ではありながら、
こわいもの見たさも手伝って遠近から見物人が多くなっ
た。杉谷の[千本木|せんぶき]入口あたりは大賑い。酒店が出た。ウ
ドン店、菓子屋も出る。三味線に合わせ歌って踊る衆団
もあらわれた。
 病人老者もカゴにゆられて見物に行くというありさま
に、城主松平忠[恕|ひろ]は禁止令を布告し十四日に領内各村の
神職と温泉山一乗院の僧十四人を集め、南千本木の肥賀
太郎山に祭壇を設けて祈願させた。
 地震が止みますように……。
との願いであった。そして城主は江戸幕府に向けて急報
を発した。足の強い飛脚夫は書状を納めた[文箱|ふみばこ]を担いで
三百里余の路を駈け続けて行った。
 その翌朝、町奉行所のサムライが部下をつれて駈け廻
った。旧家の白壁に消し[炭|ずみ]で落書があるのが発見された
からである。
[神主|かんぬし]や[坊主|ぼうず]の祈りで
地震がやめば
[面白|おもしれ]もんたい。
城主に対する侮辱であると奉行は感ぐったであろう。ほ
かの白壁にも書いてはおらぬかと駈け廻らせたのであっ
た。
 二月九日鳩ノ穴の付近にある蜂ノ[窪|くぼ]が噴き、続いて飯
洞岩が噴火、さらにそれより百三十五年前の明暦三年(一
六五七)城主高力隆長時代に噴火したことのある地点か
らも火煙をあげたので、第二の飛脚が江戸に飛んだ。二
月二十七日三会村の礫石原で酸味のある水が吹き出し
た。
 三月一日午后の四時ごろ、今までよりも大きな地震が
おこり、地鳴りにともなって眉山がガラガラ崩れた。特
にこの日は三百回も地が震れ、城下町や近村でも家の戸
障子がはずれてしまうこと六回、それから毎日、百回ほ
ども地震がつゞくので、いよいよ恐ろしくなった人々は
避難を開始した。
 知己親類をたよって村々へ荷を運んだ。城下町は大混
雑を呈し、あわてふためくあわただしさのなかに、子ど
もの泣き叫びがどこにもおこる。荷物運搬人は三会、杉
谷、三ノ沢、安徳、中木場、深江などの農民たち、日ご
とに運搬賃が値あげされた。担ぐ者も恐ろしい。値あげ
したのは財産を持っている避難者でもあった。
 藩庁は三回めの飛報を幕府に発した。三月二十七日に
出発する予定であった参勤交代の江戸のぼりを取り止
め、城主も重臣と謀って避難計画をたてた。三月二日、
藩の政務所を三会村洗切の景華園に移した。ここは元禄
十二年(一六九九)以来、城主の休息所になっていたと
ころである。
 この日、城主忠恕は領内で最も安全地帯に難を避ける
ため、馬に乗って桜門を出ようとした。カゴ、諸道具を
詰めこんだ箱がつづく。そのとき桜門を警備していたの
は、百五十石取りの馬廻役、川井治太夫[利強|としかつ]であった。
利強は城主が城を留守にして去るのを、こころよく思わ
なかった。あくまで城に踏み止ってこそ城主たるものの
[本分|ほんぶん]であると信じていた。
 幕府の許可も得ず、城を留守にして避難したことがわ
かれば、あとで大きな制裁をうける。城主を思う家臣と
して、あくまでも阻止しなければならぬ。利強は馬前に
進み出て強く諫言申しあげたのである。
 余が避難しなければ、家臣も城下の者も避難せぬであ
ろう。
忠恕はこういって馬を進めようとした。
 殿、どうあってもおやめくださらぬか。
利強は眼を皿のようにして、歯を食いしばっては城主の
退避を止めようとした。
 ならぬ、どけ、余は皆の者のため、城をあとにする。
そのとき、利強はこれまでとばかり、立ったまま腹を切
った。腹を切って、死をもって諫めようとした。血をた
れつつ利強は重心をうしなって、うしろに倒れた。これ
をみた側付の用人が
 武士ともあろう者が、うしろに倒れるとはなにごとで
ござる。
その怒声でウーンと[力|りき]んで立ちあがり、前伏せになった
が、やがて動かなくなった。出血多量とともに心臓が止
ったのである。衛兵たちが騒ぐ。誰かが大声で何か叫ん
だ。
 忠恕の一行は急ぎ足で守山村に向った。そして山田村
の庄屋林田家と[法性|ほつしよう]寺、守山村の庄屋中村家と大福寺に
分散、忠恕は庄屋中村[佐|すけ]左衛門の奥座敷を仮の宿所と定
めた。現在の吾妻町守山である。城主に従った人々は
△奥大[目付|めつけ]|浅野勘太夫、神崎武右衛門、豊島喜左衛門
△仲[小姓|こしよう]|竹田栄左衛門、神崎政次郎、菅沼勝之助、
 村田道太郎、土橋伊八郎、奥平十五郎、金森三郎次、
 酒井助之丞
△医師|林田玄庵、芝原立斉
△勘定奉行-羽田喜太夫、富永徳左衛門
△郡奉行-寺田半助、北尾信右衛門、湯浅忠次右衛門、
 飯田宅蔵、島田忠蔵
△徒士|鈴木益蔵、佐藤久蔵
△[勝手方|かつ て かた]-塩見佐平治、渡辺百左衛門、寺田為治
△料理人-塩塚軍左衛門
△錠口番-守田貞治、鈴木与次右衛門、三原岩太夫、
 弓削四郎左衛門、近藤豊蔵
△妾|おみき、その子の雄五郎、友之丞、お照
(城主の本妻はみな江戸に居た)
その他、[板|いた]ノ[間|ま]、[仲間|ちゆうげん]、女中を加えて六十五人
 かくて地震はつづく。城下町は東西にわたり広さ三十
三センチほどの亀裂が各所に生じ石垣はみんな崩れた。
杉谷、三会、安徳、中木場、深江その他の村々も家が倒
れた。三月九日、眉山の一角が音をたてて百五十メート
ルばかりも東側に崩れおち狐や兎、小鳥の死体が各所に
発見された。山から吹き出たガスのためであった。「[ 楠|くすのき]
[平|だいら]」が二百メートルも崩れ落ちたのはこのときである。
 熊本、福岡、佐賀、唐津、柳川、久留米、平戸、大村、
諫早の各城から慰問見舞の使者が次々に来た。白米、漬
物、ローソク、魚油、塩鯨などの見舞品が船で馬でゾク
ゾクと運びこまれた。新町別当隈部家(堀町の米屋旅館
になっている所)で島原城の接待役が応接していたが、
眉山に近くて危険だとて柏野の高岳山晴雲寺と杉谷村庄
屋宮崎家に変更した。城内警備と盗難予防、火災防止の
ため身軽な若いサムライは食うものも満足に食わず走り
廻っていた。首席家老板倉八右衛門、二番家老松平勘解
由、三番家老奥平[右膳|うぜん]その他の重臣たちはそれぞれ部署
を定めて、城主の居ない留守をしっかと守っていた。
 ところが三月十五日から急に地震がすくなくなった。
やや安堵したであろう避難民は神代、愛津、多比良、有
家、堂崎方面から十八日、二十日、二十五日と次々に帰
って来た。避難するとき労務者からぼられた荷物の運搬
賃のことでブツブツ不平をいいながら帰った者、山の方
を仰ぎ見ながら、もう大丈夫、もう安心という声も聞か
れた。なかなかに腰を据えて帰らない人も居た。避難先
で死んだ老人もあり、子を生んだ女も居た。
 それが四月一日(旧暦)午後六時ごろ=新暦では五月
二十一日=今までにない大地震が続けて二回、そのあと
大音響とともに眉山の南側前半が頂上から裂けて島原湾
におちこんだのである。そのため大津浪が巻きおこり、
二十七キロ余も離れた熊本沿岸におしよせた。
○天草郡の被害
合津、今泉、大浦、赤崎、上津浦、大島子、本渡、広
瀬、佐伊津、鬼池各村流失家屋三七三、小屋四三九、
半壊家屋三五二、溺死者男一四八、女一九五、牛四四、
馬六五、流失田畑六五町八段一畝、苗代田四九町五段、
釣舟流失六七、甘藷畑四〇町六段五畝、郷倉二、塩六、
六一〇石、塩田一六ヵ所二〇町七段、大麦五六九石そ
の他。
○宇土郡の被害
流死者一、二六六、田畑二七六町
○飽託郡の被害
流死者六六八、田畑一、六六五町八段
○玉名郡の被害
流死者二、二二一、田畑六八九町一段。塩田二〇町八

その他負傷者合計八一一、牛馬の死一五一、流失住居二、
二五二、釣舟流失一、〇〇〇余。全くの「島原大変、肥
後迷惑」であった。そしてその返り浪が怒涛となって押
し返し来り、島原半島南有馬村浦田から西郷村にいたる
十三里十八町三十九間(約五三キロ)二十三ヵ村の沿岸
を洗い去った。海岸から五百メートル以上も海水が押し
あげた村もある。こゝで島原藩日記の一節を掲げる。
△寛政三年十月八日始めて地震あり。その後毎日の如く
三回づゝ続く
十月二十六日 激震たびたびあり。
十一月十日 地震いよいよ強し
寛政四年一月四、五日、三会村穴迫谷頭のあたり噴火
一月十八日 普賢岳鳥居の前より噴火
一月二十六日 熔岩流出の見物人に野焼せざるよう布
 告
一月二十九日 飯洞岩の噴火
二月三日 熔岩流出の見物禁ず
三月一日 前山鳴動し土砂崩れ落ち、音響あたかもオ
 ランダ船の大砲を聞くが如し
三月二日 松平忠恕藩主諸公子、守山村に移り藩民の
 避難する者多し
三月六日 藩吏を遣して戸主の帰宅を促す
三月十五日 神代村にある者三百三十六人
三月二十七日 参勤交代の出発を見合はす
四月一日 今晩[酉|とり]刻(午後六時)大地震強く山頂より
根方まで一時に割りくずれ、山水押し出し南北十八
の村、流失いたし候。男女二万七千人のうち五分ほ
ども在命候也。御城内は恙なく候処、御城下は残ら
ず押流し三会町綿屋三郎左衛門より西の方は少々ば
かり相残り、死人怪我人おびただしく半死半生も有
之候、白土までも一円に相成候
四月六日 海鳴る
四月二十五日 穴迫谷頭の噴火、再び勢を増す
六月一日 普賢の噴火、勢を増す。千本木辺まで灰降
 る
七月五日|八日 地震あり、前山の大山崩れ
八月一日 普賢の鳴動強く、噴火の勢、増せしも暮ご
 ろ[鎮|しず]まる
これは城内に居た祐筆(書記)が書いたものである。三
会町とは現在の上ノ町地帯、ここには三会町別当(町年
寄)姉川伊兵衛の住居があった。宮崎病院のあるあたり。
白土とは白土町のこと、南北十八の村とあるが最も被害
のひどかったのが十八ヵ村であった。
 被害地の中心は島原城下町、そして南から南有馬村北
部(浦田)、北有馬、隈田、有田、町、堂崎、布津、深江、
安徳、北は杉谷、三会、三ノ沢、東空閑、大野、湯江、
多比良、土黒、神代鍋島分領の東里、西里、下伊古と上
伊古、西郷の各村である。=有家村は寛文五年(一六六
五)有田村(尾上・山川・蒲河)。有家町村(小川・中須
川・慈恩寺)隈田村(里坊・久保・須川・龍石・長野)
の三村となり、明治になって東西有家にわかれた。
 永禄六年(一五六三)オランダ人のバテレンであるフ
ロイスが書いたものに、島原港は「この国最大の港にし
て、船よく百隻を入るゝに足る」と賞讃していた。国と
は有馬領主時代の領内のこと、それが一度にして陸地と
化した。
 港内には松島、[天|あま]ノ島、中ノ島があり霊丘公園になっ
ているところは島原港の防波堤になっていた。島原ノ乱
(一六三七)後に浜松から移されてきた島原城主、[高力|こうりき]
摂津守忠房がここを適地として[東照権現|とうしようごんげん](徳川家康)を
祀っていた。それでこの地を[権現山|ごんげんや]といい伝えている。
ここには舟で渡るか、猛島神社の方から砂浜づたいに藩
で経営していた製塩所の横を通って行かねばならなかっ
た。
 中ノ島と相対して高島(鷹島)があり、陸との間を埋
めたてて人工的の陸繫島としそこには城主の船倉があっ
た。[船倉|ふなぐら ]という地名が残っているのはそのためである。
倉には[大早|おゝばや]、[中早|ちゆうばや]、[小早|こばや]と三種類の軍船が格納されてい
た。それらの船を操作する海兵を船倉士族と言った。
 現在の勧進坂から大師堂理性院(明治二十八年ごろの
創建)と桃山地帯は松島のあと、ここに祀ってあった[宗|むな]
[像|がた]社は明治五年、[霊丘|たまおか]神社に合祀された。弁天社もある。
それで弁天町という町名もできている。
 松島に対して北側に舟津聚落があって内側に舟[溜|だまり]が
あり、その奥に[水頭|みずかしら]があった。水頭とは舟溜の奥の意味、
現在のホテイストアのあたり、弁天町の最西端あたりが
島原城ができる前の、城主島原式部太夫純豊が居た浜ノ
城あとである。善法寺の山号は[水頭山|すいとうさん]。光伝寺が[松島山|しようとうさん]
である。美しい松島がすぐ前にあったからであろう。
 この地帯は士族屋敷の山ノ手に対して下町で白土町、
古町(堀町、中堀町)加美町、桜町が古町[別当|べつとう]中村太左
衛門(町年寄)の管轄。万町、有馬町(大手付近)網打
場、新町、風呂屋町、石垣町、三軒家が新町別当隈部杢
左衛門の管轄であった。このうち中村家のは事件後に建
てかえた家門が昭和四十九年六月まで残っていた。隈部
家の門は今から十年前ごろまであった。有馬町は島原城
ができた後、南北有馬村方面から移住した商人が住んだ
からである。
 その西側に[経坪|きようへい]山安養寺、[法性|ほつしよう]山浄源寺、嶽島山[崇台|そうたい]
寺、和光院、[演暢|えんちよう]山廓善寺、快光院、水頭山善法寺、[松|しよう]
[島|とう]山光伝寺、不老山加納寺(叶寺)、長久山護国寺、[白毫|びやくごう]
山桜井寺、神龍山江東寺と金蔵院、成就院、福寿院があ
った。金蔵院・成就院・福寿院は今はあとかたもない。
 三会町[別当|べつとう]の管轄は上ノ町、中町、片町、宮ノ丁地帯
で猛島神社はこの区域、大津浪で霊丘神社も猛島神社も
流れた。島原港外の島を九十九島というが島が多くある。
できたという意味でいづれも眉山の分身、明治二十五年
の調査では暗礁五十九、島は三十一となっているが、現
在の島は十六、暗礁は台風のたびごとになくなったあと
である。
 それで不案内の船は暗礁に乗りあげるから、東北の入
口に灯台が設置されたのは明治十年九月一日であった。
白色一千燭光、一一・〇カイリまで光がとどく。やや大
きな島は
地番 地 積(反畝) 島の名
四七〇 七・一・一〇歩 繁島
四七一 一〇・〇・〇三歩 繁島
四六五 二・四・〇六歩 [鳶|とび]島
四七五 一四・一・〇五歩 鷹島
四六三 四・五・〇〇歩 第三爛場島
四五六 七・六・〇〇歩 第二爛場島
四八七 五・六・〇〇歩 第一爛場島
四八八 六・六・一〇歩 兎島
四八六 三・二・〇〇歩 亀島
四八四 一・二・一八歩 蔓島
四七六 三・七・二四歩 龍宮島
四七六 八・五・二一歩 平島
計七四・八・一一歩
大変があって三十年ほどの後、誰がつけたか島の名は馬
島・馬小島・沖ノ石島・南天島・串島・茂七島・堂崎島・
出外島・中島・沖高島・磯高島・長島・沖島・木場島、
横島であったのが、明治になってから呼び名が変った。
さて島原藩庁で、事件落着後に調査した領内の被害は
流失家屋 三、二八四
死者 九〇六四(このうち武士階級家族五七六)
牛馬 四六九
水田 二五九町五反
塩田 二二町三反
防波堤 一、六〇〇間
畑 一二〇町
田畑石垣 一一、五五八間
並木土手 三、二一五間
藩道石垣 四、一一九間
舟 五八二
寺院 一〇
神社 一八
堂 六
鳥居 一二
橋 五六
これは大略の集計であろうが島原城の石垣、塀、瓦の落
ちたもの、武家屋敷、領内各村の被害、城下町を加算合
計すれば、地震と津波にまたがるので全く眼も当てられ
ぬ大痛恨事であった。負傷後の死亡も多かったろうが実
数不明。
 死者の中には島原に用件があって来ていて、災難に遭
うた人もある。昭和四十八年九月はじめ、市内の旅館に
泊っていた人がしきりに墓地を探した。福岡県宗像郡津
屋崎の人で宮司の永島[嘉糧|としかず]氏(60)であった。津屋崎か
ら来ていて八人が死んだという。(江東寺住職二十九世、
寺田禅隆氏談)
 学者の調査によれば、眉山が崩れた石と砂の容積は○、
四八立方キロで、海面の埋没距離八百七十三メートル、
従って新山から海岸まで港町一帯および港道方面は眉山
の分身であり、驚くべき大自然の暴威によって出現した
陸地である。およそ二十三万坪。
 あたらしく出現した陸地、年を経るにつれ地均しされ
て北目、南目から移り住む人がふえた。所有権の設定は
どうしたか知らぬ。崩山地帯には南有馬村から来た池田
氏の如く、八幡町・広馬場・津町・蛭子町・港道あたり
には商人などが家を建てた。
 眉山がまた崩れることがないとは保証されぬ。眉山崩
壊にとものう大津浪で生き残った人々は、夕刻であった
ので、夕食をすまさぬうちに死んだ人が多かったので、
その後は
 夕食は五時半までにはすませろ。
という習慣が特に高島町方面には最近まで残っていた。
悲惨な語り伝えは、老人が死ぬにつれて消えてゆく。
 明治二十三年一月二十七日付で、五代めの南高来郡長
となり、奏任官四等上級奉、十二月十六日奏任官三等、
明治二十五年四月、原城耶蘇乱記稿本、十一月南高来郡
全図一葉、同付録地名表を書き、長崎に移って長崎略史
三十五巻を完成して三十年八月二十七日、四十八歳で没
した金井俊行氏(六代前の祖は群馬の人)が書いた「島
原大変記」を次に転載する。
四月[朔日|ついたち]の変たるや、実に一発破弾の偶中に異ならず、
彼時遅く此時早く、地震高波一時に来りしなれば、我
身すらこれを避くるの暇なし。豈其他を顧みるの暇あ
らんや。人々只夢の心なり。家屋に[厭|おさ]され木材に厭さ
れ、或は半身土中に埋りながら、不測の命を助かるも
のあれど、多くは手を折り足を[摧|くだ]きたる者など、目も
当てられざる者あり。これら多くは後に死したりとぞ。
生き残りし者も親は子を尋ね、子は親を尋ねて東西に
馳回り、死屍を物色する景況は言語筆墨の能く尽すべ
きにあらず、且その死屍を得たるは不幸中の幸にして、
これをも得ざる者さへ多く、日を経たるの後は容貌変
じ、容易に認め得べきにあらざれば、目前これを見な
がら他人の手に触れしめたるも多かりしなるべし。親
子兄弟離散の状は得も言はれざる景況なりし。善法寺
辺に倒れ居たる廿四五歳の男は、石にて打ちけん一眼
は飛出て眼球下り、肩は薪にて表裡に貫き目も当てら
れざる景況なり。これをも大手に連行し請ふて烟草を
吃し、医者に謂て曰く、とても永らふべき命にもあら
ず、願はくば肩の薪を抜きて、暫しなりとも苦痛を除
きてよと請ひたり。その薪は折れ挫け居たれば、容易
の事ならざるも、百方苦心してこれを抜きしに、苦痛
の色もなく暫くして死せしとぞ。
或人、地震あるや否や、家を馳せ出たる途端に波のた
め押され、前後も覚えず、鶏鳴を耳にして始めて我に
帰りたるに、身は木材茅藁の間にありて如何ともする
を得ず、声を限りに叫び呼べども、来り助くる者なく、
気力漸く衰へ声も次第に弱りたれば、悲しみ歎きて既
に死を期せしに、幸に人の聞く所となり救ひ出された
り。その跡を見るに一丈五六尺ばかり埋り居たりとぞ。
また一人は洪波と聞くや、直に馳せ出たるに大手橋上
にて波に圧され前後不覚なりしに、我に帰りて眼を開
けば身は既に安徳村枯木崎の海岸に在りしと。大手よ
り一里余の所なり。また稚子を抱きて海岸に漂着した
る人あり。諸人集りてこれを助けしに、稚子は既に死
し居れり。その身も足指一本を打切り居りしを知らざ
りしとぞ。
猛島社神官入江[河内|かはち]家族十人の内、僅かに三人助命せ
り。初め山海鳴動して一旦止め、続いて一層甚だしく
天地も崩るゝばかりなりしかば、刀を取り台所に走り
行きしに既に海水覆ひ来り、家は見る間に押潰され、
身は波に押され前後不覚となり、足の冷ゆるを覚えて
眼を開けば、身は砂中に埋り居りしも、自ら出て城に
這ひ登りしと。
その弟新治は屋敷より十五町ばかり陸地に押上げられ
て助命せり。また女某は母と共に門前に逃げ出したる
途端、波に引かれ、うつゝのうち籔の内に止りたれど
も足立たず、漸く人に助けられたり。
八百屋吉蔵は小児を携えて歩行中、波に引かれ一旦田
町門外に打揚げられ、再び波に引かれて安徳村枯木崎
に止り助命せり。
ある婦人小児を携えて猛島社へ詣り、この難に逢ひ小
児を負ふて走りしに洪波に打倒され、大石来りて小児
を打去りたるも、その身は幸ひにして十四五町ばかり
の地へ打上げられ助命せり。
家中の村尾祐助は大手並木の本にて波に打倒され、起
き上らんとすれども磐石にて圧さるゝ如くなりしに、
再び波来りて浮きあがり、大手の石垣に攀て門内に逃
げ入りたり。潮は僅かに深さ三尺ばかりの如く覚えし
に、衣裳帯より下は寸裂したり。すべてこの災に逢ひ
たる者は衣裳みな裂けて、或は裸体に至りし者もあり
と言ふ。
善法寺は本堂庫裡共に地震のために倒れ、住持は木材
の間に挾まれて未だ息絶えず、行人に助けを乞へり。
五六人にては手を出すべき様なし。三日に至り大勢行
きたれども既に死し居れり。
この時布袋屋幸右衛門も災に罹り、妻子を尋ねて善法
寺前を過ぐ。住持これにも助けを乞へり。己れも妻子
を尋ぬる時にして、殊に一人なりければ応ぜざりし。
後その死を聞きて、また己れが妻子も尋ね得ざりけれ
ば、悲歎の余り、筑後善導寺に入り僧となりしとぞ。
家中山内源兵衛は、白土町にて地震に逢ひ走り出した
るに、あとより山の如きもの飛ぶが如く追ひ来りけれ
ば、息を限りに走りしに、二十間ばかりあとなる乙名
の家の壊るゝ音を聞けり。而して漸くにして潮先より
二三間を逃げのび得たりと。
上ノ原に菜種番小屋あり。この夕、地震烈しく屋内に
倒れ動き得ざりしに、泣き叫ぶ声四方に聞へ、生きた
る心地もなかりし。夜四ツ半(十一時)頃に至り、少
しく静まりたる様子故、暗き中に見渡したれば山の様
子大いに変り、畑の物は依然たれども地位は変じたる
ように見え、また間近に波の音さへ聞へたり。翌日に
至れば家屋とも十五六町ばかり海辺に押出され居れ
り。
城外田町は板倉、松平両家老の陪臣住居せり。一家み
な流れて婦人一人残れるあり、その言に、この時非常
の音に驚き、家人皆屋外に馳せ出たり。己れは愛猫を
携えんとて再び家に入る途端、激浪覆ひ来りて家と共
に押流され、海辺の水田に止り、幸ひに万死を免れた
るも、他の家人は皆死失せり。
古町茂兵衛は老人にて、作業を為すを得ず、毎夕出て
麦の番を為せり。是を以て独り命を全くしたり。鉄砲
丁に行き居りて恙なき者あり、或は鉄砲丁より市街に
来り居て災に罹りたる者少なからずと言ふ。
安養寺の新[発意|ぼち]龍珠はこの時崇台寺にあり、地震に驚
き走り出れば水滴面を打ちて小石を投ずるが如し。既
に波底に沈みしが、一旦岩礁の間に止り、再び漂蕩し
て麦圃に止り、水は膝に及ばず、火光を認めて来り民
家に至り甚三郎山に避く。俄に全身の痛を覚え熱を発
す。夜半の後南方より火雨来ると呼ぶ者あり、悲泣の
声大いに起る。これ安徳村潰家の失火なり。後に弟の
獅弦と草庵を旧地に結ぶ。秋冷に至るも覆ふべき衾な
し。檀家その衾絹一具を贈る。兄弟同衾して僅かにそ
の冬を過ごせりと言ふ。
 片町の行商庄平は酒を飲みて酔臥し、洪波のその身
を漂すを知らず、夜半眼覚めれば独り田に臥す。時に
城上急鐘頻りに鳴り、灯燈星の如く、号泣の声大いに
聞えたり。初めはその身既に死して、閻魔の庁に至り
しかと疑ひしと。その地は諫早門外(田屋敷の末端)
なりしとぞ。
この日第一の洪波までは、島原城大手門未だ鎖さず。
この時城に入りし者は皆恙なかりしも、第二の波には
城門既に鎖りたれば、城を指して逃げ来りし者は皆、
大手門前に死せりとぞ。
 島原村久左衛門妻、同村清水郷六左衛門妻及び三会
町渋江源太夫寡婦は父母に離れて依るべなき幼女を救
ひ乳を与えて撫育し、島原村泥川の石工清六はよく負
傷者の看護をなし、三会町孫八は新町吉野屋九郎兵衛
の寡婦が老年にして独り居りたるを自家に救護し、島
原村柏野の富右衛門は古町茂兵衛が老人にて一人残
り、身の頼るべきものなきを見て自家に養ひ、有田村
蒲河の伊三郎は裸体にて残されたる幼児を見て、己れ
の衣を脱して与えて救護したり。藩庁はこれらに米銭
を与えて褒賞せりとぞ。
 三会町渋江源太夫正清(天保三年(一八三二)十月十
二日卒)は島原在住九代。当時は上ノ町に住んでいた。
八七六番地になっている所。宮ノ丁には嘉永六年(一八
五三)五月十七日、十一代正玄のときに移住した。島原
城が築かれたときから全島原半島を管轄する水神社を祭
祀していた。武士階級から逃避して御幣を振り廻して暮
したのである。私で十五代であるが私は神職ではない。
祖先は佐賀の武雄。
 その前から宮ノ丁に住んでいたら、一家全滅であった
かも知れない。宮ノ丁の家は一軒残らず流れたからであ
る。家族は三会村の亀ノ甲の農家に避難していた。天正
十二年(一五八四)三月から二十五年ほど、初代の公正
が住んだ縁故があった。
 文中の「寡婦」は戸主の姉で未亡人になっていた。姪
が西郷村に嫁いでいたので、用件があって行っている間
にこの事件が起きた。急いで帰ったとき、波がひいたあ
との大手の松ノ木の枝に幼女がひっかかっていた。それ
を助け育てて、十七歳のとき佐賀に嫁入らせたことにな
っているが、佐賀のどこか不明。猛島神社宮司の家は、
現在宮ノ丁の柴田さん(元三会村長夫人)が住んでいる
屋敷にあった。
 長久山護国寺の三十番神は流出をまぬかれたが、白土
湖の橋がある地帯の南にあった藩の製塩場は流れてしま
った。塩をつくる仕事は重要であったので、特に主任の
地位にあった者は「塩ザムライ」とて武士待遇をうけて
いた。塩ザムライの[満田|みつた]氏は、そのころメジロを飼うて
いた。家族は避難していたが戸主が一人で家を守ってい
た。
 四月一日午后、メジロがしきりにさわぐ。ふたを開け
たがカゴから出ようとせず、なおさわぐ。やむなくカゴ
をさげて、メジロを捕えた瓢簞畑近くの林に行き、カゴ
から出して逃がしてやり、帰りかけた途中、ものすごい
大きな地震が続けて二回、そのゆれで眉山が島原海湾に
崩れおちた。
 かくて満田氏は、メジロから助けられたようなものだ
が、製塩場がなくなったので職業を代えることになり、
藩庁の斡旋で麴を藩に納める「御用麴屋」になった。桜
町の満田家には「御用」と書かれた箱が残っていた。白
土町現住、今坂正氏の祖は今川町に住んでいたが、娘一
人が溺死したという。
 ここで守山村庄屋、中村佐左衛門の日記を参考とする。
原文をわかりやすく改めて四月一日のところでは
一、四月[朔日|ついたち]暮頃過、当村山田山水溢れ候由、声々に呼
ばはり騒動おびただしく候に付、山の上畑に駈登り世
間を伺ひ候処、暗夜にて一向様子相知り申さず候へと
も、[兎|と]角、海辺の音すさまじく候故、御高札へ駈け付
け候内、追々庄馬場の者共、財を持ち牛馬をひき泣さ
けんでたち上り候に付、何事に候やと相たづね候へは
津波と申候に付、直に御高札場へ駈付候へは洪波の由
にて潮、往還下町下の田まで参り土井は往還に潮深さ
三尺程溢れ候て、引潮の節、駈付け候に付潮溜り候処
へ足を入れ候へは、常の節よりぬくみに有之候、其内
又沖の方、鳴り渡り山の如くに潮波を巻き上げ来り候
に付、早々にたちのき候処、其節は右の所より少し下
まで参り候、もっとも三度の波に候処、中の波大波と
相見え候(以下略)
 守山村関係のことをつけ加える。ここに熊野神社があ
る。正徳二年(一七一二)に改築する前、村内土井から
[熊野原|くまんばる]に鎮座したことになっているが古記録が保存され
ていない。それは寛政四年四月一日、書類を携えて島原
城下猛島神社に参籠していた神職[錦戸|にしきど]備前頭秀友氏が
この大津浪に遭遇し紛失したといういい伝えがある。
 大津浪によって溺死した人々のうち、親戚知己のわか
っているのはそれぞれ引き取って埋葬した。海に投げ出
されて波に引かれ一度沈んで水ぶくれとなって浮きあが
り、干潮で流され満潮で押し戻されて海岸にうちあげら
れた、どこの誰やらわからぬ死体を集めて合葬したのが
多比良・湯江・三会・田町海岸・快光院・安養寺・浄源
寺・善法寺・中堀町角・崇台寺・江東寺・護国寺・桜井
寺・安徳・布津・西有家・南有馬・加津佐⑵・南串山⑶
の二十二ヵ所。供養碑の書体は同一人の作とみられる。
書者不明。この死体には熊本人もあったし、熊本沿岸に
うちあげられたのには島原人もあったろう。口之津町白
浜海岸松原のは、キリシタン墓と並べて立ててある。
溺死無縁塔
流死者菩提供養塔
である。千人墓、無縁墓ともいう。
 これは寛政四年七月十五日の盆祭にあたり、城主松平
忠[憑|より](七代)は城主の菩提寺である瑞雲山本光禅寺で、
溺死者の霊を慰めるため施餓鬼をおこない、合葬した所
に翌年、供養碑を立てたのである。
 更に翌年の四月、藩の指令によって、城下船倉地帯に
浄地を選び[回向|えこう]堂が創設され、多福軒という僧に命じて
永代供養をなさしめた。高島観音堂がそれである。島原
半島三十三観世音の第五番。
 雲仙の真言宗一乗院も、中堀町角に供養塔を立てて諸
霊の瞑福を祈った。ここらあたりは大変前の船付場、荷
揚場になっていた。松倉重政が島原城を築く時、南有馬
の原城、北有馬の日野江城、有家、深江、安徳にあった
古城の石材を船で運ばせてここから揚げたところであ
る。
 熊本の玉名郡、宇土郡、[飽託|ほうたく]郡、天草郡にも十八ヶ所
に供養碑が立てられている。西端は富岡の鎮道寺前と天
草町の高浜にある。苓北町の都呂呂には両肥溺死塔があ
る。本渡では男女別々に埋葬したという。島原城では生
き残った領民と、島原藩で統治していた天草民一万二千
七百一人および、被害者救洫に物資をとどけてくれた豊
前豊後(大分県国東郡と宇佐郡のうち)の島原分領民に
は、それぞれ酒肴料を配らせて災害復興の労を謝した。
 権現山の霊丘神社はもと東面であったが南面にして再
建、猛島神社も復興、流れたり破損した寺院の復建も認
めたが遂にそのまま絶えた寺院もある。
 白毫山桜井寺は慶長十八年(一六一三)、原ノ城主十三
代有馬直純が徳川家康の孫にあたる国姫を妻とした後、
江戸から浄土宗の幡随意を招いて建てた寺であった。江
東禅寺は永禄元年(一五五八)有馬氏十二代晴信の弟が
出家して、[宣安明言|せいなんみようごん]和尚となって北有馬村田平に開山し
た。
 そして島原城ができてから移り来り、城主松倉氏の菩
提寺になっていた。
 その二つの寺のあった所(桜井寺は北、江東寺は南)
が地殼の変動によって陥没し、大津浪で寺が流れたあと
ドンドンドンと水が湧き出し、付近の湧水も加えて湖と
なったのが白土湖である。
 周囲二キロにおよぶ湖となって、いたるところから流
れ出るため、人心安定を待って近村の農民を城主命令で
集め、各村の作業区を定めて川を掘らせた。権現山の方
にまっすぐ川を掘れば流れが急になる。湖の貯水にも影
響する。そこで高島町の方に北向けに掘らせた。傾斜が
ゆるいので川音がしない。それでこの川の名は音無川に
なった。そのハケ口は權現山の東、長浜との間を掘り切
り大手入海の出入口ともなった。もとは大手川(鳴川)
の流れ口であったのを大きくひろげた。この出口を長浜
に設けると大潮のときは、大手広場まで海水がのしあが
る。
 もひとつ、守山村庄屋日記の一節を紹介しよう。それ
は四月一日の眉山大崩壊のとき、城下上ノ原で菜種の番
小屋もろとも、松ノ木も植わったまま、そして人もその
まま、約三時間余もかかって十五、六町ばかり地すべり
して、気がついてみたら海の近くであったという話。こ
れは守山村庄屋が自分の眼で見たのでなく、あとで人か
ら聞いたのである。金井郡長の島原大変記にもある。こ
の日記を読んで書いたのである。
島原上ノ原の者に菜種を苅置候に付、番屋をしつらひ
[朔日|ついたち]に暮頃より畑の中に番致し居候処、右の大地震に
付、恐れおのゝき番屋の内に打臥居候処、方々に泣さ
けぶ声すごく聞へ候に付、いかなる事に候や鳴動震動
すさましく生たる心地もなく打臥居たる処に、四ツ半
[比|ごろ]と覚しく、世間少し静り候に付番小屋にはいより世
間を見るに、星明りにすかし見れは山の様子大にかは
り、元の畑も菜種は有なから方角様子大にかはり候に
付、こはいかにと思ひ恐ろしながら外へ出て見れば汐
の音間近に聞へ候間、能々相考へ候へは暮頃来り候畑
より遙かに海中と相見へ候に付大にあきれ、漸く明方
に成候処、番屋も其儘にて十五六町も海中へ押出され、
漸く翌二日助命致候由、是等は誠に不思議と存候へ共
又左にあらず、吹飛たる山々に小松中松等有之候へは
可有事かと存候。(原文を少し改めた。)註=四ツ半は
夜の十一時。
島原城首席家老、板倉八右衛門勝彪は国文学と歌道に通
じていたが、その著に「寛政大変記」がある。十三歳の
時に体験したことをあとで書いたのである。
(前略)寛政三とせといふ年の秋も過、やゝはださむ
くなりゆく冬枯のころしも、をりをり地震ひ山鳴りし
て何とはなけれどもおのづから人こゝろをちゐられ
ず、あやしとのみかたりあひにたり。ひまゆく駒はとゞまらで、いつしか其年もくれて、あら玉の初春といふ
睦月中の八日、[烏羽|うば]玉の夜もふけゆくころ、普賢山の
頂上に湯煙たち出でたり。こはそもいかにとあやしみ
て、山守る役たちをはじめ人々登りてみれば廻り幾ほ
どゝいふ限りもしらず、泥砂みなぎり涌返り煙を吹出
し火石を飛して響きわたれる音、さながら雷の如くな
りとぞ。たちのぼる煙は雲井につらぬき、よもに散て
は久方の空をもおほひたり、こはそもいかにと公をは
じめたてまつり、しも民くさに至るまであやしみあへ
るもあまりあることにこそあんめりけれ。かくて如月
六日には此山の中程なる魯木山てふ麓の深き谷間より
又こそ煙立て火石あらはれ出たれ、幾もゝひろとも知
らぬ谷底に火本を発して焼落る焰は夜の空にかゝやき
て、おふし上り下り三十町余りやけたり。さばかり深
かりし谷も焼石もて埋りて岡とぞなりぬ。くぬちは更
なり近き他国の人々まで是を見んと打つとひ夜となく
昼となく登りくだりに行き交ふ。をのれも交りて見る
に火石の飛さま中々に拙き筆にかいおふせず、かゝる
中に又も弥生ひと日よりいといとう山鳴り地震ひ日毎
よごとにいやまさりはげしく、成行まにまにあるは地
の底にしておほきやかなる鉄砲もうつばかりの音し
つゝ震ひぬれば、人皆おほくは家の住居なりがたふ身
のほとほとに仮屋をしつらひたり。大地そこかしこに
割れ堀石垣など震ひ崩し、人々心もそらになりてすむ
べきかたもなきこゝちにさはきまどひぬ。
 公いみしう御心をくるしめ給ひ、北目筋の山里は山
遠く隔てぬれば諸士のめこらは立のかせと仰ごと有り
けるにぞ心々に立さりぬ。さてわざさひの至らぬ時の
あらかしめ備へをなし給ふ。海上にもあまたの船よそ
ひして旗印などをし立たり。これを見きく市人ら老ひ
たる親を肩にかけ、子を抱きあるは手を引つれてこけ
つまろひつ、にげ迷ふ。そが中に病人は「ふご」とい
ふものにのせてあはてふためき行きたるは中々に目も
あてられぬさまぞかし。
 かくて日を重ねぬれども火もふらず、水も出ねば、
いつしかとなく、人皆をのが家にぞ立ち帰りぬ。これ
ぞ運の尽きたるとは後にぞ思ひあはされける。されば
卯月ひと日たそかれ時も過る時、殊につよく地震ひけ
るとひとしく前山頻りに鳴りわたり、南の方峰より麓
まで裂け割れて山水みなきり出、山は飛て海に入、数
もしられぬ島となり、海よりは洪波打寄せ、城のもと
東より南に建つゞきたる数千の町家、神社仏閣一宇も
残らず、只つかのまに押流し人はみな波に溺て死する
中に、大手門に打寄せたる大木大石堂塔人家ながれ重
なれる下におされて数千の人の苦しむ声、助てよと泣
き叫ぶもありて聞く人さへに胸つぶれたりとぞ。かゝ
りければ助けの人々立出て、力のおよぶ限りものしけ
るに、からき命をたすかるもありけり。
 何くれと立さはぐまに夏の夜の程もなふ、しののめ
のほからほからと明けゆけば、をのれも立出て城の南
なる武者走りより見渡したるに、前山はあらぬ姿に裂
け、きのふまで建つゞきたる家並は絶へて目なれぬ山
ばかりまのあたり出来ぬ。こはそもいかにとあきれは
てたるばかりなり。(下略)
 島原大変のニュースは熊本方面にひろく知れわたっ
た。熊本も被害地であったからである。ところが数日の
後、熊本の百貫港から出た千石船が三隻、米と粟の俵を
載んで島原沿岸に陸揚げして引き揚げた。島原藩庁は奇
篤な救助物資だとて、直ちに肥後の城主細川家に礼状を
出したところ、細川家では誰が持って行ったか知らぬ。
調査の結果、飽託郡の泉屋という米穀商がこの美挙に出
たことがわかった。細川藩は泉屋に賞状を与え、下駄を
はいて歩いてもよい「木履御免」の待遇にしたという話
が残っている。天草の大庄屋が書き残したものに
 寛政四壬子三月上旬屢々大地震アリ四月朔日島原
(眉山)大爆発大津浪、本郡ニ於テモ被害甚大、溺死
者四百余人、十八ケ村ニテ四百両幕府ヨリ借入、五月
十四日島原城主逝去、嗣子主計頭相続、主殿守ト改名、
七月九日上村遍照院、大浦村九品寺ニテ津浪死亡者追
善施餓鬼会挙行。
昭和三十七年三月、本渡市教育委員会発行の「天草の歴
史」一五四頁に「恐るべき雲仙くずれ」と題し島原大変
のことが書かれている。
 さて享保五年から文化十年にかけて、天草は島原藩の
預りとなっている時代であった。その寛政四年(一七九
二)のことである。この年は三月の初めから大きな地震
がくり返し起こっていた。ことに島原はひどい地震だと
いう。三月五日に島原から到着した飛脚によれば、かの
地はみな家をとざし、船で避難しようという人でもって
大混乱だとのことである。また島原では薪が不足してい
るゆえ、さっそく薪を調達して送るよう命ぜられた。
 そして四月一日。雲仙岳の前山(眉山)が大爆発を起
こしたのである。山はくずれ、岩や石はとどろきながら
有明海になだれ落ちた。島原沿岸の被害ははかり知れな
い。しかも対岸の肥後藩の海岸をはじめ、天草郡の北岸
においても、恐るべき災害をもたらしたのである。島原
藩の死者は九千五百、肥後藩の死者は四千六百。天草で
は島原に近い大矢野島が最も大きな被害を受けた。つい
では上島および下島の北部である。かくて被害のおよぶ
ところは十八カ村、死者は三百四十人を越した。世に「[温|うん]
[泉|せん]くずれ」と云われるものが、これである。
註=享保五年は(一七二〇)、文化十年は(一八一三)
天草年譜(松田唯雄著)より
寛政四年
△三月一日 昼八ツ時(午后二時)より大雨、七ツ時(午
后四時)より大地震、夜五ツ(午后八時)頃まで十
三度襲震、夫より連日、日々夜々地震止まず
△三月五日 昼五ツ半時(午前九時)、七ツ時、四ツ時(午
后十時)頃と三度大地震、甕の水ゆりすたる程なり。
是日、島原表より役所に飛脚到来、彼の地は猶更地
震甚く、家中町家とも戸を閉ざし、船に乗じて脇方
へ立退きの大混雑とあり
△三月六日 島原藩主御機嫌伺の為め、郡中大庄屋惣代
大矢野組大庄屋吉田長蔵、町役人惣代庄屋(荒木)
市郎左衛門、渡海の事に評決、役所に屈出で許さる
△三月六日 富岡町庄屋(荒木)市郎左衛門、役所よりの
召しにて出頭の処、地震騒ぎにて島原表薪不足の由、
当所大坂屋甚三郎持船、米積込み明日出帆の筈ゆえ、
町方より薪買入れ右船にて積廻し方手配すべく命ぜ
らる
△三月七日 町庄屋、早朝より出来町八兵衛方へ出張り、
同人持合せの薪千五百杷を調達、町人足を以て船積
みにかゝり七ツ時西風に乗じ出帆さす
△三月十二日 地震少しは薄らぎしも、十五日頃猶も昼
夜四、五度ゆすり、晦日まで同断なり
△四月一日 是夜六ツ半時、島原温泉岳大爆発、対岸肥後
筋、並に天草東筋一帯に津浪襲来し、流失家屋、溺
死者、其他の被害甚大
△四月二日 是筋吟味方にて郡中一巡を了し、富岡滞陣
中の出役人、郡奉行川村筋右衛門、大目付服部半兵
衛等、島原表の様子心許無しと、町庄屋に船手配を
命じ、同庄屋も同船にて八ツ時出帆、急遽島原に向
ふ。是日、島原藩主城を立出で、守山村庄屋宅に入
舗あり
△四月十九日 島原藩主、城見廻りの為め宿所を出で巡
視、翌廿日発病す
△五月十四日 是日寅ノ刻、島原藩主松平主殿守忠恕卒
す。即ち郡中触達の日より諸事慎み、月代は三七日
間遠慮、音曲停止五十日間と申合はす
△五月十六日 富岡町役人中、出入町人一同、役所へ罷出
で御悔み言上
△五月〇〇日 公儀より金子四百両借入れ、温泉崩れに
当郡被害の十八ヶ村へ割当て附与す
△六月十二日 郡中惣代その他の面々、御悔み言上の為
め島原表へ渡海す。即ち遠見山方惣代牛深附遠見
番 青木要四郎、大庄屋町役人惣代、久玉組大庄屋、
中原新吾、富岡町年寄 田中喜左衛門
自分行きの分
富岡附山方役(江間新五右衛門)、大矢野組大庄屋(吉
田長蔵)、富岡町大庄屋(荒木市郎左衛門)、富岡町
掛屋(米屋市左衛門)、同銀主(大坂屋甚三郎)、御
領村銀主 松坂屋勝之丞、牛深村銀主(萬屋勘七)
右の面々、同十四日島原城三ノ丸に罷出で御悔み言
上、掛り役人中村小源太これを請け、一同杉谷村庄
屋宅に引取り、此処にて弁当の饗応にあづかる
△七月九日 是日、上村遍照院並に大浦村九品寺にて、島
原津浪死亡者の追善施餓鬼会挙行され、遍照院には
公儀より白銀十枚、九品寺には白銀五枚、夫々下賜
せらる
寛政七年
△四月十日 島原雲仙崩れによる津浪溺死者の三年忌に
付、富岡にては寿覚院末庵西生庵の境内にて、大な
る自然石の万霊塔を建て懇ろに追善供養す
寛政十年
△四月〇〇日 島原雲仙崩れの七周忌に会し、当時高浜
村へ漂来せる七員の溺死体が海岸に仮葬の侭なるを
以て、同村庄屋上田源作、衆に計りこれを隣峰庵境
内に移葬して厚く供養し、群霊海会之塔を建てゝ冥
福す
 被害は島原人が知って始めての天災であった。沿岸を
洗われた二十三カ村や城下町ばかりでなく、領内各村の
家屋破壊、石垣くずれ、崖くずれ、道路や田畑の整理、
港の修理など復興には大きな経費が必要であった。
 慕府は島原城主忠憑の上申により、復興費として十
年々賦で二回にわたり一万二千両を貸した。寛政五年か
ら享和二年までの間に返金しなければならなかった。下
新丁に住んでいた祐筆、天野銀左衛門氏が書いた「大変
記」によると、八月十二日付で拝借申請書は幕府の老中、
松平伊豆守に提出された。
 それにより江戸城中で閣議にかけられ、災害報告書を
検討した。地方藩に対し幕府が金を貸したことは今まで
に例がない。ただし徳川家の末流ではあるし突然の災害
である。それに城主も死んでいる。とて特別の評定で貸
すことにした。即ち十一代将軍家斉の名で其方領分当四
月山崩並高波にて数ヶ所荒廃船付その外も亡所に相成殊
に人民の死亡多分の事と相聞へ実に稀なる損害の様子に
候手当諸普請萬端の儀家督始めの儀にも候へば格別難儀
なる可く思召され候これに依って金一万両拝借仰付られ
候全体領分損毛などに付いてはすべて拝借を仰付け筋は
これなく候併し格別の変災に相聞へ候間先だてる亡父に
当分の御手当もなし下され候事には候へども城下再興同
様大造にて相聞へ家柄の儀にもこれあるに付き旁々格別
の思召を以て尚又拝借の仰付けの儀に候間其の意を得べ
く候此度の拝借金返納の儀は来る丑年より十ヶ年賦上納
致さる可く候尤も委細の儀は御勘定奉行え承け合いなさ
る可く候
裁定は九月である。丑年は寛政五年。
 島原城から十六キロ離れた多比良村沿岸の復興だけで
も、一千両を要した。民家その他の復旧はある程度でき
たが流された釣舟までには手が届かぬ。多比良村の豪商
松本清左衛門さんは、見るに見かねて釣舟十六隻を熊本
の[八代|やつしろ]に注文した。
 八代の舟大工は一度に十六隻もの註文は初めてであっ
た。島原大変のことを知り昼夜兼行で造りあげ、一隻加
えて十七隻を送り届けて来た。漁民は大喜びであった。
それで漁から帰るたびに感謝の心を添え、ガネ(蟹)を
一匹づつ清左衛門さんに捧げたのである。十七人が一匹
づつ下げて来ても十七匹、ガネばかり食いなさったであ
ろう清左衛門さんは、もう持って来るなといった。それ
ではというのでガネのうち、最もウマイ部分である鋏ん
ぼを一本づつ持ち寄って、恩に報ゆることにした。それ
で多比良ガネは、鋏んぼが一本ないまま売られることに
なったそうな。多比良町では昭和十六年四月二十六日、
百五十忌祭執行。
 市内桜町の[法性|ほつしよう]山浄源寺(浄土真宗)に保存してある
記録によれば、次の人たちが大津浪にさらわれて死んで
いる。
 十一代大鎮、寛政四年四月一日流死(浄善院釈泰山)
母(西昭院釈妙項大姉)=西郷村庄屋宮崎七郎左衛門娘
=妻(放光院釈妙庭大姉=三室村庄屋竹添治右衛門娘=慶順(当寺娘しの)妙誓(当寺娘なお)妙照(当寺娘と
み)恵秀(当時弟子)(ママ・寺カ)
とあって住職以下七人。檀家では(注、以下、法名(名
前)一四九人省略)
浄源寺の隣の経坪山安養寺は、息子二人が助かって住職
以下檀信徒の死者は三百一名であったことが、過去帳に
書きしるされている。
 江東寺の十四世天外宗栄和尚と、隠居していた十二世
道淵大中和尚および二十数人の役僧も共にこの厄に遭
い、ここで法脈が断絶した。従って過去帳も中絶しこの
ときの被災死者の氏名も書き残されていない。古い過去
帳はあとで土中に埋まっていたのを発見、シミがついた
まま保存されている。
三 会中野の無辺山専光寺(高田派真宗)の七代住職、
専綱以下三名の僧が檀信徒ととも被害、八代の専実は天
草郡東禅寺の三男が養子となって後を継いだ。瑞穂町の
円福寺には城主の愛妾や子の位牌を預けたまま現在もあ
る。
 大手の清水家(枡屋)では娘一人が助かった。隈部家
(新町別当)から養子を貰い後継者とした。三会町(上
ノ町)の宮崎暦蔵氏の両親は愛津村(愛野町)に避難し
ていた。事件後、島原に帰ったところ眉山崩れであちこ
ち小山ができていた。それで生れた子に「出来蔵」と名
づけたが、あとで暦蔵と改めた。
 浄源寺の過去帳は一例であるが、被害地でいかに多く
の死者があったかは市内十四寺院の墓地だけでもわか
る。寛政四年四月一日と刻まれた墓がまことに多い。死
体が熊本沿岸などにうちあげられ、遺骨のない墓もある
筈である。
 城主松平六代忠恕は守山村に避難中、四月一日の大災
害に心痛やるせもなかった。連日ひきもきらず、災害の
状況報告が家老から届けられた。ようやく興奮がおさま
った十九日の朝、騎馬で城下を視察した。途中、道路が
なくなっているところは、畑を越え、崖を踏み登って馬
を進めた。
 報告よりもひどい損害の大きさにおどろき、おのれを
忘るるばかりであった。城下町の家はことごとく倒れ、
流れ去り、世も末かと思われた。城下の者が城に逃げ込
まんとしたとき、誰かが大手門を閉ぢたため、思わずも
多くの溺死者を出したことに話がふれ、忠恕の眼から大
粒の涙があふれ出て止らなかった。城の石垣もあちこち
壊れていた。守山村庄屋の日記によれば
 十九日 御城内御見廻り御発馬仰せ出され卯ノ刻(午
前六時)当村御乗出し遊ばされ候
行列左の通り。
御先乗、川鍋次郎左衛門様
御前様(城主忠恕)、御用人、大岡五郎左衛門様、大目
付、大塩伴左衛門様、御家老、羽太十郎左衛門様。
御前様、御菅笠、羽太様、御菅笠、余りの御三人は陣
笠御羽織御踏込也、御医師小国良庵様は御駕也、御同
勢徒歩御供少人数也。
御先露払二人、[乙名|おとな]二人と庄屋は三室村堺まで御先立
仕候。同日巳ノ刻(午前十時)星野小十郎様、御跡よ
り早乗にて御様子伺ひのため御越也。御道筋は当村よ
り大野村までは往還(藩道)を御通り、池田より中通
りを過ぎ三之沢村庄屋(金子氏)にて御昼休み遊ばさ
れ、御城内御見廻相済み大手門外に御床机を立てられ、
しばらく町家の流れ跡、前山が崩れて出来た山など御
覧なされ御落涙なされ候由、聞くところによれば側に
居た家老もその他の者も御心中を察して、涙止り申さ
ず候也。(中略)申ノ半刻(午后四時半)御帰村也。大
塩様は御老体にて御馬乗免の由、御帰りは御駕籠に相
成候也。
二十日午ノ刻(夜十二時)頃より(城主)少々御癪気
に入られ候由にて、御医師替る替る御伺の御様子に御
座候
 (中略)二十六日御病気いよいよ御大切の様子にて、
御座敷殊の外御物騒に相見へ、御医師は申すに及ばず、
流れ残りの町医の面々まで相詰め、手に汗を握る思い
を致し候へ共、天変により多くの人命を失ったことに
対し御悲歎を片時も御忘却遊ばされず候哉。星野小十
郎様を召され島原の様子はその後どうなっているか見
届けて来るよう仰せ出され候由にて、巳ノ刻(午前十
時)頃に直ちに御乗出しにて馬を飛ばせて御出に成り
候処、同日酉ノ刻(午后六時)御帰村にて御門前にて
馬より下り直ぐに御前へ御出也。
同日も三会、島原御詰の御老家老以下、我も我もと御
越也。御道中の様子は前日の通り也。在勤の方々へ急
登城の御[触|ふれ]にて御家老以下御登城に付、御供の面々大
騒動也
 かくて二十七日「御病気御養生叶えられず、今朝寅ノ
刻(午前四時)頃、事切れなされ候也。
さてさて恐れ入り言語に絶する事ともに候」とあって、
発病後七日めに生涯を終ったのである。復興の困難さも
さることながら、純情であった彼は城を留守にして難を
避けていたことの自己反省と、後日において幕府の叱嘖
喚問をうけることを思えば悩みはひどかった。幕府は罪
をとがめて城地没収を宣告したかも知れぬ。
 金井俊行郡長があらゆる参考文献といい伝えをもとに
して書いた「島原大変記」の一節をもう一度引例する。
 四月二日 藩庁は急に令を下し、領内各村の人夫を
集め、市街清掃に着手し、死屍を埋め、土石を除き、
道路を通す。翌三日に至り軽囚をも使役せり、温暖の
候なれば、未だ葬らざる死屍の腐敗し、悪臭を発し、
人夫これに従事するを圧したれば、賃銭を増し酒をも
給せり。
浄源寺、安養寺境内その他数ヵ所に大穴をうがちて死
屍を埋む。これを百人塚と称す。その実千人ばかりを
埋むといふ。当時、市街に哀狗多くして死屍を食ふ。
夜に入りて歩行する者、或は犬に嚙まる。人夫の困難
は犬と悪臭なりしと。
宅地の跡をうがちて、金銀器財を得る者あり。また流
し残りの空屋に入りて衣類を盗むあり。或は死屍の付
帯せる金銀を得る者ありて、昔日赤貧なりし者、俄に
富者となりたるあり。
四月十九日 城主は城内外を巡視し、即日守山村に帰
る。
四月二十七日 領主松平主殿守忠恕、守山村に卒す。
行年五十一、五月十四日喪を発し六月十七日島原村本
光寺にて火葬し、二十八日骨を三河国[深溝|ふこうず]に送り本光
寺に埋む。
忠恕は安永三年、下野国宇都宮より転じて七万石を領
す。本年一月以来の地震に、心労すること少なからず、
守山村に避くるに及び、家中はひそかに幕府がその城
を去りしを責めんことを恐れ、種々議する所あり、四
月十九日城内を巡視するや、大手門前に至り市街の災
場を見て涙下り、左右仰ぎ見る者なし、翌日、俄に病
を発し危篤なり、或は言ふ。幕府の譴責を恐れて自殺
せりと。
 金井郡長も自殺説をとっている。守山村の旧家、島田
家に伝わっているいい伝えも自殺である。島田家は庄屋
の近くであった。二十日の深更、中村庄屋からあわてて
呼びに来た。
殿サマ、重態。
そしてあとで口止めされたというのである。七月十六日、
忠恕の子忠憑が城主になった。
 島田家からは松平二代忠雄城主時代の享保十二年(一
七二七)、島田平右衛門嘉成が三百五十石馬廻役として島
原藩臣になった家柄である。戦国時代は豊後(大分県)
下毛郡の島田城主であった。島原ノ乱では浪人組の指揮
者となって戦死、その子が守山村に土着した。柳川城主
の立花家と親類筋になる(島原新聞社長清水強氏の実母
は島田家の出)。
 島原藩臣であった人の子孫のなかでは、忠恕の自殺説
を否定する者があるが、城主の体面を披護することから
であろう。性来、苦労の多かった五十一年の生涯であっ
た。先々君の忠刻が参勤交替の途中、防府(山口県)の
旅先で急病死した時、彼はまだ幼少であった。
 兄の[忠祗|ただまさ]があとを継いだが、若年であったため長崎港
の警備、豊前と豊後(大分県)の分領と天草郡や五箇荘
の離れ委任統治領地を持つ島原城主として、全九州各藩
のお目付でもあった。
 治政に事欠くこと多しとみた幕府の指令で宇都宮に移
されたものの、忠祗が多病であったことから宝暦十二年
(一七六二)家督をついで深溝松平家十一代となり、島
原を去って二十五年めの安永三年(一七七四)再び島原
に移った忠恕であったが、着封後十九年めにこの災害を
受くるの運命に遭遇し、その故に生涯を閉じたのであっ
た。
 長崎港出島のオランダ館長、ピイトル・テオドウリス・
サッセ氏は島原城主に対し、火山について説明し地震予
報などのことを述べたことが、長崎の郷土史大家、故古
賀十二郎氏が書いたのにあるが、忠恕はこれをどれほど
の参考にしたであろうか。
 眉山は城主まで死に到らしめた。恨み多い雲仙火山で
ある。されど桜門で死をもって諫めた川井[利強|としかつ]の言を納
れていたら、こんなことにはならなかったかも知れない。
凡俗すべて先見の明を欠く。常に聖賢の教訓を身に体し
ておれば、必ず大難を小難でのがれ得たことが、史実の
上にある。
 藩庁では「急病死」という発表であった。火葬して遺
骨は祖先の地である愛知県額田郡[深溝|ふこうず](幸田町)の本光
寺に埋葬した。この寺にはまだ一度も私は行っていない
が、忠恕の墓碑だけ、他の代々の城主のに比べて小さい
という話を聞いた。とすればその死を憚かったのであろ
うか。
 城下万町の中山要右衛門は、そのころ十八歳であった。
伊勢神宮参りに行っていて大阪でこの事件を知った。江
戸に向う飛脚が大声で宣伝したのを聞いたのである。お
どろきあわてて旅を重ね、帰ってみると城下町の家はほ
とんど流れ去っていた。
 北目に持っていた農地を抵当に現金をつくった。借金
もした。筑後(福岡県)からは瓦を、熊本から材木と釘
を取り寄せた。復興資材を積んだ船が毎日、柳が浦に入
って来る。暴利ではなかったろうに、かくて要右衛門は
資産家になった。
 寛政四年から三十年すぎた文政五年(一八二二)、古町
別当(町年寄)中村太左衛門屋敷で井戸を掘っていたと
ころ、地下から墓石が出た。それは江東寺の墓地に立て
てあった島原ノ乱で戦死した幕府名代第一司令、三河(愛
知県)中島城主であった板倉内膳正重昌の墓であった。
ここまで直線二百㍍ほど、津浪にひきずられて埋ってい
たのである。
 江東寺第十五世[実言|じつこん]和尚は、山田村(吾妻町)沖の三
ツ島の石材で、文化十一年十二月新らしく墓を立ててい
たが、これも並べて立てた。それで江東寺にある重昌の
墓は二つある。島原城を築いた松倉重政の墓もあとで発
見されたので二つ立ててある。
 かくて市街地はどこを掘っても飲料水が湧き出すが、
それまで各戸や共同で使っていた井戸が寛政四年三月一
日から、急に涸れてしまったのは中木場村地帯であった。
地殼の変動による。
 あわてた村民は大地震の興奮も忘れて、あてもなく十
八ヵ所も井戸を掘ってみたが徒労であった。庄屋の下田
氏は連日連夜、水を求めて策を講じたが水源はない。雨
を貯めての生活が続いた。一キロも離れた谷水を運んだ
家もある。
 九年を過ぎたある夜、下田庄屋は夢をみた。水がドン
ドン湧いている夢。霊感であろうか。夢でみた泉。暁を
待ちきれず、息せききって駈けのぼり、仁田峠の麓から
湧いて湧いて流れる川を発見したときの庄屋は、狂わん
ばかりの喜びであった。
 こころゆくまで飲んだ。うまい水である。ジャングル
を押しわけ押しわけ、血まなこになって探したのである
から、足や手には搔き傷の血がにじんでいた。彼は涙ぐ
んで天を拝した。いのちの水。
 急いで駈け戻り、非常用の警鐘をうちならさせて村民
を集め、泉の発見を報告した。翌日早朝、各自農具を持
たせて、泉湧くところから掘って水を流したが、地中に
吸い込んで流れない。止むなく竹樋の製造に着手、長々
と竹樋によって水が流れくだった。延長約五キロ余。
 これが木ノ[樋|とい]になったのは、事件後二十九年めの文政
四年(一八二一)である。当時の人口は男八八八、女九
一九、戸数七七四(小屋を含む)、まっすぐな、直径三十
センチほどの赤松材が集められた。えぐり抜いて樋とし、
つなぎ合せて水を流したのである。四月から九月まで[樋|とい]
作りが続いた。城主八代松平忠[侯|のり]は銀三貫匁と樋材七十
本を補助した。
 庄屋吉兵衛氏三代は、安政四年(一八五七)これを石
材と[漆喰|しつくい]で改修した。総工費六十五貫二百三十匁、村民
の拠出もあったが庄屋は私財を投じた。明治二十七年一
月十七日、
下田吉左右
夙ニ志ヲ公益ニ励マシ 祖父ノ遺緒ヲ継キ水道ヲ改修
シテ該村飲料ヲ充足シ 又新港ヲ開キ道路ヲ修シテ運
輸ノ便ヲ通スル等艱難経営其ノ成績尠ナカラス 依ツ
テ為其ノ賞銀盃壱個下賜候事
とて賞勲局総裁従二位勲二等侯爵[西恩寺公望|さいおんじきんもち]並びに賞勲
局副総裁従二位勲一等子爵[大給恒|おぎゆうひさし]の名で、吉兵衛を[吉左|きちざ]
[右|え]と改めていた十九代下田氏は表彰された。大阪女子短
大学長、下田吉人氏はその子孫である。
 明治七年から三十余年にわたり安徳小学校長であった
大場[新|あらた]氏(元治元年生れ、昭和二十二年一月五日歿、八
三)=安徳鎌田丁一二四二番地=は昭和五年六月七日秩
父が浦公園を無償で一般に開放した人であるが昭和十三
年六月、安徳駅から二百㍍ほど上手にある寺松山に寛政
四年の島原大変で不慮の死を遂げた人々の慰霊のため私
財をもって供養碑を建立した。石材は佐賀の唐津産。そ
の趣意書は
( 前略)回顧スレバ今ヨリ百四十六年前ノ寛政四年四
月朔日ハ 我が島原半島ニ於テ古今未曽有ノ大震害が
アッタ 数十日前ヨリ絶ヘズ微震アリシガ同日夜来ニ
強烈ナル震動ヲ増シ 払暁頃ニ至リ其鳴動ハ万雷ノ一
時ニ落下セシカト疑ハレ 又黒煙蒙々一天ヲ覆ヒ其ノ
凄惨ノ状実ニ言語ニ絶シタが 遂ニ眉山ノ一角が爆発
シテ遠ク海中ニ投シ瞬間ニシテ島原港九十九島ヲ現シ
タ 亦東北に位スル島原市街の大半 我ガ安中村北
部々落ハ田園人畜建造物等悉ク其ノ崩壊セル土砂ノタ
メ深サ数十尋ノ下ニ埋没シテシマッタ 亦其ノタメ高
浪トナリ対岸肥後宇土天草等迄波及シ 我が半島北ハ
西郷村 南有馬村ニ至ル各村落が其高浪ノタメ悉クサ
ラハレテ仕舞ツタ 伝説ニ依レバ其数肥後ヲ合セ五万
人ト言ハレテ居ルガ其死体ハ累々トシテ海岸ニ漂着シ
最早糜爛腐敗シテ誰人ノ死体ナルカ之ヲ判別スル事が
出来ズ随所ニ坑ヲ掘リ之ヲ一所ニ集メ塔ヲ建テタノガ
各所ニアル流死菩提塔デアル 廃藩後ハ誰トテ之ヲ弔
フ者ガ尠ク無縁仏トナッテ居ル状態デアル 偶々其碑
前ヲ過ギル時ソレニ刻ミタル碑文ニハ青苔蒸シ 其周
囲ニハ雑草が生茂リ一束ノ花 一縷ノ香火ノ煙サエ絶
ヘテ居ルノヲ見テ実ニ諸行無情ノ果敢ナサ 人生ノ憐
レサホトホトト感ジ万斛ノ涙ヲ注ガザルヲ得ナイ 鳴
呼我が尊キ祖先ノ霊ハ永ク無縁仏トナリ幽介ニ於テ憂
愁悲哀ノ淵ニ沈ミテ居ルノデアル 之ヲ慰メ之ヲ弔フ
ベキハ後裔者ノ祖先ニ尽ス道義デハナカラウカ 吾人
往年 秩父ガ浦公園開発ヲ発起シ指導者ノ設計宜シキ
ヲ得タルト江湖諸彦ノ援助ト役員各位ノ活躍トヲ俟チ
今日ノ名園トナッタノデ数多ノ遊覧客が殺到シテ来テ
其ノ山紫水明ノ風光ヲ歓賞シテ呉レルガ此ノ公園が其
ノ震災ニヨリ海中ニ飛ンダ島嶼ヲ整備シタノデ出来タ
然シテ多数ノ我が祖先が殉難シタトイフコトヲ説明ス
ル時ニハ全クソレニ耳ヲカサヌ人ガ少クナイ 世ハ次
第ニ唯物的思想ニ捉ハレ軽佻浮薄ニ趨リテ信仰道義ガ
次第ニ薄ラガントスルトキニアタリ 益々其ノ必要ヲ
痛感シタノデアル 依ッテ吾人ハ 安中ノ字 寺松山
ニ墓地ヲ相シ一大慰霊塔ヲ建設シ永ク其ノ祭祀ヲナス
ト共ニ(後略)
この慰霊塔の落慶式には当時の長崎県知事川西実三氏、
安中村長松田重次郎氏その他多数の来賓が列席して追憶
をあらたにしたが、式に先だち長隆山徳法寺(浄土真宗)
の仏教婦人会員三百(会長は大場新氏夫人スヨさん)は
安居院紹隆住職(当時三十八歳)を先導に、枯木浜を出
発点とし安徳地区の海岸を遍路してお経をあげながら、
霊を呼び集めては式場に向ったのである。
 寛政四年ごろの戸主は大場新五衛さん(七一)であっ
たが、突如として襲い来った大津浪に逃げるひまもなか
った。奥さんのリツさんとともに流されゆく家の中から
 さらば さらば サヨナラ
と手をふりつつも闇に消え去ったという。(大場新氏五女
レイさん=安中郵便局長大場栄氏夫人の話)
 安徳の中南下の国道から四百㍍ほど下れば海である。
古瀬亀治収入役氏所有水田地先の磯に、まわり八㍍ばか
りの楠の根株がある。[牡蠣|かき]が付着している。このあたり
にほかにもあった由であるが、砂が波にあらわれて露出
してから、鋸で切り取り、これで床の置物を彫刻したり
カシ網のウキに使った者が多かったため、僅かに痕跡を
止めてこれが一つある。松の古株もあった由。要するに
現在の海岸から百㍍ほど沖までは陸地であって、森林が
繁っていた。大津浪であらい去られたあとに大楠の根株
だけが残っているのである。現在の海岸線となったのは
それからであろう。一九七四年一月刊、百人委員会(考
古学関係)「島原市の海中干湾遺跡」の十頁に
中南の海岸汀線に残存する楠の巨木の根幹のうもれ木
は、一〇〇〇年をこえる生存期間のものとされ、少な
くとも弥生時代から古墳文化期頃にかけて、楠林にお
おわれた海岸線を形成していたにちがいない。
と書かれている。
出典 新収日本地震史料 第4巻 別巻
ページ 103
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県
市区町村

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る

検索時間: 0.003秒