[未校訂]此時(八月二十六日夜)大地震誠に稀有の事にてなんありける。我等いまた
藤森にありしか河下の方より夥しき響きたりて河水あふ
れ地の震ふこと四半時はかりにして止ぬ。それより家路
に趣きしに途中上を下へと騒動せりこれを〈男鹿地震〉
といへり、北磯の村里悉く山崩れ家潰れて人馬の死せる
少からす、八郎湖のめくりは殊に甚かりしとなん。その
潟に臨める田地は潟へ崩れ入たるも余多処なりし。天王
むら二百軒余、舟越二百五十軒、払戸六十一軒、福川二
十七軒、角間崎三十六軒、鵜木五十七軒、本内二十三軒、
松木沢二十五軒、福米沢七十二軒、野石百五十一軒、南
磯へかゝりて脇本村百六十三軒、此処追鼻〈注・男鹿市
脇本の生鼻岬〉といへる海へ臨める巖壁数十町其下を往
還とせしか。是皆崩れて通る事もならすなりぬ。寒風山
にかゝれる村里には飯森七軒、浦田五十軒、樽沢三十八
軒、百川四十六軒これ皆破壊せり。其他能代へ通して山
本郡の村々又彼地にて、秋田といへるは大久保より下街
道筋を云事なり、それらも此難には及る事にてありしな
り。此所の奉行は関喜右衛門、吟味役は安東季貞なり。
公、東都におはしてかしこき仰事のましませし御事と聞
ゆなり。其の年の租税の事はさらなり。救助の御事多か
りしなり。これより後折々彼地へ行し事ありしに、その
変地せしを見るに物すこき有様なりしなり。