[未校訂]地震塚と飢饉の話
文化七年にこの男鹿島は大地震に見舞はれた。その時
の実際を知つてゐる者は今一人も居らぬので詳しいこと
を書くことが出来ません。私の祖父などが生きてゐた時、
良く小さい私共に話して聞かせてくれたことを今記憶を
たどつて知つてる二三の事柄をお話しませう。私の祖父
が目下生きてゐたら九十四五歳の老人ですから、祖父だ
つて知つてゐた話はその頃の老人から言ひ聞かされたも
のでせう。それは一つの立派な体験から得た教訓なので
す。大地震の時の現状の場面を語るといふよりも、今後
かうした大地震が起きた時、何うすれば助かるかといふ
その方法をその時の大地震に生きた者から吾々はかうし
て助かつたといふことを次ぎ〳〵に語り聞かせたことで
あらうと思ふ。
一、大地震がやつて来たら、先づ逃げるにしても、何
処となく逃げないで、一番安全なのは竹林であること。
第二はコジケ(堆肥の上)に逃げること。何うしてこん
な場所が良いかと申すと、時に大地震は亀裂が生ずるか
ら、普通の地面では危険である。右のやうな場所だと同
じ亀裂を生じても危険な程大きな亀裂が生じないといふ
話です。
二、家内にあつて外に逃げる時は、殊に夜間の場合だ
と逃げるに非常に難儀故、何んでも戸障子づたひに逃げ
るべきだと。
三、若し逃げおくれたら、否逃げることが出来ない場
合は、押入の中か或ひは簞笥のある附近に逃げろといふ
のです。
兎に角かうした方法をとつた人達が何んでもその時の
大地震に助かつたやうです。
その大地震の時、男鹿全島で幾何の人が死んだか、良
く解りません。ただ寒風山の中腹ナシノキ台といふ所に、
その時死んだ人達を供養した石塔が立てられてありま
す。その石塔を村人は称して地蔵塚といふ。
その石塔には死んだ人達の戒名を刻んでありますが、
今は消えて判読することを得ず。左にその供養塔を書い
て見ませう。(供養塔の図略)石塔の両側に死者の戒名が
刻られてあります。然しこの石塔は文化七年頃に立てら
れたものでないらしい。文化七年に立てられた石塔はも
うなくなつてその後明治十六年頃に立てられたやうで
す。それも確実なことは知りません。
次ぎはその地蔵塚の直ぐそばに又大きな供養塔があり
ます。それは文化七年の大地震後即ち天保四年頃の大飢
饉で死んだ人達を供養した石塔です。
その時も何人位死んだのか不明です。石塔の裏に細字
で刻まれてある氏名は、その時死んだ人達の氏名なのか、
若しくは供養費を寄附した人達の氏名なのか、消えて判
読を得ず。
その時のケガジ(饑饉)に死んだ人達の哀れな話を聞
かされたまゝ書き立てゝ見ませう。
全島田畑はまるで実らず、稲は五寸か六寸より大きく
ならず。豊作の年一度刈取つた稲が、又芽生えて五六寸
に大きくなつて、穂を出し、その穂に五六粒の実らぬ籾
がついて終るといふ有様と同様であつたと云ふから想像
に余りある訳です。畑作は無論のこと。
何を食つて生きたか、生きた者は有産者ばかり、それ
も三年も食ふだけ籾を蓄蔵してゐた者だけ、残り無産者
は多数死んださうです。
少しばかり持つてゐた田地はその時、五升か一斗の米
と一段歩の田地と取替へたといふ例は多々あります。
生きた者は何んな物を食つたかと申すと、先づワラビ
の根、このワラビの根を掘りに山に行つて腹をヘラして
死んだ者も多数あつたといふ。籾もならない稲の[節|ふし]まで
食つたといふ。
それからガジヤ(学名タニウツギ)の葉も色々な物と
交ぜて食つたといふ。
さうした飢饉があつて以来、島民は益々個人主義的に
傾いて行つたといふ話であります。又半面郷倉の必要を
益々強く感じて実行したといふ話です。
数十年前まで、この地震の時に死んだ人と饑饉の時に
死んだ人々の供養祭を男鹿住民全部で盛大に行ふたとの
ことです。
昭和八年旧七月二十三、四日両日に、即ち今より百一
年前の天保の饑饉に死んだ人々の慰霊をする意味でその
百回忌を催しました。
主催者は、男鹿仏教会で、内助者は大倉戸主会であり
ました。
二十三日の夜から集る男鹿全島の老若男女は、二十四
日の昼までには無慮一万人以上の多数に登り、実に盛大
な供養が行はれました。男鹿仏教会の会員四十数名の読
経がありました。その他民謡盆踊角力等々の余興が盛大
に行はれました。更に寒風山産の自然石をもつて、記念
碑の建立を見ました。
表 天保四癸巳同五甲午 饑亡群霊百回忌日支事変忠死者英魂供養塔 男鹿仏教会
裏 昭和八年九月十三日建立
石屋 吉田文之助
尚饑饉当時の惨死者数は確実とは言へないが男鹿仏教
会調査に依れば、男鹿全人口一万三千数百人に対して千
九百一人の死亡者であるさうです。内男一千四百九十一
名女が八百七十一名であるさうです。又文化七年の大
地震には 男が十七人 女が四十四人の死亡ださうで
す。
更に「男鹿を偲びて」を参考にして、当時の死亡者の
状況を月別に見ると。
一月 一三三人 二月 二一九人 三月 二九五人
四月 二〇二人 五月 二〇五人 六月 二一〇人
七月 二五二人 八月 一一三人 九月 五六人
十月 二七人 十一月 二五人 十二月 二三人
その年、払戸村の渡部斧松翁は凶作を予期して、藩主
に献策して米穀購入をした。処がはたして大凶作となり、
十余万石の不足を生ぜり、それに対して渡部翁が二万石
の購入ではとても間に合はず。斯くの如き多数の惨死者
を出した。渡部翁の先見の明ありしに今更敬服せざるを
得ない。
前稿にも書いたが、更に後から老人達の話に依れば、
食料欠乏のため、松の皮、河骨或は硅藻土等々の甚しき
物を食つたと言ふ。又は余りの空腹の結果、無我夢中に
なつて板の間(特に台所の)や或は自在鍵等を嘗めて餓
死したといふ。台所の板の間には平素飯粒がこばれるか
ら、その粕がまだ著いてゐるだらうといふので嘗めたさ
うです。又自在鍵の真黒にシシ(煤)のかかつたのを何
故に嘗めるかと申せば、それは飯を焚く時、飯のゆげが
かかるのであるから、これを嘗めれば死なぬのであらう
といふ。全く、狂気の沙汰である。然しこれも生への熱
烈なる表現であるのだが、或は又せめて穀の息でも良い
から嗅ぎたいといふて、穀物を煮る家に行つてそのゆげ
を嗅いだといふ。又は何処の村でも穀物のある家が、何
か摺粉をする音でもするのを、空腹者が聞いたら大変、数
十人の空腹がシズミ貝カラを一つづゝ持つて其処の家に
その摺粉を貰ひに行つたさうです。そしてその摺粉を貰
つては、一口もない粉を、数日もかかつて嘗めてゐたと
いふ。だから穀物のある人ですら満足に食ふことが出来
なかつたといふ。