[未校訂](前略)
V・二 地震及び地震隆起
象潟地方は有史以来たびたび大地震を被ってきたが、
特に一八〇四年(文化元年)の象潟地震は、芭蕉が「奥
の細道」において東の松島と比べて絶賛した象潟湖が一
夜にして消失したことにより、地震学的にはもとより、
一般の著者にもしばしば紹介されて有名である。ここで
は、まず本図幅地域とその周辺に被害を与えた主な地震
について概略を述べ(第三〇図、略)、次に象潟地震の地
変についてやや詳しく紹介する。
象潟周辺の地震
以下の地震の記述は主として『日本被害地震総覧』(宇
佐美、一九七五)により、部分的に小藤(一八九五)、今村(一九二〇)、
武者(一九四一)、斎藤(一九七七)、宇佐美(一九七八)、東京大学地
震研究所(一九八一)などによって補った。
八五〇年一一月二七日 (嘉祥三年一〇月一六日)震央
140.0°E, 39.1°N, M7.0 出羽の国で地裂け、山崩れ、圧死
者が多数にのぼった。国府(山形県飽海郡本楯村樋ノ口)
の城柵が傾倒した。津波による被害も大きかった(津波
階級二)。この地震には文徳実録に「山谷易処」とあるほ
か、地変についての言い伝えが多い。主なものでは、象
潟陥没し九十九島が出現した 西目村出戸―[海士剝|あまはぎ]一帯
が陥没し、柏台村が海中に没した 鳥海山北側に大沼(七
㌖×一三㌖程?)あり中に八島があったが、地涌き出て
陸となり矢島(=八島)の地名の起源となった 飛島と
象潟はもと地続きであったが離れた 等、最後の項はも
ちろんあり得ないことであり、また象潟陥没説は、村山
(一九七八)が鳥海山のマグマ活動によるとしているが、地
下地質からみて疑わしい(平野ほか、一九七九)という。
一四二三年一一月二三日 (応永三〇年一〇月一一日)
震央140.1°E,39.2°N,M6.7 羽後、三日三夜地震い人畜死
傷し、建物の倒壊多数であった。正史にはなく、新庄の
古老覚書によるという。
ー六四四年一〇月一八日 (寛永二一《正保元》年九月
一八日)震央140.1°E,39.4°N,M6.9羽後本荘、本荘城郭
が大破し、家屋倒れ死者が出た。市街も多く焼失した。
石沢村にも家屋倒壊及び死傷者があった。院内村で地裂
け水が湧出した。伝説によれば象潟で大津波起こり、一
一七人が溺死したというが信頼性はなく、本荘付近を震
源とする局地的な地震だったらしいという。
一八〇四年七月一〇日 (文化元年六月四日)震央
139.95°E,39.05°N,M7.1 象潟地震、被害地域は羽後本荘
から羽前鶴岡にまで及び、記録された死者約四〇〇人、
全壊家屋約八、〇〇〇戸に及んだ。壊家数は酒田―遊佐地
方で多かったが、全壊率は象潟地方で大きく、小砂川で
一〇〇%、象潟(塩越)で八五%(一説では八八%)、平
沢で五〇%であった。象潟地方の被害は塩越のみで全戸
数五一二のうち全壊四四一、死者六五人、金浦で全壊七
四、死者二七人、平沢で全壊五〇、死者二〇人等となっ
ている。この地震で象潟湖が隆起して陸となったほか、
数々の地変が記録されているが、これについては後述す
る。酒田付近、白雪川河口等で津波(津波階級一)あり、
噴砂現象も各地であった。この地震は余震が多く、酒田
では六月中毎日余震、特に六月五日朝の余震で一五戸が
壊れた。
一八三三年一二月七日 (天保四年一〇月二六日)震央
139.15°E,38.9°N,M7.4 天保庄内地震、又は鼠ケ関地震
津波。羽前・羽後・越後・佐渡で震害と顕著な津波。激
震地域は象潟付近から鼠ケ関までに及び、庄内地方で特
に被害が大きかった。記録された死者約一三〇名、全壊
約六〇〇戸、流失約三〇〇戸、象潟では溺死五名、全壊
六戸、流失一六戸。新発田藩で地裂け、水砂を噴出した。
津波は函館・福山・鰺ケ沢から佐渡・能登にまで及んだ
(津波階級二)。
一八九四年一〇月二二日 (明治二七年)震央139.9°E,
38.9°N,M7.0(この地震のMのみ宇津、一九七九による)。庄
内地震。被害域は最上川沿いに新庄から山形まで、北は
本荘にまで及んだが、倒壊家屋は主として吹浦―鶴岡間
の庄内平野に集中。山形県内の被害は、死者七二六人、
全壊三、八五八戸、全焼二、一四八戸に及んだ。象潟町の
倒壊・破損二九一。この地震には前兆的地変があり、酒
田で地震の約二〇日前から川水減少、井戸涸渇、吹浦で
一四―一五日前から海水の引くこと一・五尺に及んだ。ま
た、庄内平野余目町付近から北東方向の山地にかけて延
長約一〇㌖、北西側がわずかに沈下した地震断層(矢流
沢断層、小藤、一八九六)が出現したが、詳しい記載がなく、
同辺の活断層の方向(活断層研究会、一九八〇)とも調和し
ていない。
象潟地震に伴う地変
一八〇四年の象潟地震は、象潟湖を陸化させたほかに
も、数多くの地変をもたらしたことが、今村(一九二〇)の
丹念な資料蒐集によって知られ、また、信頼性の高いと
見られる地元資料にも散見できる。それらの中から、地
震の前兆、地震時の地変、被害と地盤の関係についての
記事を二、三引用しておく。
「金浦年代記」二一(斉藤、一九七七に収録)によれば、「此年六
月四日四つ時(午後一〇時)前大震未申(南西)の方よ
り寄り来り、間もなく寄りなをし海山共に一丈余も高く
なり低くなり其動くこと、大木の枝はほうきとなり、大
地をはぐ事恐しく、心も魂も身に是なく、大石の転び落
るは手まりの山より降る如く、家蔵共にばたばたと倒れ
潰れ即死怪我の人馬は算数の尽すにあらず、大地割れて
大底より硫黄臭き砂水涌き上る事登る滝の如し、就中塩
越辺と象潟は姿形も無く皆ならし潰れ一丈も地は高くな
り、金浦も一丈余りも高くなり澗形北国第一の名所も澗
形も皆跡形もなく潰れ申候事、金浦は山地あればこそ家
数も残りて人も馬も助かりける(中略)
田地の破損夥しく砂水涌出して山の如し、金浦村の内
山田辺吉森口の田地は見事なり(中略)
大地震は金浦の山根の地形はよろし、上町地高き処は
痛みも無し、片町新町沢月かげんの処は恐しく候、物の
痛み地形の大割目は見るも恐しく候、上町山の根元家土
蔵共によろし山の上は猶々吉し(後略)」とあり、地震隆
起、噴砂、地盤条件による被害の差を記録している。ま
たこの後、泥流丘の間の凹地にある田畑に著しい噴砂現
象のあったことを丹念に記している。更に、「金浦年代記」
には、金浦浄蓮寺九世白瀬知秀二二による記録が引用されて
いるが、これによれば「(前略)此夜四つ頃戌の刻と覚し
き頃 大地二三尺もただ持上る如く思う処に少時止む
夫れ地震よ出よと云ふ間もなく又より来る大地震強きこ
と前に百倍に増り前後忘却夢中の如し(中略)」とあり、
本震の直前地震を伴わないかあるいは長周期地震による
隆起があったかと疑わせる記事があるが、何を基準とし
て隆起したと感じたのか定かではない。地震に関しては
「(中略)当村地震以前漁船場所は直々家々の下たにあり
山王嶋は大船入り泊りせし澗形也、然るに此度の地震に
干潟砂浜となり海辺海中に突き出たること百間に及ぶ
云々。町々の中にも砂涌き出たること浜の如し。或は水の
涌き出る二三尺も立上り川の如く流れ硫黄の匂にひとし
く 山々田畑村々にも皆如斯数百ケ所也(後略)」、とし
て、海岸の隆起とおびただしい噴砂を記録している。
象潟付近については、当時塩越の名主が領主に差し出
した届書によると、象潟は「泥涌出埋」、大澗は「如陸相
成候」、小澗は「如陸相成入津之船出船致兼候」とある。
しかし、このような潟湖や入江が「陸の如く」なった現
象を当時の人はもちろん、明治の学者も地震隆起のため
とは考えず、地震による泥土涌出や周辺の土砂崩壊によ
る埋め立てのせいと考えたらしい。これを地震隆起と断
定したのは今村(一九二〇)であった。今村(一九三四)は、金
浦港内に、地震前は干潮時にも水面下にあった暗礁が、
地震後は海面上三尺の高さに現われ、鰐岩と称せられて
いることを紹介し、自らの地震隆起説を補強した。
海岸付近とは別に、内陸各地でも地変が報告されてい
るが、それらは一般に沈降となっている。すなわち、「由
利郡役所調」(今村、一九二〇紹介)によると、象潟東方の台
地(横山)は平均三尺の沈降、小滝東隣の前田甫で五―
九尺の沈降である。海岸線付近の地変とは異なり、内陸
には基準(不動)面を決定できないので、これらの沈降
は現在では確認し難い。前田甫の沈降量は、小滝奈曽の
白滝のある小滝南部を不動とし測定したらしい。横山の
沈降は地震前は塩越から横山の台地とその東方の[巾|はば]山
(白雪川東側の山地)が一線に連なっていたのに、地震
後は巾山の頂部が見えるようになったことによるらし
い。しかしこれは、横山に対して海岸側が相対的に隆起
したとしても説明できる現象である。このほか、小滝で
は南部の集落四〇余戸には被害がなかったのに対し、北
部の四〇余戸には大被害があり、その境界にあった落差
三・五尺の滝が平坦化した(北部側が沈降した?)という。
いずれも非常に興味深い現象であるが、これらを付近の
活断層の運動に結びつける証拠は見いだせなかった。村
山(一九七八)は、象潟地震時の海岸側隆起、内陸側沈降の
現象を、鳥海山のマグマの運動―地下のマグマが地表の
一ケ所を押し上げることによるシーソー運動―によって
説明し、嘉祥三年の地震時には文化元年とは反対のシー
ソー運動が起こったとした。しかし、現在の地震学では、
著しい隆起に隣接する若干の沈降は、震源断層(逆断層)
の上盤側の現象としても説明できそうである。
なお、地震の前兆に関しては、「小滝北部の井水悉く減
じ或は濁水となり、長岡においても井水赤色に変じ或は
減少したるもの数々あり」という記事がある。
二一 金浦町公民館長斉藤武司氏の談話によれば、金
浦年代記は金浦町で歴代漢方医である佐々木清
兵衛家の記録(一六一二年より一八五二年まで)であり、
文書の字体が変化していることから代々の日記
と考えるとのことである。ただし、地震直後に
記されたものでないらしいことは、文面から読
み取れる。
二二 前記斉藤武司氏の談話によれば白瀬知秀の生年
は一七四九年? 没年は一八三七年。
象潟湖及び周辺の地震隆起(注、図は略)
象潟地震に伴う土地の隆起量について、今村(一九三五)
は、象潟町小砂川から仁賀保町芹田に至る約二〇㌖の海
岸沿いに計測し、小砂川三一〇㌢、塩越二二〇㌢、飛一
七〇㌢、芹田一二〇㌢と、南側ほど隆起量の大きな値を
得た。これに対して今村(学)・小笠原(一九四二)は古象潟
の隆起量を東部で九㍍、西部で四㍍と著しく大きく推定
した。この値は「日本列島」(湊・井尻、一九五八)に引用さ
れて一般に広まった。しかし、最近平野ほか(一九七九)は、
詳細な現地調査と、空中写真、大縮尺地形図、昔の絵図
面等の判読により、古象潟の旧湖岸線及び周辺海岸の旧
汀線について、より実証的な高度分布を求めた。特に象
潟地区では地震直前の湖岸線を第三一図のように復元し
た。これで見ると、地震直前の象潟湖は、周辺を埋め立
てられて、東西一㌖、南北二㌖のほぼ楕円形をした小潟
湖となっていた。旧湖岸線の海抜高度は一五五―二一三
㌢、平均一八一㌢であった。一方、旧汀線の高度分布は
第三二図のとおりで、隆起域は南北二五㌖以上にわたり、
推定隆起量は象潟付近の海岸で最大となり約一八〇㌢
で、南・北へ高度を減じている。東西方向では、象潟湖
東部と象潟海岸間で有意の差は認められなかった。
以上の地震隆起のパターンから見て、平野ほか(一九七九)
は、象潟地震の震央は隆起の中心である象潟付近にあり、
しかも海岸付近には断層変位の証拠を発見できず、また
弱い津波の発生をも考慮して、震源断層は海岸にごく近
い海底にあり、海岸線にほぼ平行した走向を持ち、東へ
傾斜する逆断層であったと推定している。恐らく震源断
層についての平野ほかの推定は正しいであろう。ただし、
震源断層が海岸近くにある東傾斜の逆断層であるなら
ば、震源の深さを考慮すれば、震央位置は多少内陸に入
り込んでいてもおかしくないであろう。
(後略)