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項目 内容
ID J1000939
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1802/12/09
和暦 享和二年十一月十五日
綱文 享和二年十一月十五日(一八〇二・一二・九)〔佐渡・越後〕
書名 〔御日記(御国)〕津軽藩
本文
[未校訂]十一月十五壬午日 曇 今暁寅刻より雨降 未刻頃少々
地震 申之刻頃雨止〔佐渡小木地震(一八〇二年)による土地隆起量の分布とその意義〕
一 まえがき(省略)二 小木地震に伴う土地隆起の資料
 享和二年十一月十五日の小木地震が顕著な土地隆起を
伴っていたことは、「佐渡年代記」、「佐渡志」、「一話一言」
の各文書〔田山(一九〇四)、武者(一九四三)参照〕に記されて
いて疑問はない。地震に伴って“小木の港、数十町干潟
となる。赤泊、沢崎、又潮退き石出で、国々の船ども皆
便を失う。……新たに田土を得たる地もあり”という(佐
渡志)。隆起の範囲は小木半島南岸に沿って二五マイル
〔Omori(一九二三)〕あるいは沢崎から赤泊まで約二五㌖
〔Imamura(一九三七)、ただし同書二一五ページの表では四
㌖〕と推定されている。隆起の量は上記の古文書に記され
ていないが、Omori(一九二三)は八フィート、Imamura
(一九三七)は一・三㍍(二一五ページのTable)または二㍍
(二一七ページ)と推定している。これらの推定の根拠
ははっきりしないが、これ以後二㍍が広く用いられてい
る[理科年表、宇佐美(一九七五)など]。隆起の時刻は佐渡
年代記によると、同日の巳刻(午前九~十一時の間)に
(中略)地震があり、入江が干潟になり人々が津波をお
それていた所、未刻(午後一~三時の間)に大地震が生
じたという。大日本地震史料所載の古文書には隆起の時
刻についてこれ以上の記載はない。しかし、Omori(一九二三)
は、はじめの地震を午前八時とし、その時海水が一時的
に約九〇〇フィートの距離退き、午後一時頃の地震で約
一、五〇〇フィート再び海が退いたとしている。なお、こ
れらの地震に津波が伴われたことを示す記事はない。
Imamura(一九三七)は地震の約四時間前(五五ページ、し
かし、二一五ページの表によると約五時間前)に約一㍍
(二一七ページ、しかし二一五ページの表によると一・三
㍍)の隆起があったと推測している。この地震前隆起が、
午後二時および午前十時の地震のまえ(同、八〇ページ)
のことなのか、午前十時の地震のまえ(同、二一七ペー
ジ)のことなのか、あるいは十時の地震と同時なのか(佐
渡年代記、前述)はっきりしない。
 このように隆起の時刻と地震との関係には不確かな点
があるが、小木地震によって二㍍程度の土地降起が生じ
たというOmori(一九二三)やImamura(一九三七)の推定には
大きな誤りはないと思われる。そこで筆者らも徳重
(一九三九)と同様小木付近に広く分布する海抜約二㍍の海
食台を、この小木地震による隆起海食台とみなした。こ
の隆起海食台を以下一八〇二年段丘とよぶ。
三 調査方法(省略)
四 一八〇二年段丘の高度分布
 一八〇二年段丘は主に、小比叡川の東から沢崎鼻にい
たる小木半島南岸、およびそこから田野浦に至る半島北
西岸に分布する。とくに、元小木から沢崎鼻にかけては
明瞭な段丘状地形を呈し、段丘面の内縁と背後の旧海食
崖との傾斜の変換点は明確である。段丘面の内縁には隆
起海食洞やノッチを伴うことも多い。なお、琴浦の隆起
海食洞の内部には、巾約五〇㌢にわたって、部分的に密
集してカキ、ヘビガイなどの貝がらが付着している(貝
層の上限、下限高度はそれぞれ一六一㌢、一一一㌢)。こ
の貝の14C年代は600±90年B.P. (Gak.-5819)であった。
このことは約六〇〇年前にはこの段丘がなお海面下にあ
ったことを意味しており、この段丘の離水を小木地震に
よるとする考えを支持している。
 一八〇二年段丘は、どこでも堆積物をのせず基盤岩石
(一部を除いて第三紀中新世の枕状熔岩およびその他の
玄武岩類)からなる。段丘の表面は概して平坦であるが、
小規模な断層によって高さ三〇㌢以下の段が生じている
ことがある。段丘の外縁は基盤岩石の節理に支配されて
急な崖をなし、また入江状の凹凸にとむことが多い。
 一八〇二年段丘の特色とその旧汀線高度の測定結果を
Tablelに示す。Fig.4は本段丘の測定点の位置と旧汀線
高度を示したものである。図から明らかなように、一八
〇二年段丘は小木半島南岸中央の宿根木付近で最も高く
現水面上約二・二㍍、北微東方向に低下して北岸の田野浦
では約〇・二八㍍であり、半島の南北両海岸間に約二㍍の
高度差がある。その高度分布の傾向をみるためにFig.4
に五〇㌢おきの等値線を示した。このような隆起海食台
の高度差を一つの平面の傾動によるものとみなして、そ
の傾動方向と量を最小自乗法で求めると、最大傾斜の方
向はN11.9°E±19.85°、傾斜量は1.59、 ±0.17、となる。隆起
量が[0|ゼロ]になる線は、計算によると、大浦と羽茂川河口を
結ぶ位置にあたる。この位置がこの傾動した範囲の真の
北限を示すものか、またはより広い傾動域がたまたま海
面と接した位置であるかについては資料がない。以下で
は、一応前者であると仮定して、論を進める。
五完新世段丘の高度分布(省略)
六更新世段丘の高度分布(省略)
七小木地震についての考察
 小木地震の震源 小木地震に伴う地殼変動はFig.4に
示すように、小木半島南岸の宿根木付近を中心にしてほ
ぼ同半島の全域に及んだ。当時の地震隆起が小木町東方
約一五㌖の赤泊港まで及んだように記している文書があ
るが[佐渡年代記、佐渡志、いずれも田山(一九〇四)、武者
(一九四三)による]、小木以東では最下段の隆起海食台は高
さ五〇㌢以下であって一八〇二年地震では顕著な隆起は
なかったと思われる。したがって小木地震の震央は従来
の推定位置よりも西方、小木半島中部南岸付近と考えた
方がよい。
 宿根木を中心とする土地の隆起と北への傾動は、走向
ほぼ東西で北へ傾斜する断層が小木半島南岸沿いに存在
し、それに沿って逆断層運動が生じたとして説明するこ
とができる。地震に伴う隆起の北限が既述のように小木
半島北縁にあるので、くいちがいの弾性論の計算結果[た
とえば松浦・佐藤(一九七五)]によると、その起震断層面の
北端は少なくとも小木半島北縁付近地下まで達している
と思われる。
 小木地震による小木半島の傾動は一九六四年新潟地震
による粟島の傾動に似ているが、傾動量の大きさも陸上
部分の最大隆起量も小木半島のそれの方が明瞭に大きい
[新潟地震での粟島の傾動は約55″、最大隆起量は約一・五
㍍。Nakamura et al.(一九六四)参照]。しかし、小木地震
のマグニチュード(M六・六)は新潟地震のそれ(M七・
五)より明瞭に小さい。また、小木地震時には佐渡およ
び本州側のいずれにも確実な津波の記録がない。さらに、
Fig.1に示すように、小木半島南方沖合の海底地形には
地震の発生と関係したと思われる明瞭な断層地形は認め
られない。これらのことは、小木地震の起震断層が小木
半島南岸の比較的近いところ、おそらく数㌖以内に位置
していたことを示している。海底地形(Fig.1)をみると、
海岸線から一~二㌖沖合に、二〇㍍および四〇㍍の等深
線で現わされるほぼ東西方向の海底急斜面があり、これ
が小木地震に関係する断層崖である可能性が大きい。
 いずれにせよ、上記のことから、一八〇二年の地震の
震央は、理科年表一九七五年版によるものより西側、宇
佐美(一九七五)によるものよりは北側の半島南岸に近い海
域にあったと推定される。
 小木地震の発生周期五において約六、〇〇〇年前の
海成段丘の傾動量が小木地震による一八〇二年段丘の傾
動量にほぼ等しいことから、一八〇二年地震の傾動は約
六、〇〇〇年前以後はじめて生じたものであり、したがっ
て一八〇二年のような小木地震の発生間隔は六、〇〇〇
年以上であろうと述べた。このことを、より古い更新世
段丘の傾動量を用いて吟味してみる。
 調査した各段丘の推定形成年代とその傾動方向・量を
それぞれTable2のA・B・C欄に示す。古い段丘ほど
傾動量が大きいが、これが一八〇二年のような地震の傾
動の累積であると考えると第四段丘は14.85、 /1.59、 = 9.3
回、第三段丘は38.02'/1.59、 =23.9回の地震傾動を経験し
たことになる。したがってそれぞれの更新世段丘形成以
後の地震発生の平均間隔(段丘年代/地震回数)はほぼ
八、六〇〇年ないし五、〇〇〇年となり、さきに完新世段
丘と一八〇二年段丘の傾動量の比較から予測されたほぼ
六、〇〇〇年以上という値と矛盾しない。
 以上の推算では、地震後、次の地震時までに土地の傾
動量に変化はないものとみなしている。外側地震帯にお
けるような傾動量の逆もどりを考慮に入れると、上記の
地震周期はより短くなる。もし仮に傾動の逆もどり率を
〇・五とすると、更新世後期以降の地震周期は半分(約二、
五〇〇~四、三〇〇年)になり、完新世における地震間隔
六、〇〇〇年以上という推測と調和しない。したがって、
傾動に逆もどりがあるとしても、その値は〇・五よりもは
るかに小さいと思われる。このように、小木半島は第一
段丘形成以降第四紀後期を通じて地震に伴なう北への傾
動運動を累積的に受けており、地震の周期はほぼ五、〇〇
〇~九、〇〇〇年であったと推定される。一八〇二年の小
木地震はその最新の活動であった。
 ところで、上記の推論は段丘の傾動量の比較にもとづ
いたものであった。つぎに更新世段丘の高度について一
言ふれておきたい。一回の地震による隆起量を最大二㍍
とすると、その形成以降ほぼ二四回の地震が推定された
第三段丘の高度は、ほぼ五〇㍍の高さになるはずである。
逆もどり量があったとすればさらに低くなる。しかし、
実際の第三段丘の高さは九〇~一一〇㍍あり、これは上
述の推定高度よりもおよそ五〇㍍高い。したがって第三
段丘の現高度は上記の量と回数の地震の積算のみでは説
明できない。第三段丘形成時、すなわち最終間氷期の海
面高度は今とほとんど同じか、せいぜい六㍍ていど高か
ったとする見方が一般的であるので〔たとえばChappell
(一九七四)〕、五〇㍍という値を汎世界的海面変動によるも
のと考えることもできない。そこでこの値は、局部的な
地震性の傾動隆起とは無関係の、地殼のかなり広域にわ
たる非地震性の地殼上昇量であると考えざるを得ない。
このように、海成段丘の旧汀線高度は、海面変化量、土
地の広域的の隆起、局地的な地震隆起の和をあらわすと
みなされるが、これら三者を量的にわけることは容易で
はない。とくに前二者の分離はむずかしい。しかし第四
紀後期における広域的非地震性隆起現象の存否、あるい
はその量をどう見積るかは第四紀地史の研究上重要な問
題であるので、更新世段丘の年代の推定や傾動量の求め
方などの点をふくめて今後もなお検討をつづけてゆきた
い。
 小木半島の地形的特異性と小木地震 佐渡島は主に大
佐渡、小佐渡の二つの山地からなるが、小木半島はこれ
らのいずれとも異なる地形的特徴をもっている。小木半
島は伸びの方向において小佐渡主部の山地の伸びの方向
と一致しないばかりでなく、小佐渡主体から分離した地
形的高まりを示している。また、海成段丘の高度分布か
ら推定される土地の傾動方向は、小木半島では既述のよ
うにほぼ北であるが、大佐渡および小佐渡ではそれぞれ
東南である[田村(一九七五)]。大佐渡、小佐渡のこのよう
な東南への傾動は、それぞれの北西縁に南傾斜の逆断層
を想定することによってうまく説明できる。実際に、大
佐渡の北西縁の海域および小佐渡の北西縁の国中平野側
には、海成段丘を変位させる走向ほぼ北東―南西の活断
層があり[太田(一九七三)]、これらが上に述べた傾動地塊
の境界をなす逆断層の一部に当たると思われる。
 このように互いに異なる向きの傾動を示す小佐渡主体
部と小木半島との境は、前にのべた一八〇二年の小木地
震による隆起域の北限とほぼ一致する。したがって、小
木半島は一八〇二年の小木地震のような北方への傾動運
動の累積した地震性地殼変動区であって、上述の小木半
島の基部にあるヒンジライン(hinge line)以北の小佐渡
主体部とは異なるタイプの変動を示している。このよう
な佐渡地域の地形を支配した更新世後期の地殼変動の特
性を第三段丘の高度にもとづいて模式的にえがくと
Fig-7.Schematic presentation of pattern of the
late Quaternary crustal movement, based
on tilting of the 3rd terrace shoreline.
A chain line indicates hinge line between
the Ogi Peninsula and the main part of
Kosado.
Fig.7のようになる。
謝辞(省略)
文献(省略)
図(第七図以外省略)
出典 新収日本地震史料 第4巻
ページ 184
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 青森
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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