Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J1000916
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1802/12/09
和暦 享和二年十一月十五日
綱文 享和二年十一月十五日(一八〇二・一二・九)〔佐渡・越後〕
書名 〔都の往かひ(京都往還紀行)〕「佐渡叢書 十五」
本文
[未校訂](天保十五年四月)十七日姫川水溢れて越かたけれハ、海より小船にて涛
を押切て渡る船人もこゝろ有とや手向すと読る歌の浜を
過境に至れハ関あり、越中越後の国境迚いかめしく幕の
廻したる中より、侍一人立出名乗して通るへしといふ、
木の丸殿ならす社(こそ)と心の内にむかしを思出けれ、盤石千
尋に峙て臨に心性を忘れ、波涛万里に重て滝漲下るを限
なしと云る、親不知ハ名を聞たにも胆を冷し侍るむへな
る哉、この国第一の要害切所なりとなん、鮒見より三日
市の間にいろは河と云大川あり、瀬の数四十ハあるをも
て名付しとそ、事を問彼里の生れのよしなれハきかまほ
しく思ふも理なりとて、津波の事つはらに語れハよき席
なり、この里地震ゆすりし時、新里の記あらはし給ひし
と兼てうけ給はり侍る、暗に読きかせ給へかし、書取置
んと頓て懐紙を出してうなかせは思ひ出る儘を
佐渡国小木といふ所ハ千船百船をよする湊にて、民の仕
業ハしけゝれとはやくより家居む禰〳〵敷ハ少々垣生の
小屋のミおほくて余所の見る目もいふせく里の狭きを歎
きけるに、享和二戌年十一月十五日地震おとろ〳〵しう
ゆすりて、さしも深かる岸根より汐の八百あひの沖かけ
て干潟となりぬ、あやしとやいはんおむろしとやいはん
しかハあれと桑の田ミとりの海となりしためしもある
に、なか〳〵里のひろこりしを久堅の天津神のたすけに
やと、こゝに家を建そへてなりはひをいとなませんにハ、
国民のさち何かハこれにしかめやと奉行泉本正助君のあ
ふせ事を組頭添田一郎次きミの伝へ給て、文政九戌年新
に家居をそつくりける、其後十三寅年又のこる所にたち
つゝけ、いらかをならへよと民にその所をえさしめ、米
をさへあまた給さりけれハ、かまとの煙高く立のほり、
聖の御代もかくやと思ふはかり、いと賑ハへるひと里あ
らたにひらけたり、これみな泉本添田のぬしの恵なれハ
迚、永くこの里の産神とあかめ奉る事とハなりぬ、あは
れ二君の功小鹿の角のつか短き筆もて磯のもくつかきつ
くすへくもあらされと義恭幸に関守と成て、このときに
逢ての事にあつかりいつくしミのなし(後略)
出典 新収日本地震史料 第4巻
ページ 175
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 新潟
市区町村

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る

検索時間: 0.001秒