[未校訂]因に記す、西代は元公家前付近なりしが宝永の大変に人家
流失して今の所に遷りしなり。
本堂寺 元田村山極楽院本堂寺と称す
元本堂坊と称せり、南路志寺院帳等に宝永四年大潮に堂宇
流失せしため開基年月詳かならさるやう記せるも正興寺第
十三世堯快の隠居せしものか。
宝永四年十月四日大地震、南路志に種崎一村亡所と為る、
溺死者七百余人海嘯のため一草一木も残れることなし其の
中に神母祠一宇不思議にも残れり民家は旧村の西へ移すと
あり、本村の如きも多大の被害なりしなるべきも記録の拠
るべきものなし、古老伝説に云ふ宝永四年大地震の海嘯は
当村三嶋村下島の海浜切戸を押切り西は浜改田の低地を打
越し北流して立田村往還に至りしとぞ現今村役場の辺りに
は人家ありしものが当時の海嘯の為に流失又は半潰れの災
害を受け住民は浜分の砂丘又は里分の高地西代と称する所
へ移転せしとぞ微震は半年計りも絶へざりしよし