[未校訂]贄浦の供養搭
むかし津浪のとき、贄浦には今のような海岸堤防はなか
ったから、津浪は村中一面にはいってきて、人々は寺(最
明寺)を目指して逃げた。ところが寺の門が閉ざされてい
たので、境内にはいることができなくて、大ぜいの人が浪
に呑まれて死んだ。寺の境内には津浪で死んだ人達の供養
塔が建っている。(贄浦採話)
附記……最明寺の供養塔には、宝永四年十月四日、溺死
六十余人、嘉永七年十一月四日、溺死五人、民家六十余流
失とあり、「郷土記事」には、一、宝永の津浪で、閉ざさ
れていた最明寺の山門は正門ではなくてその脇の潜り戸で
あった。二、魚商の製造中の鰹節が流散し、みんながそれ
を拾って飢をしのいだ。三、津浪のおそろしさを記念して
「つな」という名前を、生れた子に付けた家があった。
(いつの津浪であったか不明)四、嘉永七年の津浪で流死
人三人は、退避の途中に渡っていた橋と共に押し流され
た。と筆記している。「私たちの南島町」には、宝永・嘉
永両度の海嘯の被害は、現南島町を死者二五〇人、流失住
家一一〇〇軒、と記録している。