[未校訂](前文略)又この外に海岸堤として神沢村の記録に「延享
二年(一七四五)神沢村川除「上」潮除御普請請取之儀御
尋之品々左ニ申上候」
とある文書によれば「海表汐除」として
長サ三百拾間、敷五間、高サ七尺、馬踏「二」間
の汐除堤防があり、これは元禄十二年十月外山小作
代官の時津波で全体が崩潰したのを修理したとあるにより
神沢辺には元禄以前からあったらしい。此の頃神沢村全長
が三百三十三間とあるから、全村に亘り海岸堤防が僅か七
尺の幅員ではあったが、築堤されていた。それが元禄の津
波で潰れ、又宝永四年(一七〇七)十月の地震の荒浪でふ
たたび潰れ、宝永五子年に修理し享保十五年(一七三〇)
八月二十九日にも波浪のために潰れたとある記録などか
ら、海岸に面した処には堤防があり、その上場は馬踏とも
なる通路に用いられていた。
神沢村の汐除堤は、往還三百三十三間を守護する目的から
築堤されたが、往還守りの汐除堤とうたわれるところに、
人命より往還の維持を希求した江戸時代の改革が、用字の
一つ一つに表現していて面白い。
この堤防は八木沢堤と同一規模で高七尺、馬踏二間、敷
五間と記され、「お尋書の返答」にはその歴史が記されてい
る。元禄十二年卯十月とあるが八月のことであろう。外山
代官の節、高波で屋台(土台)打つぶれ御入用を以て修理
し、その節米十一石八斗八升を百姓に下された。その後能
勢権兵衛代官の節宝永四年十月地震波荒れ致し候ニ付とあ
り(この月は諸国に地震のあった月であった)、地震によ
る津波があったらしいことがわかる。この翌月、宝永山が
爆発するのである。十月とあれば、宝永山爆発の前月で、
地震によるものであろう。地震により破壊されたものの修
理を宝永五年(一七〇八)に行ったところ、享保十五戌年
(一七三〇)八月二十九日の大波により家がつぶれて、お
助け米三石三斗六升四合の下附を受けた。時の代官は山田
治右衛門であったという。以上が延享二年(一七四二)ま
での記録である。