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項目 内容
ID J0900091
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔大地震之記〕○長野県下伊那郡下条村鎮西家文書
本文
[未校訂]宝永四歳丁亥十月四日大地震覚
宝永四年亥ノ十月四日之八ツ時ニ何之方とも不知白雨の風
ニ聞ルことくひゞき申かと存候処追付事志づかにゆら〳〵
とゆり出テ段々とつよき地震其時人々不残火を志めし外江
立出候得共立こたゑられず漸々梯柱抔ニ取付立こたへ見候
得共風通之木ニ大風之当ことく梯抔もゆり落シ只一時程ゆ
り申候所々ゆりわれしを見候得共われ口三四尺壱間程宛ゆ
りわれ前方水けもなき道などのわれ口江水ゆり出候所も御
座候当村ニ而も竜岳寺くり之分不残つぶれ申候其外之家も
戸かべはなれ五寸壱尺程宛かたかり不申家は希ニ候飯田ニ
而も家数百五六拾間(軒)潰レ申候其後も日々夜々ニ間もなく纔
之地震ハ同月廿六日迄ゆり申候扨其以後も五七日ニ壱度程
づつゆり申候又十一月廿二日之晩五ツ時分ニ少シつよき地
震致八つ時分ニも又ゆり翌廿三日明方ゟ五つ時分迄ニ少々
之地震二三度致シ同日九つ時分ニ東之方ニ而天とも不知地
とも不知地迄ひゞく心ろニ而なり渡り申候得共是ハ又地震
かとこゝろへ人々飛出東之方を見候得共せい天ニ而世上雲
見江不申候ニむらさき色なる雲少シ出其中ゟ色志ろきいつ
も之様ニハ見へてよく〳〵見れハ雲とも不見右むらさき色
なる雲ゟ三四間ながく出浪之やうに見江次第ニひゞきつよ
く候得共なミのやうなる物もむらさき色成雲も段々大ニ見
江申候追付ひゞきも少宛止申ニ応(軈カ)而雲も浪のやうなる物も
ちりもせす□の方江暮時迄ニ引込申候得共ひゞきも透と無
御座候又晩之五ツ時ニ□之ことくひゞき段々つよくなり少
シづゝ間有てハひゞき又間有てハなり出地之ひゞき身ニ覚
へ世間見候得共山抔も働キ申様ニ見へ候山ハうこきハ不致
候得共余りひゞきつよきゆへうこく様ニ被存候翌廿四日明
六つニ出右ひゞき候方を見候得共四方天ともニはなれ山珍
敷見江申候其山之様成中ニ洞々之有之様ニ見江御日之出る
ニ随而か(なカ)るき山ニ雪之降かゝりたることく見へ候昼ハ色白
ク雲之様ニ見へ候時々姿替り大小ハ切々也翌廿五日之晩ゟ
其かたニ而一時程づつ間有てハひかりつゞいてハひかり申
候世間えばつと光る事も御座候又其処斗少ひかる事も御座
候それゟ日々夜々前方之ことくかわらず十二月三日迄見え
候其後も少々之地震ハ折々致し又同月五日之昼時分ニ前度
之やうに少ひゞき日々一度程宛風にひゞき鳴申候則八日之
晩ニハ八つ時分ニ強クひゞきわたり戸かべ抔もなり扨々珍
敷被存候同十日ニハ余程の雪降申候右之一通只今迄申伝江
にも不承候故為以後之印置候也
右十月四日ハ午ノ日其後之つよき地震廿二日是も午ノ日ニ
御座候 以上
 右光リ候ハ富士山やける由年を越へ相知遠国へ焼砂降リ
候由也
宝永四年 鎮西野村
亥十二月日 清本(カ)花押
出典 新収日本地震史料 第3巻 別巻
ページ 100
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長野
市区町村 下條【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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