[未校訂]宝永四歳丁亥十月四日大地震覚
宝永四年亥ノ十月四日之八ツ時ニ何之方とも不知白雨の風
ニ聞ルことくひゞき申かと存候処追付事志づかにゆら〳〵
とゆり出テ段々とつよき地震其時人々不残火を志めし外江
立出候得共立こたゑられず漸々梯柱抔ニ取付立こたへ見候
得共風通之木ニ大風之当ことく梯抔もゆり落シ只一時程ゆ
り申候所々ゆりわれしを見候得共われ口三四尺壱間程宛ゆ
りわれ前方水けもなき道などのわれ口江水ゆり出候所も御
座候当村ニ而も竜岳寺くり之分不残つぶれ申候其外之家も
戸かべはなれ五寸壱尺程宛かたかり不申家は希ニ候飯田ニ
而も家数百五六拾間(軒)潰レ申候其後も日々夜々ニ間もなく纔
之地震ハ同月廿六日迄ゆり申候扨其以後も五七日ニ壱度程
づつゆり申候又十一月廿二日之晩五ツ時分ニ少シつよき地
震致八つ時分ニも又ゆり翌廿三日明方ゟ五つ時分迄ニ少々
之地震二三度致シ同日九つ時分ニ東之方ニ而天とも不知地
とも不知地迄ひゞく心ろニ而なり渡り申候得共是ハ又地震
かとこゝろへ人々飛出東之方を見候得共せい天ニ而世上雲
見江不申候ニむらさき色なる雲少シ出其中ゟ色志ろきいつ
も之様ニハ見へてよく〳〵見れハ雲とも不見右むらさき色
なる雲ゟ三四間ながく出浪之やうに見江次第ニひゞきつよ
く候得共なミのやうなる物もむらさき色成雲も段々大ニ見
江申候追付ひゞきも少宛止申ニ応(軈カ)而雲も浪のやうなる物も
ちりもせす□の方江暮時迄ニ引込申候得共ひゞきも透と無
御座候又晩之五ツ時ニ□之ことくひゞき段々つよくなり少
シづゝ間有てハひゞき又間有てハなり出地之ひゞき身ニ覚
へ世間見候得共山抔も働キ申様ニ見へ候山ハうこきハ不致
候得共余りひゞきつよきゆへうこく様ニ被存候翌廿四日明
六つニ出右ひゞき候方を見候得共四方天ともニはなれ山珍
敷見江申候其山之様成中ニ洞々之有之様ニ見江御日之出る
ニ随而か(なカ)るき山ニ雪之降かゝりたることく見へ候昼ハ色白
ク雲之様ニ見へ候時々姿替り大小ハ切々也翌廿五日之晩ゟ
其かたニ而一時程づつ間有てハひかりつゞいてハひかり申
候世間えばつと光る事も御座候又其処斗少ひかる事も御座
候それゟ日々夜々前方之ことくかわらず十二月三日迄見え
候其後も少々之地震ハ折々致し又同月五日之昼時分ニ前度
之やうに少ひゞき日々一度程宛風にひゞき鳴申候則八日之
晩ニハ八つ時分ニ強クひゞきわたり戸かべ抔もなり扨々珍
敷被存候同十日ニハ余程の雪降申候右之一通只今迄申伝江
にも不承候故為以後之印置候也
右十月四日ハ午ノ日其後之つよき地震廿二日是も午ノ日ニ
御座候 以上
右光リ候ハ富士山やける由年を越へ相知遠国へ焼砂降リ
候由也
宝永四年 鎮西野村
亥十二月日 清本(カ)花押