[未校訂]普請
享保十七年(一七三二)六月、小石和筋・中郡筋・西郡筋
の村々から同一文面で差出した口上書(下大窪、中村智明
氏蔵)には、左のような記述がある。
一、甲斐国之儀、四方ニ高山ヲ控江、峯々より落来り申
候沢川如百足(略)、前々ハ山々ニ茂草木生茂り申候
故、右草木ニ水持候故カ、大雨之節一時ニ大水出申候
儀無御座、石砂押出し不申候ヘハ(略)、少々宛之御
普請ニ而大破不仕、百姓困窮無御座相続仕来候御事
一、当国之儀格別変地仕候儀ハ山々御林御払被仰付候
上、国中之人数倍増仕、山々伐取荒山ニ罷成、草木ニ
水包候儀無御座候故カ、少々之洪水ニ茂堕り、不相応
ニ一時ニ出水仕候儀ニ付、石砂大分押出シ、連々川瀬
高ニ罷成、其上三拾年以前未年(元禄十六年=一七〇
三)、弐拾六年已前亥年(宝永四年=一七〇七)両度
大地震にて山川震り崩、国中川除無台ニ罷成候処、又
々弐拾年以前巳年(正徳三年=一七一三)より四五ケ
年打続大満水仕、悉石砂押出シ(略)、又候拾弐年以
前(享保七年=一七二二)覚候ものも無御座大満水
仕、悉古来より為囲御立置被遊候竹林並下草等之根迄
不残掘流、方々江堤切込田畑石砂入ニ罷成困窮仕候御
事。
右のような事情は、境川・狐川にのぞむ諸村がまさに典
型的であったから、支配者にとっても農民にとっても、川
除普請は欠くことのできないものであった。元禄時代にお
ける二回の大地震が、変地の直接原因であったか否か確証
はないが、柳沢氏の領有以前、笛吹川以東が幕領または旗
本領であったころは、川除が大破したときの修覆費はすべ
て領主の負担であった。たとえば小黒坂村の品合、多門平
兵衛・筧助兵衛・金田一郎左衛門の相給のとき、境川氾濫
による欠壊箇所修理に、永一貫五百文と籾一五俵を支出し
て村に工事させた。領主負担による工事を御普請といい、
村手間の工事を自普請といって、それぞれの箇所は明細帳
に区分して表わすことになっていた。しかし、柳沢氏以前
の東郡では、自明のこととして問題化することはなかっ
た。