[未校訂]市川文蔵家の覚書に次のように書かれている。
宝永の地震「宝永四亥年(一七〇七)一〇月四日未の上刻
(午後二時~二時半)大地震ニ而荊沢十五ケ村家不残潰レ
田畑ゆり崩レ申候同五日朝茂家潰レ候程震」と記されてい
る。また新津容策家の往年災異記には、
宝永四年丁亥十月四日大地震ゆり、国中村々家体潰れ四
郡南すじ大分潰れる。落合村家体皆潰レ八十五軒、半潰
レ五十六軒、右之段御注進仕、御扶持米奉願下、皆潰レ
江壱軒壱俵ツツ半潰レ一軒半俵ツツ合而百十三俵被下、
脇村々同断、其後一日一夜八、九度ツツ同月廿四日迄ゆ
れる。
と記されている。この地震は元禄の地震より明らかに強
いもので、激震程度と言えるもので、落合村の状況から
みても他の村々の惨状が推察できる。この地震について
町内にわずかながら残つている言い伝えによると、宝永
山爆発のときの地震としているようであるが、この地震
はそれより五〇日早く、震災地域の広大さからみても、
火山活動による地震とは考えられないと言うことであ
る。
宝永の地震 宝永四年十月四日(一七〇七年一〇月二八
日)東海道・畿内・南海道・東山道・西海道の東海岸
などが被災、古来からの地震のなかでも最大に属する
ものと言われている。死者約四、九〇〇全壊家屋約二
九、○○○。