[未校訂]宝永の地震
宝永四丁亥(一七〇七)年、富士山大噴火前後より地震が
あり、同年一二月二三日辰の中刻より大音響とともに火を
噴き上げ、翌五年一月八日まで続いたというのだ、初めよ
り二九日まで七日間の噴火が、最も激しかつたという。こ
の噴火により出現した山は宝永山と名付けられた。この噴
火に関連ある地震は、富士山周辺の各地に被害を与えた
が、本町の降灰の被害は記録に残つていないが、地震の被
害は相当であつて、全壊半壊は町の東部地域に多く、西部
山寄りの大久保部落にさえ被害があり救急食糧の下配があ
つた。次にこの配分記事を見ることにしよう。(中略)
宝永四亥(一七〇七)年一〇月一四日(四日ともある)未
の上刻(午後二時―二時半ごろ)急に起こった地震は、東海
道・南海道・畿内・東山道・西海道の一部などを襲った。
「国中村々家体潰れ四郡南すじ大分潰れる」とあり、皆壊
れに一俵ずつ、半壊れに半俵ずつの御扶持米を下されたと
いう。
大久保は地盤が割合堅く、震災は少ないと思われるが、前
記「村中連判」のとおり、地震救済が下げ渡されている。
本町東部地域は、沖積層上の建築なので、被害は相当強か
つたものと思われるが、文献なく確かな数字は不明であ
る。