[未校訂] 三大地震の第二番目は、宝暦の大地震です。日本の大地
震年表に載っている百二十余の大地震のうちでも大きなほ
うです。
地震の震度は、微震・軽震・弱震・中震・強震・烈震の
六段階に分けられ、最高の烈震とは「家屋が倒れ、山崩れ、
崖崩れ、大きな地割れがする」とありますから、宝暦の大
地震はまさに、その烈震に相当します。しかも、その震幅
は越中・信濃にまでおよぶものでした。
地震の起こったのは、正しくは寛延四年(一七五一)四
月二十五日夜八ツ時、または[丑満|うしみつ]時とありますから、もう
二十六日の午前二時ころのことです。この年の十一月二十
七日に改元されて宝暦元年となったので、宝暦の大地震と
いわれるのです。震源地は明確ではありませんが、被害の
程度から見て西頸城郡名立村付近として、支障がないでし
ょう。
宝暦の大地震には、一村全滅という悲惨な名立崩れがあ
り、それが橘南谿の『東遊記』などで広く紹介され、また
戯曲化されて有名になりました。しかし、名立崩れだけが
宝暦の大地震でないことはいうまでもありません。
紙面の都合もあり、この地震の被害について、詳しく数
字的に示すことができませんが、まず頸城地方全般の被害
を記しましょう。
高田藩榊原領内
潰家半潰屋 九、二二一軒
死者 八六七人
行方不明 二六二人
天領新井代官所領内
潰屋半潰屋 一、五九三軒
死者 四四四人
天領真砂代官所領内
潰屋半潰屋 二、〇二〇軒
死者 一一八人
天領川浦代官所領内
潰家半潰屋 二、八六二軒
死者 一〇九人
合計
潰屋半潰屋 一五、六九六軒
死者(行方不明とも)一、八〇〇人
これは幕府への書上によった数字でありますが、史料に
よって多少の相違があり、実数はこれ以上のようです。
当時の天領代官所支配の村数、戸数・人口を知る史料が
ありませんが、参考のために、高田藩領内(高田・直江津
を含めて)村数・戸数・人口を次に掲げます。それと比較
して、地震被害のいかに大きかったかを察してください。
高田藩領内
村数 三二四村
戸数 一二、九六〇戸
人口 六三、四七四人
名立崩れは天領ですから高田藩領内の数には入りませ
ん。
宝暦大地震が起こった当時の前後の模様をしばらく見ま
しょう。大地震のある時には、不吉な前兆があると、伝説
や「地震[口説|くどき]」にも現われていますが、宝暦の地震にも名
立崩れにも同じことです。
「前年の暮から大雪となり、明けて一月二十八日には赤
い雪が降った。三月中旬には大南風が続き、さしもの大雪
も一度に消えた」というのであります。赤い雪は不吉な自
然現象で、悪い前兆だそうですが、私には分かりません。
当時の正しい記録を福永十三郎の書上によって見ましょ
う。
四月二十五日夜八ツ時大地震ニ付潰屋死人多ク其上大地
一二尺所ニヨリ五六尺相割レ水噴出シ井戸水三四尺ツツ
吹出し為ニ町内一二尺水湛へ、津波ノ由ニテ町中ノ者不
残砂山へ逃登ル頸城郡内ニテ出火十五ケ所相見エ候夜明
ケ迠惣テ震止マズ………生死ノ程モ難斗候ニ付念仏ノ声
ノミ人心地ハ無之候御宮ニテ火盗ノ祈禱申付候(以下省
略)
二十六日の朝になって、ようやく震え止まりましたが、
つぶれ屋が多く、下敷きになった人を助け出すのに大騒ぎ
となりました。倒れない家でも、いつ余震が来るか分かり
ませんから、町中小屋をかけて数日難を避けました。
大災難の時は食糧が問題です。直江津大肝煎所では、す
ぐ津留めといって商人米の船積みを禁止して、食糧を確保
し、商人が暴利をむさぼらないように、値段を指定して立
札を立てました。
一、米一升ニ付代三拾三文
一、油一合ニ付代三拾文
一、金一分ニ付銭一〆七十六文
米座を設けて、一日に三十俵か五十俵より売らないよう
に、また買いだめを防ぐために、一軒につき一斗以上売ら
せないことに決めました。
八十年前、高田藩小栗美作の指揮によって、荒川の川ざ
らいをして大きな船が自由に高田まで通船できるようにな
り、港口には千石船が入港できたのに、地震のため川口が
変わって浅瀬となってしまい、二百石船さえ入港できない
有様となりました。
宝暦大地震直江津町被害表
町名死者けが人家屋くずれ半くずれ破損くずれ土蔵半くずれ土蔵無難
新町寄町川端町片原町中町中島町横町板井町本砂山町真砂山町来泊者二四一〇一一四二二〇〇〇一一(各町の数不明)二三五一七五一八七四三四二五三五一三三三五七四二六三一五二五三一三三五七二八(各町の数不明)(各町の数不明)〇〇〇三七〇二二〇二三四四三九
計四七三九三二一三八四二〇二〇一六五
港の修復は大工事で、直江津はもちろん高田藩の手にさ
えおえません。宝暦の地震より三十五年を経てから、大肝
煎福永彦左衛門里方の活躍によって、高田藩より幕府へ請
願し、国役普請(国費)をもって天明八年(一七八八)に
完成しました。(詳細は拙著『越後府中文化』)
宝暦の大地震について、上越後各村の被害を示すことが
できませんが、直江津と高田、また有名な名立崩れの惨状
だけでも知っていただきたいと思います。まず直江津につ
いて次の表をご覧ください。
この表によって、直江津では当時八百七十戸のうち無難
であった家屋が百六十五戸で、全町八割の家がつぶれたり
壊れました。また当時の人口三千七百九十一人のうち死者
三十六人ですから、百人に一人が死んだことが分かります。
光明寺・延寿寺は本堂庫裡ともにつぶれ、聴信寺・林覚
寺・龍泉寺観音寺などは客殿庫裡がつぶれ、本堂が無事で
した。(「御用留帳」より)
高田は各町内のことが分からないので表に示すことがで
きません。また史料もまちまちで、正確なことは不明です
が、おおよそその被害数字を掲げておきましょう。
死者 武士(足軽とも) 三三人
〃 町人 三二九人
怪我人 一五人
潰家武家(足軽長屋とも) 一二八棟
武家半潰大破 一三七棟
町家潰家 二、四九六棟
町家半潰大破 八九五棟
土蔵潰れ 四六か所
土蔵半潰れ 一五〇か所
社家潰れ 五棟
寺院本堂潰れ 三八か寺
〃 大破 三一か寺
山伏堂潰れ 八
高田城も本丸はじめ二の丸、三の丸、大手など数十カ所
に破害がありましたが、省略します。なお市内三カ所から
出火したといいますが、町名も類焼戸数も不明です。
宝暦の大地震については、江戸時代の地震番附表にも載
せてあるほどで、その影響は越中・信濃にまで及び、死者
総数二千余という大地震ですから、学界としても、詳しい
記録を望んでいます。
地元であるわが上越市としても後世のため、できるだけ
多くの史料を集め記録しておきたいものです。
宝暦地震の災害の最もはなはだしかった名立崩れを説く
前に、県下各地の状況を、のぞいて見ましょう。
柏崎では、「町中、いづれも壁落ち、柱三、四寸づつ入
込み、永徳寺門前家潰れ、六平女房死す。四ツ屋にても家
潰れ人死す……」と、「納屋町記録帳」にあり、これは、
柏崎町の一部分でしょうがつぶれ家があり、死者も出てい
ます。
鉢崎関所では、佐渡産金を江戸へ輸送する時に預かる大
切な御金蔵が大破し、また関所付近で二百間の地滑りがあ
り、海岸通り三分の一は山下となり、馬足が止ったといい
ます。(『柏崎史誌』より)
下越地方は、文政十一年(一八二八年)十一月十二日の
三条大地震ほどでもないが、新発田藩領内の中之島地内だ
けでも、潰家三十一軒、半潰れ七十二軒、潰土蔵十三戸前
といわれています。(「新潟市史」より)
地震前後の模様は、時刻も余震のあったことなども、上
越地方とほとんど変わりがありません。
宝暦の大地震といえば、すぐに名立崩れというほど有名
ですから一言触れてみましょう。山崩れのあった場所は北
国街道名立小泊の裏山で、長さ十一町四十八間にわたって
大小の岩石が山の如く押し出し、全村を埋没したのです。
全村寺社とも九十二軒、人口五百二十五人のうち、民家
八十二軒、寺一、社家一、土蔵五つを土の下に埋め、潰屋
四軒、半潰れ三軒で埋没者は四百六人(うち三十人死骸発
見)、寺方五人、社家一人、宿場泊り旅人多数、埋没馬十
頭、埋没漁船三艘となっています。(小林家文書による)。
漁船の埋没数の少ないのは、出漁中の十艘ほどが助かった
からです。幸運にも庄屋池垣右八は公用で梶屋敷へ出張し
助かったので、詳しい記録をとどめることができました。
宗龍寺の地中から掘り出した梵鐘と町にある埋没者供養碑
は名立崩れの忘れがたい記念物です。
生き残った名立の罹災者に領主新井代官富永喜右衛門は
次の救済の手を延べましたが、申訳程度に過ぎません。
一扶食代 金拾弐両余(二十ケ年賦貸付)
一屋敷地均費金三十四両給与
一漁船代 金二十五両余(十ケ年賦貸付)
一農具代 金十両余(十ケ年賦貸)
一税の軽減
田 二十二石余を二石九斗に
畑 九石八升を七斗八升に
船税 二貫二百匁は全免
宝暦の大地震の被災者に対して領主高田藩はどんな対策
を講じたでしょうか。藩は領内の各村々まで見分使を派遣
し、被害の実情を調べ、火難・押売りなど厳重な警告を発
して、治安をはかったことは当然ですが、窮民の救済につ
いてはどうしたでしょうか。
幕府へ要請した借入金がようやく十一月になって一万
両、十カ年返賦で届きました。藩はこのうち八千両を城内
と家中の普請にあて、残二千両を町方と在方へ千両ずつ貸
付けたに過ぎません。
『頸城郡誌稿』によれば、「藩自体から、四月二十七日に
家中に対し米と金を、町方には潰家一軒に三十八匁余、半
潰一軒に十五匁余、破損家へ六匁五分、在方の潰家一軒に
五匁ずつを与えて救助した」とありますが、どうもこれは
怪しいものです。当時の記録文書には、全然そのような藩
の救[恤|じゆつ]金のことはありません。それどころか、直江津では
幕府からの借入金の割当百五十両を受取らずに、藩へその
まま預けておきました。
高田榊原藩は寛保元年(一七四一)[播州|ばんしゆう]姫路から左遷さ
れて高田へ移ったばかりで、財政窮乏のドン底にあったの
で、藩士の禄高を半減したり「お人減らし」といって藩士
を解雇したりし、それでも間に合わず、御用金・[才覚|さいかく]金な
どの名で領内の金持ち・豪商などから強制借入れにきゅう
きゅうとしていた時代です。震災の翌二十七日にすぐ水や
救済金が間に合うはずがありません。貧乏な殿様をもった
上越の領民は気の毒なものです。
それはそれとして、上越市内には宝暦の大地震を物語る
ものはありませんが、有名な高田の「時の鐘」は地震のと
きヒビが入りましたが、今も南本町三丁目の瑞泉寺にあ
り、また寺町三丁目海隣寺には大きな地震供養碑が建てら
れています。
最後にこの大地震が社会的に大きな影響をおよぼしたこ
とを知らなければなりません。
信越国境から新井・高田を過ぎて糸魚川・富山、金沢方
面に向かう街道は北国街道といい、金沢・大聖寺・高岡・
富山など北陸地方の諸大名の参勤交代の通路を変更する時
は幕府の許可を得なければなりません。前田侯も許可を得
て江戸を立ち、中山道を回り、福井から金沢へこの年に帰
りました。地震のため道路が破損して通れなかったからで
す。
次に佐渡の産金も出雲崎―柏崎―高田―長野と江戸へ輸
送される規定ですが、この年ばかりは三国街道から輸送さ
れました。