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項目 内容
ID J0803357
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1751/05/21
和暦 寛延四年四月二十六日
綱文 宝暦元年四月二十六日(一七五一・五・二一)〔高田・越後西部〕
書名 〔九々夜話〕○新潟県「越佐叢書 三」
本文
[未校訂]一寛延四年未四月廿五日夜半、高田近辺大地震、諸所地裂
ヶ、山崩レ、町家ハ将棋倒しに而、御家中家々ハ不顚
者僅カに十ガ二、三なりし。家屋の潰るゝ事一時ニハな
けれども、震する事数度乃内に歯のゆるぐか如く、翌朝
迄に倒るゝ有、一両日をへて潰るも有りしが、其夜、町
家ハ春日町・鍋屋町・紺屋町火事三方ゟ出て、圧死之内
ニ焼死ものも有。夜明前、雨強ふりておのづと火も消に
けり。都而之人死数しらす。いつれも寝入端の事なれハ
猶更、ふと起たつ事、居事あたわず。逃去事叶わず。老
人・子共ハけがせぬハ希なりけり。その強き時ハ大地に
竹木の梢を伏、井戸の水砂を吐、誠ニ高き崖谷となり、
深谷となる。啼呟虻蚊の如く、而然地獄乃有様。其未
明、御目付役竹内又四郎、江戸へ早追ニて上られける。
其時、丹羽半三郎忰丹波常弥江戸ニ在りし。無恙出たり
と云一行を書て又四郎が駕籠へ投入たり。江戸にて家内
無恙を知る者ハ独り常弥と云。但、右一行を投入遣し候
者、滝見弥平次が心付て遣しける由也。
かゝるセ話敷場ニ而久要(急用)平生を忘れざる所感ずべし。
大手御橋にて大釜三所ニかまへ、粥を煮て往来の人々ニ
賜事也。
御家中惣躰江御陣張の渋紙拝借して急雨を防きける也。
夥敷渋紙なり。
近領之郷津村・長浜村山崩れて中ニも郷津村海中に没投
する事二百余家。此春いつゟも大雪ニて其あげくに赤雪
の壱尺斗もふり申し、是も地震の前触にやと後ニ申け
る。其むかし、寛文五年乙巳十二月廿七日、大雪の中ニ
大地震ゆへ、人死ハ此夏に倍すと云。さもあらんか、今
度御家中圧死の人々遠藤友左衛門・上野軍平是ハ成田鮫島弟也・
藤浪弥左衛門妻・加藤武右衛門妻・三島十郎妹・前田
市郎兵衛娘・原田与次右衛門妹両人・村山直三郎・高
山作左衛門・庄田杢之允・山川平内・谷口清太夫三男
此外も多ク。可有之山川平内ハ九才、直江町ニ居たりし、其節、
実ハ承塵(長押)にかゝりし長刀、鞘抜ヶ落て喉ニ中り、押かゝ
りたりとそ。さもなくハ命ニもかゝらましと悔ミける。
此児の兄六太郎十三才、疱瘡ニ而死去。親父六郎兵衛ハ
浅川在番ニ而死去也。山川家今度すてに滅却と沙汰せる
事、半年計過て今度乃大変、又、有へきにもあらすとの
厚き御思召ヲ以歟養子被 仰付、同苗十郎左衛門三男甚
五郎相続す。是山川家運の基也。
廿五日夜ゟ震る事七、八日のあひたすへて止す。其後も
安堵せざる事凡廿日余り也。いつれも竹の柱、かや簀囲
いたして地震小屋とてこゝに住居する。たとひ本屋あり
ても入らす。惣体しまり等埓なき事共なれは、近隣申
合、日夜自身番にて廻る事有。此廿五日、首斬られ候者
有、今泉橋ニて獄門に懸る。☓☓之者番ニ附居しが、地
震の節、動出けれは大ニ驚き、手を合セ、逃出しける。
暫くして震たる事を悟りたると咄し也。其頃、御勘定方
勤豊田武左衛門此前郷津浜ゟ金子借り出し、御上江も御
申立し処、今度右之者家内不残没海せしかハ、是ゟ豊田
が振廻ハし宜く成しとの咄し有。
此以前、越後守様の時、寛文五巳の十二月、大地震以後
の地震なり。
出典 新収日本地震史料 第3巻
ページ 505
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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