[未校訂] 宝永の地震から三十九年後の延享三年(一七四六)の地
震によって、加奈木の大崩壊があった。正確な記録は残さ
れていないが、中尾の上手、大森の田畑五十余町歩、人家
三十数軒が一挙に押し流され、奥地区の中心地は一瞬にし
て河原と化した。この地の住人はだんだんと下流地域へ下
って小高い所へ住み、二転三転して浦や根丸へ移住してい
った者もある。またこの洪水で、日浦にあった薬泉寺とい
う[巨刹|きよさつ]も流れ、その本尊弘法大師像十一面観音は地蔵寺へ
納めたという。ここの奥には他に見られぬ古碑が蔭(かげ)
の山中に残されており、[楓月寿照信士|ふうげつじゆしようしんし]、俗名伝六延享三丙
寅八月二十二日行年六十八才とある。
この延享の震災洪水が佐喜浜という村の生成過程、その
歴史の上に及ぼした影響は誠に大きいものがある。しか
し、それはそれとしても、延享三年の加奈木崩壊によって、
大森地区の田畑、人家全滅の通説には納得出来ないものが
ある。若しそうだと仮定すれば、この時より百六十一年前
の、天正十七年に行なわれた[所謂|いわゆる]、天正地検において、大
森数十町歩の田畑、宅地が記録されなければならないのに、
地検帳には全然それが無く、僅かに「杉カクホ」「薬泉寺
ノ下」「カケノ地」があるのみである。すなわち、天正十七
年の地検の頃には、すでに大森、日浦あたりの広大な川原
に栄えた数十町歩の田畑数十戸の人家は、すでに無かった
のである。又、延享三年といえば、徳川幕府九代家重の頃
で、藩制は確立され村役人もおれば庄屋もあり、これ程の
大事変があれば、必ずや藩庁に報告され、その記録は残っ
ていなければならないのに、何等の記録もない。思うに、
延享の地震でも加奈木の崩壊があり、田畑、家屋の流失は
確にあったが、五十町歩に及ぶ大森の流亡はそれよりも何
百年か前、歴史的には暗黒の時代に起っており、定かな記
録もなく口伝えされて来たのが、延享の地震災害と一緒に
され、後世へ伝えられて来たのであろう。中尾、植田家の
先祖の書残したものには、八百年も前に大森が流されたと
あるとの事であり、又、寛治六年(一〇九二)の記録に
「かなぎの大つえ」とあるそうであるが、いづれにせよ延
享より数百年前に起ったと見るのが至当であろう。