[未校訂]二、増山正任(まさたふ)
正任は宝永元年(一七〇四年)七月十二日封を嗣いだ。
正任は封を嗣ぐ前元禄十年(一六九七年)十二月十八日に
従五位下対馬守に叙任されている。宝永六年(一七〇九年)
に領地長島が地震、高潮などのため、実質蔵入りが少なく、
三重郡において荒地一万石余を加封されている。五拾鈴遺
響によるとこの三重郡内の領知は音羽、智積、北野、下鵜
ケ原、川北、上海老原、小杉、河島、西生桑、東生桑、浜
一色、浜田、日永、内堀、大治田、川尻、塩浜、馳出の十
八箇村で、現在の四日市市と菰野町、三滝川沿いの地域で
ある。(先代正弥の本領の外の一万石の代替地か)
長島複合輪中ができ上るころ、すなわち寛永年間末期か
ら、長島輪中の南の葭山の干拓開発が始まった。寛永十六
年(一六三九年)に鎌ケ地新田が開発されたのを始め、こ
の地域は第十六表のように、寛文年間以降すなわち十七世
紀後半の開発が多い。しかし鎌ケ地・葭ケ須・六百・赤
地・長地・豊松・福井の各新田の輪中ができたが、宝永四年
(一七〇七年)六月八日の地震、翌五年の大風高波のため
の入水などによって、壊滅的な打撃を受けたようである。
当時この輪中は前記のように天領になっていたので、幕府
は宝永七年(一七一〇年)に酒井雅楽頭・黒田豊前守・細
川熊治郎に御手伝普請を命じ、加路戸輪中・見入輪中など
とともに、この地域一帯の復旧工事をした。葭ケ須輪中は
黒田豊前守の丁場であった。この工事の状況は地図第十一
図を参照されたい。ここに葭ケ須複合輪中の形態が整った
ものと思われる。
この間宝永五年(一七〇八年)六月八日の大地震・津波の
あと、前記の葭ケ須輪中とともに、江戸幕府の御手伝普請
(当時この地域は天領であった)として、同七年(一七一〇
年)酒井雅楽頭・黒田豊前・細川熊治郎による災害復旧工
事が行われた。加路戸輪中は酒井雅楽頭の丁場、見入輪中
は前記三者の分担丁場として、工事が施行されたことは地
図第十一図を参照せられたい。
宝永四年六月八日に地震があって、多くの汰入(ママ)みを生じ
ている。翌五年にも再度地震また大風高潮が発生して和泉
や河原欠新田に入水、同六年八月にも大風高潮が起り、多
くの被害を出したようである。
(注、図及び表は省略)