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項目 内容
ID J0700184
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1703/12/31
和暦 元禄十六年十一月二十三日
綱文 元禄十六年十一月二十三日(一七〇三・一二・三一)〔関東〕
書名 〔熱海市史 上〕
本文
[未校訂]元禄大地震の惨禍
 元禄十六年(一七〇三))十一月二十二日夜中午前二時
すぎ、江戸・小田原をはじめ南関東一帯に大地震がおこっ
た。小田原では平山城とよばれる城の天守をはじめ、本
丸・二の丸と三の丸の一部の櫓や屋形が倒れ、塀・石垣・
土手も崩れた。方々から出火し、倒壊した城に燃え移り、
さしもの小田原城も城内の武器とともに一夜にしてすっか
り焼亡してしまった。小田原町をはじめ領分内外の郷村も
多数の家が倒れ、そのうえ町は出火により、半ば近くが焼
失した。当然、人畜や田畑・家財の被害もまた多大であっ
た。関八州の死者だけでも二一三、四四八人にのぼった
と、『現成院様常懐中覚書』(小田原市立図書館有信会文
庫)にしるされている。この数字には疑問があるが、相当
多数の死者があったことは推測できよう。
 小田原町の被害はなかでも大きく、[家中|かちゆう]潰家三二二軒、
同焼失家八四軒、町中潰家六〇三軒、半潰家三六軒、焼失
の町一〇町、家四八四軒、寺社・山伏全半潰焼失家四二
軒、全半潰焼失家合計一、五七一軒を数え、死没は小田原
藩家中一三七人、町中六五一人、寺社・山伏一三人で、ほ
かに家中乗馬三疋、伝馬四六疋、通馬二疋が死んだ。『貞
享三年御引渡記録集成』にしるす小田原町一九町の総家数
は一、一一一軒であるから、全滅の被害をうけたといって
よいであろう。小田原藩の豆州領分でも、死者六三九人
(男二四六人、女三九三人)、百姓潰家四七六軒、寺社全
半潰九軒となっている。
 ちなみに小田原領内総計では郷中一、四七六人、旅人四
四人を含めて二、三〇八人、死牛馬一七一疋、焼失ないし
全半潰の家は九、五四〇軒であり(『現成院様常懐中覚
書』の数字はいくらか異なる)、津浪による被害もあっ
て、元禄地震による悲惨な被害が偲ばれる。こうした災害
によって、家財・食糧を失なうものが多かったので、藩主
大久保忠増は米六四俵二斗六升三合をもって、七日間のべ
二九、三二三人の飢人に粥を施した(『近世小田原史稿
本』下巻)。
 この大地震の発生とともに、伊東・宇佐美・川奈などの
諸村には津浪がおそいかかった。熱海地方の被害ははっき
りしないが、今井半太夫の『熱海名主代々手控抜書』には
「元禄十五年午十一月二十三日(元禄十六年未十一月二十
二日の誤り)夜、大地震・津浪有レ之候為め、陸地は田
畑、海辺ハ家屋・漁猟具共流失いたし候なり」とあり、津
浪による被害がかなりあったことがわかる。網代村では災
害救助金を借用するため、江戸に詰めて、金一四七両・永
六五文を三年賦で貸し与えられている。ほかの村でも拝借
金を同様に借りたことであろう。
出典 新収日本地震史料 第2巻 別巻
ページ 280
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 静岡
市区町村

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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