[未校訂]元禄大地震の惨禍
元禄十六年(一七〇三))十一月二十二日夜中午前二時
すぎ、江戸・小田原をはじめ南関東一帯に大地震がおこっ
た。小田原では平山城とよばれる城の天守をはじめ、本
丸・二の丸と三の丸の一部の櫓や屋形が倒れ、塀・石垣・
土手も崩れた。方々から出火し、倒壊した城に燃え移り、
さしもの小田原城も城内の武器とともに一夜にしてすっか
り焼亡してしまった。小田原町をはじめ領分内外の郷村も
多数の家が倒れ、そのうえ町は出火により、半ば近くが焼
失した。当然、人畜や田畑・家財の被害もまた多大であっ
た。関八州の死者だけでも二一三、四四八人にのぼった
と、『現成院様常懐中覚書』(小田原市立図書館有信会文
庫)にしるされている。この数字には疑問があるが、相当
多数の死者があったことは推測できよう。
小田原町の被害はなかでも大きく、[家中|かちゆう]潰家三二二軒、
同焼失家八四軒、町中潰家六〇三軒、半潰家三六軒、焼失
の町一〇町、家四八四軒、寺社・山伏全半潰焼失家四二
軒、全半潰焼失家合計一、五七一軒を数え、死没は小田原
藩家中一三七人、町中六五一人、寺社・山伏一三人で、ほ
かに家中乗馬三疋、伝馬四六疋、通馬二疋が死んだ。『貞
享三年御引渡記録集成』にしるす小田原町一九町の総家数
は一、一一一軒であるから、全滅の被害をうけたといって
よいであろう。小田原藩の豆州領分でも、死者六三九人
(男二四六人、女三九三人)、百姓潰家四七六軒、寺社全
半潰九軒となっている。
ちなみに小田原領内総計では郷中一、四七六人、旅人四
四人を含めて二、三〇八人、死牛馬一七一疋、焼失ないし
全半潰の家は九、五四〇軒であり(『現成院様常懐中覚
書』の数字はいくらか異なる)、津浪による被害もあっ
て、元禄地震による悲惨な被害が偲ばれる。こうした災害
によって、家財・食糧を失なうものが多かったので、藩主
大久保忠増は米六四俵二斗六升三合をもって、七日間のべ
二九、三二三人の飢人に粥を施した(『近世小田原史稿
本』下巻)。
この大地震の発生とともに、伊東・宇佐美・川奈などの
諸村には津浪がおそいかかった。熱海地方の被害ははっき
りしないが、今井半太夫の『熱海名主代々手控抜書』には
「元禄十五年午十一月二十三日(元禄十六年未十一月二十
二日の誤り)夜、大地震・津浪有レ之候為め、陸地は田
畑、海辺ハ家屋・漁猟具共流失いたし候なり」とあり、津
浪による被害がかなりあったことがわかる。網代村では災
害救助金を借用するため、江戸に詰めて、金一四七両・永
六五文を三年賦で貸し与えられている。ほかの村でも拝借
金を同様に借りたことであろう。