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項目 内容
ID J0700148
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1703/12/31
和暦 元禄十六年十一月二十三日
綱文 元禄十六年十一月二十三日(一七〇三・一二・三一)〔関東〕
書名 〔鋸南町史〕
本文
[未校訂] 元禄十六年(一七〇三)十一月二十三日の大津波は、地
区の被害としては史上最たるものであった。隣町高崎部落
の名主の記録に、「夏ハひでり、秋ハもなかに風もなく、
初冬十一月下旬の廿二日天ハ日に赫き空も晴れ、よくなぎ
て海上も波浪静かに、日も暮れて夜の九ツ時分(十二時
頃)、俄かに地震ゆるぎたて皆家ごとに寝静まって居た事
故、起き上ろうとしても、起きてはころび、起きてはころ
び……」とある。
 津波による死者は保田浦だけで実に三一九人といわれ、
別願院に葬り、吉浜浦では万灯塚に、勝山浦では千人塚に
葬った。妙本寺大門前現在の国道一二七号線の下に、数町
歩の地積があったが田地のみでも字苗代町中田十一筆二反
六畝余の内八筆字仏崎下田一筆欠壊、他もほとんど押流さ
れた。(渡辺家文書)又大帷子通称「ノメラのハナ」を中
心として、吉浜・大帷子・本郷各村を通じ宅地を含めて大
約三町歩余の芝地、畑地が流失し、元名根本海岸では一町
余歩の耕地が欠壊流失したもののようである。(宝永七年
裁許絵図面)。
 勝山では浮島の岩角崩壊、陥没もあり、仁浜地先では海
が近く危険となり、加知山神社移転の端緒となった。
 保田の、浜名主も死亡し、勝山、醍醐氏の子息も、乳母
と共に溺死、前記、高崎文書は、「十日、十五日の内は、
海辺死人数多海からより、昼夜犬共、かふべ、手足をくひ
ちぎり、門戸口迄もくわへあるき、おそろ敷て、浜へも不
被出、中々見るも思ひ也」と、惨状を記している。
 津波の波先は、高崎神社位まで、とあり、これから推定
すると、保田では本郷御霊付近位までか、保田川に沿う低
地部では、上埋田付近まで及んだかも知れない。地震後南
房海岸は五m程の隆起とあるが、当地方では地先の波欠け
記録により、二mの沈降と考えられる。
出典 新収日本地震史料 第2巻 別巻
ページ 238
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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