[未校訂] 元禄十六年(一七〇三)十一月二十三日の大津波は、地
区の被害としては史上最たるものであった。隣町高崎部落
の名主の記録に、「夏ハひでり、秋ハもなかに風もなく、
初冬十一月下旬の廿二日天ハ日に赫き空も晴れ、よくなぎ
て海上も波浪静かに、日も暮れて夜の九ツ時分(十二時
頃)、俄かに地震ゆるぎたて皆家ごとに寝静まって居た事
故、起き上ろうとしても、起きてはころび、起きてはころ
び……」とある。
津波による死者は保田浦だけで実に三一九人といわれ、
別願院に葬り、吉浜浦では万灯塚に、勝山浦では千人塚に
葬った。妙本寺大門前現在の国道一二七号線の下に、数町
歩の地積があったが田地のみでも字苗代町中田十一筆二反
六畝余の内八筆字仏崎下田一筆欠壊、他もほとんど押流さ
れた。(渡辺家文書)又大帷子通称「ノメラのハナ」を中
心として、吉浜・大帷子・本郷各村を通じ宅地を含めて大
約三町歩余の芝地、畑地が流失し、元名根本海岸では一町
余歩の耕地が欠壊流失したもののようである。(宝永七年
裁許絵図面)。
勝山では浮島の岩角崩壊、陥没もあり、仁浜地先では海
が近く危険となり、加知山神社移転の端緒となった。
保田の、浜名主も死亡し、勝山、醍醐氏の子息も、乳母
と共に溺死、前記、高崎文書は、「十日、十五日の内は、
海辺死人数多海からより、昼夜犬共、かふべ、手足をくひ
ちぎり、門戸口迄もくわへあるき、おそろ敷て、浜へも不
被出、中々見るも思ひ也」と、惨状を記している。
津波の波先は、高崎神社位まで、とあり、これから推定
すると、保田では本郷御霊付近位までか、保田川に沿う低
地部では、上埋田付近まで及んだかも知れない。地震後南
房海岸は五m程の隆起とあるが、当地方では地先の波欠け
記録により、二mの沈降と考えられる。