[未校訂]大火事大地震の事
其頃江戸に火柱と云もの有たり、晩七ッ過ゟ初北之方ニ見
へたり山の根より空へ弐丈斗赤く幅二尺斗ニ見へたり、南
の方へ倒れて其火柱日を追て南へ〳〵と廻りけり、火事夫
ニ随ひ三月初本郷の末より焼出し小日向を焼、其次に小日
向ゟ出て四日市迄焼、其次本村ゟ焼出青山、赤坂迄焼、其次
麻布竜土ゟ焼出品川本宿迄焼たり、日数四十日斗火柱に随
て北より南へ焼て火柱日柱見へず、勿論其頃は大事繁き江
戸なれハ火柱に随ひ焼たるハ気のへりたる事也、南の方ニ
てハ火事の来るを待て居たり然るに、其年霜月廿三日夜丑
の刻江戸大地震ニて諸大名の屋敷〳〵ハ云に不及、町〳〵
ゆり倒れ男女死人怪我人夥敷、水戸殿御門前二百間斗倒れ
たり、浅草観音の塔九輪折れて大地へ落、神社仏閣大きに痛
ミ、御城ハ数ケ所御櫓土台より倒れしも有、二重三重目ゟ
震ひ崩れしもあり、大手桜田御門大きに傾き鉄を以巻たる
御門の柱さけ、弐十間余の棟木震り打御堀水往来へ打上け
たり、御本丸西の丸ハ慥ニ不知、惣して江戸中の見付〳〵
残りなく御多門ハ崩れたり、此節一位桂昌院様押ニ打れ御
逝去なりと云ふ併し深く隠して翌年二月廿三日御逝去の沙
汰に及ふ、其夜甲府様外桜田御屋鋪御厩ゟ出火し五十間余
里焼失たり御殿ハ別条なし、焼死人大勢の由、此地震ゆり
出の強き事右の如くニ而地震止事なく昼夜十五六度也、日
数立ニ随ひ少〳〵ゆるといへ共初の地震ニ手こりして上下
共庭に仮屋を作りて本家に居られず、箱根にてハ大石抜ケ
出往来をふさき、翌年上杉弾正へ往環道作り抜石取捨の御
手伝被仰付けり、其節狂哥に
此度ハ箱根の山の御手伝ひ
又大石にこまる弾正
江戸初りての大地震にて人々薄氷を踏む思ひをなしけり、
同廿五日水戸宰相殿奥長庵ゟ出火して折節大風烈しく吹
立、三方ニ別れ大火と成る。一方ハ鳶坂ゟ本郷江焼上り加
賀殿柳原を始として湯嶋天神、神田明神、聖堂やく、其比丘
夫ゟ神田残らす東叡山、谷中、三崎、下谷、浅艸雷門を限
り夫ゟ駒形、竹町、聖天町、山谷迄焼たり。一方ハ小石川
ゟ小石町へ焼、筋違橋へ入須田町、田町ゟ豊嶋丁へ広がり
夫ゟ本丁、石丁初め下町残らず、一口ハ八丁堀、鉄炮洲、
霊巌嶋、佃嶋ゟ深川八幡迄焼。一口ハ伝馬丁、堺丁、浜
丁、河岸残らす両国橋迄焼落死人三万人の余有之、死がい
を河岸に積上て見るに身の毛もよたつ斗也、火事ハ本所へ
飛、石原、亀戸ゟ四ッ目通り五百羅漢、猿江迄焼たり。五
十年已来の大火也、是を水戸様火事と云、狂哥に
猿楽や田楽斗お好ゆへ
水戸宰相味噌を付たり
本郷加賀宰相殿屋敷八丁四方の積りにて広大成る屋敷也、
右之通の大火故江戸中の職人諸弟へ頼まれ勿論材木屋も売
切たり、加賀殿屋敷早速板かこひ可有所右の通り広大なる
屋敷故板材木大工木挽手づかへ半年斗かこひ無之、天下に
壱人の大録殊に金持の沙汰を得たるに無其儀又細川越中守
殿ハ隠れなき摺切ニ而、出入の町人に一切払無きに付世上
の沙汰止時なし、又吉良上野介去年最期の躰甚た未練也笑
草也依之其頃のかる口に
いて其頃の恥かきハ梅鉢九やうに桐のとふ加賀ニかこひ
なし越中ニ払ひなし上野に首なし合せて三人衆行焼に火
をとかし辻番かしこまつて候
霜月廿三日ゟ江戸中の騒動大方ならす、如此凶事なれハ翌
正月ハ恵方から万歳来ると祝ひ直し、元録十七年の三月朔
日ゟ年号改り東叡山の桜も色増り、亀戸の藤の花も時めき
替らぬ江戸の繁昌也、然に改元有て間もなく紀州の鶴姫君
様御急病ニて御逝去也、将軍秘蔵の姫君故御歎きの(カ)程さこ
そと思ひ知られたり、江戸ハ申ニ不及諸国鳴物停止元録十
七年宝永と改たまるを(下略)