[未校訂](耳の垢)
能代大地震之記
元禄七年三月の頃、羽陰秋田の内野代の西の方平沙渺々
たる浜、菅まじりに一夜に朽木あらわれて、其の長さ五丈
斗り、太さ三かゝへ程あり。高砂の渺々たる所に斯様の物
あらわれたる事珍しき事に思ひて、日毎に見物の人引きも
切らず有りける。
同じき五月廿七日辰の刻斗りに大地震振りかゝり、あわ
やといふ程あれ、大家小家一度に崩れて平地のごとく成
り、地は五尺斗り宛裂けて黒き水迸り出で、火八方より出
て千五百軒の在処黒けむり一度におし揚りければ、さしも
よかりし天気も真くらやみに成りて、親は子を知らず子は
親を知らず、兄弟主従たれか別たん桁梁に打ちひしがれて
死し、内に居たる者の出べき方なきは生きながら焼死、或
は足を物にさしはさまれて出べき方なく、火既におしかゝ
れば生きながら焼死し、又腕を打ちすゑられて出る事もな
らず死する者もあり、たま〳〵逃れし者は屋根石に頭を割
られ、腕を折り足をくじき疵付く者数を知らず。
内に居たるは、壁をうがち屋根を破り窓よりくゞり出な
どして、男女共にあか裸にて逃れ出る有様何にかたとへ
ん。男女老少おめき叫ぶ声、叫喚焦熱もかくやらんと覚え
し。中にもあはれに聞えしは、何がしといふ者有りける。
漸く壁をうがちて逃れ出けるが、母の出ざりければ悲しく
思ひて、我がくゞり出し穴よりくゞり入りて見れば、母は
大なる梁に腰をさしはさまれて居たり。よりてとかくして
引出さんとする中に、猛火おしかゝりて、親子共に重なり
伏して焼死にけり。
又十五六斗りの娘大なる材木に打敷かれて居たり。かの
娘の乳母、屋根の棟を穿ちて這々出で見れば娘は答へざり
けり。時に猛火おしかゝるに、乳母、此の人死して我生き
て何かせんとて引返し、這入りて娘に抱き付きて共に焼死
にけり。此の二人の者忠と孝とに死せし事、誠に不便の至
り也。
唐元之世に台叔齢が妻、地震之時叔齢物に圧れて逃れ兼
ねたり。時に火出でたり。妻急に火中に入りて、手と手を
とり組みて焼死したり。この事唐にも称する事なればこそ
文にも書留めたれ。此の二人の者叔齢が妻の志に劣らん
や。
又爰に六十斗りの婆々あり。兼而中風を煩ひて腰ぬけて
ありけり。此の地震にゆり出されて、門口に漸々いざり出
て居たり。火は後より燃来るにいかゞせんと思ひ居たる所
へ、盲目一人杖もなく四ツ這ひにはひて泣き叫び乍ら来れ
り。婆々が曰く、目くら殿我を負ふてよ。さもあらば我道
を教へんと云ひければ、盲目這寄りて婆々を負ひけり。婆
々負はれながら、左よ右よと道を教へける程に、難なく二
人ながら危き命をのがれて死なざりけり。盲人は婆々の目
を借り、婆々は盲人の足を借りてのがれけるなり。海月
の、蝦の目を借りて水中を行くと同じ。
辰の刻に震崩されて半時斗りの内に一宇も残らず焼びた
り。五日、六日の程は油蠟燭もあらず。垣生株や菰のむし
ろの片すみにあへぎ居て、暗きより暗きに入る心地せり。
屋敷々々には焼残りたる屍みち〳〵て、誰覆ふ者もなけれ
ば、目もあてられず哀れなり。焼株椽をとりて庭裏背戸と
も云はず焼立てたり。奠茶奠湯下火拈香もあらばこそ、聞
くにさへ哀れ也。
鴨長明が方丈の記に地震の事書きたるは物にもあらず覚
えし。つら〳〵思へば、彼の平沙に現じたる朽木は此の災
を示すなるべし。風木とて必ず動くものなれば、この前表
なりけりと知らざるこそ浅ましけれ。泥垣経に曰く、地在
水上、在風上、風動揺地とあり。されば地裂けて水をほと
ばしらしむるも、むべなる哉。史記曰、陽伏而不能出、陰
迫而不能蒸、於此有地震といへり。これ陽気下に有りて陰
気これを塡ぐ也。陽気のぼる事を得ず、此に於て地震ふと
云ふ。(巻二十八)
(注、同類の史料は「能代市史稿第四輯近世ノ下」「日
蔭草 新秋田叢書第八巻」にもあり)