Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J0602324
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1683/06/17
和暦 天和三年五月二十三日
綱文 天和三年五月二十三日(一六八三・六・一七)〔日光〕江戸⇨二十五日
書名 〔日光市史 中〕
本文
[未校訂]天和大地震と修復
 天和三年(一六八三)四月五日、日光山に地震があっ
た。六日日光山家光廟霊位遷座初夜、七日に後夜が行われ
た。五月十七日早朝地震があり、辰上刻(午前七時頃)大
地震が起こった。この日の地震は深夜までに三七度、在番
目付有馬宮内則故が東照宮・大猷廟を巡見し、二十一日有
馬則故代駒井次郎左衛門が登山した。二十三日辰中刻(午
前八時)大地震があり、東照宮・大猷廟の石宝塔の九輪、
慈眼大師石塔の九輪が揺れ落ち損壊した。また御宮・御堂
の石垣・石矢来、仁王門左右の石垣、御殿・本坊惣石垣そ
のほか山中坊舎の石垣が崩壊した。この日の地震は八九回
もあった。翌二十四日巳刻(午前十時)大地震が襲い、諸
人は途方に暮れた。東照宮・大猷廟宝塔の笠石が損壊し、
諸大名献上の石燈籠が残らず倒れ、御宮・御堂・御殿・慈
眼堂・本坊ならびに寺院の石垣が崩れた。翌日の寅刻(午
前四時)までに一九六回、赤薙山の北が大崩れした。二十
五日上使保田甚兵衛宗郷が到着し、御宮・御堂・御殿など
を見分した。同日は卯刻(午前六時)より翌寅刻までに地
震が四一度あった。上使若年寄堀田対馬守正英が二十六日
到着、御宮を見分した。同日は一七度、二十七日正英は御
堂や所々を見分して江戸に向かった。二十八日地震の祈禱
として東照宮で大般若転読が行われた。十七日から閏五月
一日までに実に四三五回の地震があった。門主の命により
閏五月二日天下安全の祈禱として、新宮拝殿において法華
八講を修し、別所において一坊が柴燈護摩を勤めた(日光
山旧記)。
 閏五月六日、奏者番松平備前守正信・使番保田宗郷・山
下五郎右衛門昌勝が日光山地震後の修理奉行を命じられ
た。九日三人と大工頭鈴木長兵衛・被官二人・大工棟梁鶴
飛騨が日光に参着し、十日巡見して十八日帰府した。二十
七日日光山修理助役が命じられた。御宮(『徳川実紀』に
本坊とあるが誤り)は陸奥二本松丹羽若狭守長次・同磐城
平内藤左京亮義泰・同弘前津軽越中守信政、仏殿(大猷
廟)・大師堂・本坊は信濃松代真田伊豆守幸道・出羽新庄
戸沢能登守正誠である。翌二十八日日光修理の遷宮・遷座
は寺社奉行坂本内記重治が沙汰することを命じられた
(『徳川実紀』)。
 六月八日代官市川孫右衛門・樋口又兵衛が、ついで九日
日光門主が到着、十一日御宮宝塔本尊を本社内陣へ外遷
座、十八日東照宮神霊と奥院本尊を仮殿へ外遷宮、十九日
御堂(大猷院)廟塔本尊を本堂へ外遷座した。七月二十四
日御宮・御堂普請御用として保田宗郷・山下昌勝・鈴木長
兵衛・被官らが到着し、二十五日惣奉行松平正信と手伝大
名五人が登山した。二十八日御宮奥院鍬始・二十九日御堂
宝塔の普請始があった。このたびの普請は大地震で破壊し
た石造宝塔を銅の宝塔に造替するのであり、鋳物師は椎名
伊予、八月久次良村東の作事場で鋳立て始めた。
 九月一日寅下刻(午前五時前)また大地震があり、過半
でき上った普請のうち惣石垣がすべて崩落したが、御宮・
御堂は無事であった。そこで地震上使として三日朽木和泉
守則綱が到着するとともに、助役大名が次々と登山した。
普請も完成に近づくと、二十二日普請上使阿部豊後守正武
が到着、普請場所を見分して二十五日帰府した。
 十月十日宝塔地盤の唐金を丹羽長次方が、十一日胸筒を
内藤義泰方が、そして十二日七尺五寸四方の宝塔の屋根を
津軽信政方が曳いた。道筋は久次良村より蓮花石・安養沢
を通り、三仏堂東南より奥院へ掛橋を作って引き上げた。
 十月十九日宝塔造替の功により、保田・山下は叙爵をゆ
るされ、保田は美濃守、山下は信濃守と改め、従五位下に
上った。十一月一日上使堀田下総守正仲が登山し、普請場
所の見分を行った。三日宝塔供養のため、奉行として寺社
奉行板倉伊予守重形が到着し、津軽・内藤・丹羽の三大名
も到着した。
 十一月六日宝塔地領安鎮修法があり、七日仮殿より正遷
宮の儀式があって、高家吉良上野介義央が代参し助則の太
刀と馬一疋が進献された。八日本社法事、九日宝塔供養が
行われた。八日に御堂方助役大名真田・戸沢の二人が到着
した。十日御堂宝塔安鎮修法あり、十一日御堂正遷座があ
って、土岐出羽守頼晴が代参した。十二日御堂宝塔供養が
あり、板倉重形から法事布施として、門主へ銀三〇〇枚、
一荷二重、衆僧へ銀五〇〇枚、読経の衆僧・社家・楽人・
諸役人に鳥目三〇〇貫が渡された。かくして大地震の修復
は成ったのである(日光山旧記・『徳川実紀』)。崩壊した
石造宝塔や唐門の遺構は奥院左手上の杉木立中に埋もれて
いた。現在みる銅宝塔はこの時建立されたものである。
 十一月二十一日、日光山宮殿修理成功により、惣奉行松
平正信に三原の刀、使番保田・山山に各金一〇枚を給い、
真田・戸沢・津軽の助役大名が拝謁した。十二月二日助役
の丹羽・真内・内藤・戸沢・津軽の家人に時服・羽織・銀
が下された。日光山入仏をもって六日日光門跡天真法親王
を饗応して猿楽(能楽)を催し、また奇楠香一木をつかわ
した。十二日宝塔を鋳造した銅工椎名伊予に金三〇〇枚、
その他の工人にも銀が下された(『徳川実紀』)。
出典 新収日本地震史料 第2巻
ページ 414
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 栃木
市区町村 日光【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る

検索時間: 0.002秒